認定NPO法人緑の地球ネットワーク事務局長
高見邦雄
【九年は旱で一年は大水】
緑の地球ネットワークが緑化協力を続ける山西省大同市の農村に、「高山高」という民謡がある。「靠着山呀,没柴焼.十箇年頭,九年旱一年澇…」(山は近くにあるけれど、煮炊きに使う柴はなし。十の年を重ねれば、九年は旱(ひでり)で一年は大水…)。自然条件と生活の厳しさを人びとは歌い続けてきた。漢字ではたった16文字だが、この地方の問題点をみごとに歌い込んでおり、それは22年通い続けた私の実感でもある。
その後段をみてみよう。年間降水量は平均400mmだが、600mmを超す年がたまにあり、1995年がそうだった。7月中旬まで厳しい旱魃だったが、下旬になって雨が降りだし、普通なら9月半ばには降りやむのに、この年は10月まで降り続けた。土造りの住居=窰洞の屋根や壁に雨水が浸透して次々に倒壊し、大同では6万世帯24万人が被災する惨事になった。
そのような年は例外で、雨のない年が圧倒的に多い。たとえば1999年は「建国以来最悪の旱魃」と言われた。トウモロコシは蒔いた種ほども収穫できず、黄土丘陵など高所の畑は種を蒔くのを諦めたところが多かった。中華人民共和国の成立からちょうど50年の年だから、「50年に1度の旱魃」と言ってもいいだろう。2年後の2001年はそれに輪をかけた旱魃で、夏になっても茶色のままの山が連なり、「100年に1度の旱魃」と言われた。50年に1度、100年に1度の旱魃がきびすを接してやってきたのである。それらの年の降水量は200~250mmに落ち込んだ。
【大小の河川から流れが消えた】
大小の河川から水が消えている。桑乾河は山西省西北部の管涔山に発し、大同市の中央部を西から東に横切る。省道203号線が大同県で桑乾河を渡るのが固定橋であり、私はここを通るたびに水量を確かめ、写真を撮ってきた。1997年7月、付近の農民がヒツジの群れを濁流に追い込み、体を洗わせていたのが流れをみた最後で、それ以後、流れは消え、乾ききっていることも少なくない。
その少し上流の応県では、河底の全面がトウモロコシ畑になっていて、水の流れる余地がない。ここでも通りかかるたびに写真を撮っているが、2012年夏、ここで耕作していた農民に追いかけられた。トウモロコシ畑の奥でスイカが栽培されており、私はスイカ泥棒と間違えられたのである。この場所で護岸のためにポプラを植えたのは1993年春だったが、その夏に苗木の根元を濁流に洗われたことがある。それらのポプラは育ってきたが、水は涸れてしまった。
地元の人の話では、水の減少は急にきたようだ。大同市街地の東端を北から南に流れる御河は桑乾河の支流のなかでも大きなもので、30年前には水量が多く、徒歩ではとても渡れなかったという。いまは流れが完全に消え、両岸の公園のためにプールのように堰をつくって、市内の汚水の処理水を貯めている。
大同市内の古刹・善化寺に、少し前まで鉄製の牛の像が置かれていた。明代のもので、氾濫を繰り返す御河を鎮めるために、御河の西岸に据えられたのだという。いまは公開に備えて大同市の博物館に移されている。水を司る龍に対抗するのは、洋の東西を問わず雄牛なのである。
【農村の井戸掘りに協力する】
旱魃の1993年、天鎮県孫家店郷にある11の村のうち、1人あたり穀物生産高が200kgを超える村は4つで、293~528kgだった。その4つとも地下水による灌漑が可能な村である。5つの村はわずか39~79kgだったが、それらの村は灌漑がほとんどできない。成人1人の生存に最低限必要な穀物は年間200kgだが、それを得るには灌漑が欠かせないし、いったん灌漑をはじめると後戻りはできない。地下水位の低下がいたるところで問題になっている。
