■太陽花(ヒマワリ)
梅雨明け宣言が報告された日、タイから来日していた友人と一緒に、私たちが支援しているある東京在住の無国籍の女性に会いに行った。帰り道、私よりも背の高いひまわりの花が目に飛び込んできた。燦燦と太陽に照らされ、少し枯れかかっている。ふと「太陽花学運(ヒマワリ学生運動)」とイメージが被った。4か月ほど前に台湾を騒がせた学生や市民たちの運動、若者たちの思いはあれから何によりどころを求めているだろうか。 「太陽花学運」は3月18日に開始したこともあり、318学運、青年占領立法院とも呼ばれている。日本の国会に当たる立法院が、2014年3月18日、学生と市民らによって侵入占拠された。その晩、一本のヒマワリが支援者によって贈られ議会の講演台に掲げられていた。ネットやメディアで院内の様子を見た他の支援者たちもこぞってヒマワリを贈り、デモをする人たちもヒマワリを掲げるなど、ヒマワリが象徴となった。なお、本来ヒマワリは中国語で向日葵(シヤンリィクウェイ)と呼ぶが、近年の台湾の若者の造語により太陽花と呼ばれ、今回の学生デモ運動の名称にも使われることとなった。
■史上初の学生立法院占拠
そもそも、この運動の発端は「中台両岸サービス貿易協定(中国語では両岸服務貿易協議)」にある。このサービス貿易協定は中国が電子商取引や医療、旅行業など80分野、台湾が64分野を相互に開放するとした取り決めであり、2013年6月上海で調印された。馬英九政権や与党、中国国民党は「台湾に有利な協定」(江宜樺行政院長=首相)と主張しているが、最大野党の民主進歩党は「密室協定で台湾の弱小産業に打撃が大きい」などと反発してきた *1 。こうした世論の反対が強いことから、立法院では公聴会のみが行われ、本格的な審議入りには至っていなかった。 ところが、2014年3月17日、立法院においてこの協定の批准に向けた審議を委員会が行っていたが、与野党が携帯式スピーカーを持ち込み騒がしい言い合いになり、国民党の立法委員らは審議を打ち切って「委員会における審議を通過し、本会議に送付した」と主張した。立法院では国民党が多数を占めているため、本会議が開かれれば協定の批准は確実であった *2 。審議打ち切りに怒った学生たち200-300人は、3月18日午後6時からサービス貿易協定に反対するデモを行い、ついに警備を破り、窓ガラスを割るなどして立法院に進入し、それを占拠した。 同夜、ネットなどを通じて事件を知った学生たちや市民なども駆けつけ、立法院のあたりにはまたたく間に数千人が集まった。民衆、特に学生たちが力を用いて議場に突入し、立法院を占拠した事態は中華民国・台湾の歴史上初めてであった。3月30日、総統府前において抗議集会が行われ、警察の報道によると11万人、主催者側の発表では50万人が参加したという *3 。結局、学生側は、馬英九総統と対立している「与党内野党」の王金平立法院長の調停により、4月10日に退去して、運動はひとまず終結した。激しい抗議活動であったが、流血には至らず、しかも大した混乱もなく、デモのあった地域は後片付けもしっかりされた。
■海外華人の反応
この事件が報道されていた頃、海外のチャイニーズ(華僑華人)の間でも、いろいろな意見が飛び交っていた。海外に居住しているとはいえ、彼らにとって中台両岸関係の動向は最大の関心事である。実は、居住国の政治よりも、中台両岸関係の動向に高い関心を持っていることが多い。 台湾から日本に移住して50年近くになる華僑は、暴徒化した学生たちの様子を見て憤慨していた。「いまの若者たちは大局を見ずに、目先のことしか考えていない。しかも、国の恥さらしだ」と残念がっていた。「かつて台湾は、華僑華人経済ともうまく連携し、アジア四小龍と呼ばれ急成長を遂げていた。しかし、今では台湾はすっかり韓国に追い越され、競争力を失ってしまっている」。こうした状況の打開策として提案された政府側の施策に理解を示していた彼は、中国大陸出身で、国共内戦のさなかに台湾に渡った国民党支持者である。両岸の統一を願っており、日本で暮らしている半世紀の間、そのために奔走した。彼は、近年の台湾の内向き指向、特に若者たちの台湾人アイデンティティの高揚に違和感を覚え、距離を感じることが増えたという。 