みずほ総合研究所 上席主任エコノミスト 西川珠子
2016年の世界経済は、波乱のスタートを切った。中国株の急落をきっかけに世界同時株安が進行し、原油相場(WTI)は一時30ドル/バレルを切る水準まで下落した。「中国景気減速」と「原油安」は、これまでも世界経済の懸念材料となってきたが、年明け以降は新たに「米国景気の失速懸念」が台頭し、世界経済の先行き不透明感が一段と強まった。米国景気は、それほど失速を懸念すべき状況にあるのだろうか。
米国は、いまなお息の長い景気拡大局面にある。いわゆるサブプライム(信用力の低い家計向けの住宅ローン)問題に端を発する金融危機は、1年半に及ぶ景気後退をもたらしたが、ゼロ金利と量的緩和という積極的な金融緩和策の発動等によって、景気は回復から拡大に向かった。米国の実質GDPの水準は、危機前のピーク(2007年10~12月期)を100とすると、2015年10~12月期は110まで拡大している。日本やユーロ圏が、危機前のピークとほぼ同水準で未だにもたついているのに比べると、米国は順調に成長軌道へ戻ったといえる。危機の震源となった住宅投資は、危機前の水準をなお下回っているものの、個人消費、設備投資が景気をけん引している。一時は10%を超えていた失業率も、足元では4.9%(2016年2月)まで低下するなど、雇用情勢は着実に改善している。
一方で、循環的には、景気が下降局面に入ることが意識されてもおかしくない時期に来ていることも事実だ。金融危機後の景気拡大局面は、2016年3月で81カ月に達し、戦後(1945年以降)平均の58.4カ月を大幅に上回り、前回(2001年11月~2007年12月)の73カ月を超えている。
実際、景気減速の兆しは存在する。実質GDP成長率(前期比年率)は2015年4~6月期をピークに年後半は鈍化傾向が鮮明になり、10~12月期は1.0%にとどまった。製造業の業況を示すISM(米供給管理協会)指数は、改善・悪化の境目である50を下回る状態が続いている。
米国景気の減速は、「中国景気減速」と「原油安」の影響から、米国も逃れられないことを示している。中国向け輸出は全体の8%にすぎないが、中国景気の減速は資源価格の下落圧力となる。資源輸出国であるカナダ・中南米向け輸出は45%を占め、米国の輸出低迷の主因となっている。中国を中心とした新興国経済に対する不安は、新興国からの投資資金の逆流によるドル高要因ともなっており、輸出採算の悪化や為替差損発生による企業収益の悪化につながる。中国景気減速の間接的な影響には、注意が必要だ。
また、米国にとって原油安は、ガソリン価格の低下による実質購買力の向上やエネルギー輸入の減少などにつながるため、そのメリットは小さくない。しかし、シェール革命により原油供給国として米国が台頭しつつある今、原油安によるエネルギー投資削減という負の影響も大きくなっている。リグ・掘削関連投資は、2015年に入り減少が続き、設備投資の下押し要因となっている。原油安が株安と連鎖する傾向が強まっていることで、家計にとっての原油安の恩恵を、逆資産効果が減殺してしまう側面も見逃せない。
景気の下振れリスクを抱え、金融政策は難しい舵取りを迫られている。米連邦準備制度理事会(FRB)は2015年12月、7年にわたったゼロ金利を解除した。2013年5月にバーナンキ前FRB議長が量的緩和の縮小に言及して以降、新興国を中心とした金融市場の混乱が続くなかで、時間をかけて米国のみならず海外経済にも目配りしたうえでの、満を持しての政策変更だった。しかし、年明け以降の金融市場の一段の不安定化を受けて、当初は3月に実施されるとみられていた追加利上げは見送られた。
仮に米国景気の失速懸念が現実のものとなるようなことがあった場合、金融政策による対応には限界がある。連邦準備法は、マイナス金利を想定しておらず、FRBが日欧のようなマイナス金利政策を導入するには法的なハードルが高い。おのずと政策対応は財政政策頼みになる可能性があるが、11月の大統領選挙を控えるなか、オバマ政権がまとめる対策が共和党議会でスムーズに通るとは期待しにくい。また、米国景気の失速は世界連鎖不況につながりかねないため、主要国の政策協調が欠かせないが、内向き志向を強める米国の次期大統領がその陣頭指揮を執ることができるのかは不透明だ。
幸いにも、3月に入り「中国・原油・米国」の三大懸念材料に対する過剰な悲観論は後退している。中国の預金準備率の引き下げや二兆元投資策の発表、産油国の増産凍結観測を受けて、株安・原油安には歯止めがかかった。米国の経済指標では、ISM指数がやや上向くなど明るい兆しがみられたことから、景気失速懸念は和らいでいる。ただし、予断は許さない。大統領選挙の行方次第では、政策運営が混乱することへの警戒から、米国が世界経済にとって「最大の懸念材料」となりかねない点には留意が必要だ。