飲み水に困る村もあった。私たちが2000年に7つの県、21の村で実施したアンケート調査では、「水に不自由せず、灌漑もしている」(42.6%)、「生活に困らないが、灌漑はできない」(47.4%)という回答が多く、「飲み水に困らないが、節約が必要」(18.3%)、「水に困り、もらい水に通っている」(3.6%)は少数だった。これだけだと水不足はさほど深刻でないように思えるが、1人1日あたりの水使用量を尋ねると、21の村の平均が23.8ℓ、多い村で31.0ℓ、少ない村は15.6ℓだった。そして「水が減ってきている」と答える人が61.6%を占め、水使用量の少ない村ほどその割合が高く、15.6ℓの大同県遇駕山村では70.0%だった。
見るに見かねて井戸掘りに協力した。広霊県苑西庄村にはもともと20本ほどの井戸があったが、次々に涸れ、水のでる井戸は1997年には4本で、1日にバケツ100杯しか汲めなかった。それを150人の住民と家畜で分け合っていたのである。日本で集めた寄付金で井戸を掘り、深さ176mで1時間15㎥の水を得ることができた。畑の灌漑まではできないが、庭先に菜園をつくり、トマト、キュウリ、インゲンマメなど夏野菜を栽培するようになった。それまでは買うしかなかったのである。霊丘県石瓮村でも井戸掘りに協力し、こちらは183mで水が出て、近辺の3つの村の飲み水をまかなった。
その後、扶貧工程などによって水に困る村で井戸が掘られ、飲み水に困る村は解消された。経済発展の成果がそのような村にも少しは届いたのである。最後まで残っていたのが前出の遇駕山村だった。村近くの湧き水では絶対的に不足し、遠くの村までもらい水に通っていた。外務省草の根無償資金協力によって、井戸掘りに協力した。一度は失敗し、場所を移して掘り、140mで水脈に達した。
日本からのツアーも参加して、2008年4月に通水式をもった。式のあと、全村の人がにこにこ顔で踊りの輪に加わった。やがてどこからかすすり泣きが起こり、それが全体に広がった。県の水務局の幹部は「あの村で井戸を掘れたのは、あなたたちが門外漢だったからです」と話した。この村では何度も井戸掘りが試みられ、ことごとく失敗していたのである。
【大同は北京の水源なのだが…】
桑乾河は東進して河北省に入り、壷流河、洋河と合流して永定河と名を変える。この永定河を北京市との境界でせき止めているのが官庁ダムである。官庁ダムは密雲ダムと並んで二つしかない北京の水ガメの一つだから、大同は北京の水源だと言っていい。そこでこれほどに水不足が深刻なのである。
北京が期待を寄せるのが南水北調の中ルートである。長江水系の丹江口ダムの水を1432kmもの水路を使って北京と天津まで運ぶ。その主要部分の工事が完成し、2014年には供用されるという新聞記事が2013年末に載った。遅れていた工事がやっと完成したのだが、北京はそれを待てなかった。南水北調の最終段、河北省石家荘市と北京のあいだの工事を急ぎ、石家荘市と保定市にある四つのダムの水を2008年9月、オリンピックの直後から北京に運んでいるのである。
官庁ダムの水源になっているのは大同市の北部だが、そのときから大同市の南部も北京の水源となった。渾源県の南部に水源をもち、霊丘県に降る雨を集め、太行山を抜けて流れ出る唐河は河北省唐県で西大洋ダムに注ぐ。霊丘南部を流れる沙河-大沙河は河北省曲陽県で王快ダムに注ぐ。崗南と黄壁庄という二つのダムを抱える滹沱河もその源流は山西省の大同市と忻州市の境界付近にある。この四つのダムの水が北京に運ばれているのだ。
巨大プロジェクトは、完成まではその利点に期待ばかりが膨らみ、実際に動き出してから問題点が浮かび上がることが多い。果たして南水北調はどのような結果をもたらすだろうか。