一方、日本生まれの台湾人で、ちょうど日本に一時帰国していた在米華人は違った意見をもっていた。「自分の立場を考え、行動した学生たちは素晴らしいと思う」と好意的だ。彼の親は日本統治下にあった台湾の出身である。留学のために日本に渡り、後に根を下ろした。彼は日本生まれだが、多くの台湾出身者と同じように、いわゆる「第三国人」の扱いを受け、幼少ながら差別されていることを肌で感じていた。インテリの親を持った彼は、その影響もあり、1949年に新中国が誕生した際には日本在住の華僑たちが喜びと興奮に沸き起つ様子を間近にみていた。彼は、日米安保闘争のなか、学生運動にも身を投じた。 1960年代、当時大学生であった彼は、「祖国」建国のため自分も貢献したいという思いを胸に「愛国青年」として「帰国」した。帰国当初、中国語もままならないなか、少しずつ生活に馴染んでいった。しばらくすると、文化大革命が始まり、すさまじい時代を経験する。政治旋風が吹き荒れるなか、同じ日本出身の華僑と心を通わせ結婚した。「祖国」とはいえ馴れない地で二人を心身ともに支えてくれたのは、先に北京に来て在住していた台湾出身の先輩たちだった。 1970年代の終わり頃、彼は、第五期全国人民代表大会の代表に選ばれ、葉剣英のリーダーシップの下で世界情勢や中国の行方を討議する大任を与えられていた。比較的安定した生活のなか、二人の娘に恵まれていたが、毛沢東が指示した知識青年の上山下郷運動や一連の政策を間近で見てきて彼は、今後の中国の行く末が娘たちに与えるであろう影響を憂い、1979年にアメリカ移住を決行した。当時、周りにいた友人たちは、彼の決断を理解できず、非難する者もいた。アメリカに渡ってからは、まさにゼロからの再スタート。言葉もままならない環境で子供たちを育てるため、レストランでアルバイトをし、歯を食いしばりながら働いた。今では娘たちは弁護士や医療関係の仕事に就き、幸せな暮らしを送っている。そんな彼にとって、今回の学生たちの行動は自分の青年時代の経験を彷彿させたに違いない。
■揺れるアイデンティティ
個人の命運はしばしば国家に左右される。生まれたところ、時代、社会情勢などの影響を受け、人は自分なりの選択を続けて生きてゆく。自分は何者か。個人のアイデンティティは、現実のさまざまな不可抗力の影響を受け、折り合いをつけてゆく。 台湾の学生たちも、自分たちの利益とアイデンティティのため今回の行動に出た。もちろん、「太陽花学運」の裏にはいろいろな利益や思惑があったに違いない。一方、日本やアメリカに暮らし、学生たちを見守っている華僑華人たちも、自分の居場所と生活を求めて流転を続けてきた。彼らは、中国と台湾という、歪な関係の下にある「祖国」の影響をしばしば受けている。自分は中国人なのか台湾人なのか。中国と台湾の政府や民心が目指すものは何か。振り子のように揺れる彼らのアイデンティティは、いつになったら落ち着くのだろう。 私がタイの友人と一緒に会いにいった東京在住の無国籍の女性は、どの国にも期待せず、言葉もままならない環境で、二人の子供を一生懸命育てていた。真夏の日差しのせいもあったのか、国家アイデンティティから自由な彼女の姿は、なんだか潔く、そして眩しく見えた。
*1 「貿易より自由 台湾学生の乱 中国との協定反発 議場占拠長期化も」Sankeibiz (2014年3月24日) http://www.sankeibiz.jp/express/news/140324/exd1403240011000-n2.htm。
*2 小笠原欣幸「台湾学生立法院占拠事件について」(2014年4月14日)、http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ogasawara/analysis/taiwanstudentsoccupation.html。
*3 竹内孝之「学生による立法院占拠事件と両岸サービス貿易協定(前編)」、IDE-JETRO 海外研究員レポート(2014年4月)、http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Overseas_report/1404_takeuchi.html。