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【Views on China】北京「大柵欄」に吹く新しい風

November 18, 2014

北京在住ライター/エディター
原口 純子

 

08年オリンピック開催を機に街の姿を大きく変貌させた北京。街中が工事現場のようだった同時多発的改造は一区切りついた感があるが、今も街の変化は続行中である。特に今、変化のありようを見ておきたいのは「大柵欄」(ダーシャラン)と呼ばれる地域だ。天安門広場の南西方向に位置する、下町風情が濃厚に残るエリアである。

迷路のような曲がりくねった横丁に、古びた民家や小さな商店が続く。その合間に、街の動向を感じさせる、ユニークな空間が生まれつつある。

ネガティブイメージに包まれた「南」

この「大柵欄」周辺は、どんなイメージのエリアなのか。北京人に聞けば、「庶民的」といったイメージのほかに「遅れている」「貧しい」「卑しい」といったネガティブな言葉が続くことだろう。

歴史を遡れば、満州族が北京を支配した清代には、故宮の東西は、主に満州族官吏の閑静な住宅区、南側の「大柵欄」周辺は、漢族の居住区で、しかも解放区的な位置づけであり、商業、娯楽の中心地だった。 往時の区分けの名残は、今も街並みに残り、故宮の東西では、道が碁盤目状に整然としているのに対し、「大柵欄」周辺になると、道幅は細く、タテヨコ斜めに入り組んで走る。行き止まりや複雑に折れ曲がった道もあり、迷宮の様相を呈している。

かつては人力車夫など主に肉体労働者が住むエリアであり、また数百もの妓院(遊郭)が存在した色町でもあった。

近年になっては、昔からの住人に加え、賃貸された古い建物に、地方からの出稼ぎ人が多数、雑居しているケースも少なくない。そんな影響で、今も北京人は、住所を聞いて相手を判断するところがある。

「大柵欄」を含む「南」に住む人間は格下、南に建つ不動産も格下。外国人の私にとっては頑迷とも思えるその判断基準に、実は私自身も何度か遭遇している。

南側にある日本料理店で、北京人の友達夫婦をもてなした時のこと。空間も悪くなく、料理の味もよく、その点から選んだ店だったが、話の途中で、「今日は、自分の人生でもっとも南に来た日だよ」と友人がつぶやいた。当時の私には意味不明で、それからいろいろ聞くにつれ、老北京人である彼にとって「南」がいかにタブーなエリアであるのかを知ったのである。

実は北京人の南に対する偏見をあまり分かっていなかった2000年前後、私自身も、「南」に属するエリアに数年、暮らしていたことがある。やがてそのポイントから数キロ、北上したエリアに引っ越し、新しい名刺をある美術評論家に渡した時、「いや、引っ越して、君もだいぶイメージがあがるよね」と言われ、これにもかなり驚いた。 中国のトップクラスの大学を卒業して、長い海外留学経験がある、いかにも開明的なインテリの彼でも、「南」に対する見方は根強く変わらないのである。こうして「南」全体がネガティブなイメージに包まれているなか、もっとも象徴的である大柵欄周辺エリアは、幸か不幸か再開発の波が控えめであり続けてきた。今も迷宮の佇まいは残るが、ここ1年ほど、このエリアを歩くと、ユニークなリノベーションの様子が見られるようになってきた。

「南」ならではの歴史を生かす

「大柵欄」エリアの通りの1つ、約500メートルの長さの「楊梅竹斜街」。通りを入ると北側に、2階建ての洋風建築が目立つ。もと雑誌編集者の邢娜(シン・ナァ)さんが2014年9月にオープンさせたばかりの「模範書局」だ。清末に遡る古い建物に約100万元をかけて改修工事を施し、書店として再生させた。2階はオープンスペースとし、今後はカルチャー関係の催しを開催させていく予定だ。

「楊梅竹斜街」では、2011~2013年にかけ、区域を管轄する「西城区」政府により、「自愿騰退政策」(自由意思による転出政策)が施行された。 「騰退」(トン・トイ)は一般的には再開発における「拆遷」(チャイ・チェン)の対立概念として使われる言葉で、「拆遷」はある区域の建物を全部取り壊し、住民が一斉に移住する(させられる)方式だが、「騰退」は、もとの建物を残し移住を希望する住民のみが転出する方式を指す。2013年1月6日付の「北京日報」によれば、「楊梅竹斜街」の1706戸のうち、529戸が引っ越し、1177戸が残留と報じている。

住民が去ったあとの建物は、取り壊しをせず、改装工事を施したうえで文化、イノベーション関連のスペース20軒となった。

「模範書局」はそうしたスペースの1軒である。

邢娜さんによれば、窓口となったのは、政府系のディベロッパーである「北京市大柵欄投資有限公司」、複数回にわたる面接があり、改装プランと事業計画についての審査を経て、多くの希望者のなかから、建物を再生する権利を勝ち得ることができたという。

ユニークな近代建築が残る大柵欄

実は、かつて商業と娯楽の中心地であった大柵欄エリアには、邢娜さんが権利を得た建物のような、洋風建築も少なくない。故宮の東西、官吏の住宅区であったエリアには、中庭を囲んで東西南北に棟を建てる「四合院」が主なのに対し、大柵欄エリアには、店舗、劇場、茶館、妓院、地方出身者が集まる場である会館など、様々な用途の建物がある。中華民国の時代には、アール・デコ風、アール・ヌーボー風の洋風装飾を施した2階建ても多く建てられている。

「自愿騰退」は、歴史的価値を有するこのエリアの建築物の維持を目指す方式であり、ゆえに「模範書局」のようなスペースが生まれている。邢娜さんの場合は、書籍を中心にアートディレクターとして活躍する夫が建物の内装プランを担当した。夫妻は、骨董収集家でもあり、かつて個人美術館を経営していた経験も持ち。歴史的な建物の魅力と価値をよく知る。邢娜さんと話せば、新しいスペースの運営に注ぐ情熱がひしひしと伝わってくる。

再開発前、建物には6戸ほどの家族が住み、長屋のように使われていたという。個人の力ではとてもこの複雑な権利関係を調整し、建物を再生させることは不可能だったと思われるが、政府の施策により、このようなスペースの誕生が後押しされている。

ハイエンド層むけのブティックも誕生

「楊梅竹斜街」から南へ入る「朱家胡同」。ここではかつての妓楼を改造、高級オーダーメイドの服を作るブティックに再生させた陳興(チェン・シン)さんに会った。

陳興さんのスペースも、2014年9月に誕生したばかり。陳興さんは、3年前までは建築家だった経歴の持ち主。建築のなかでも特に史蹟保護関係のプロジェクトを専門とし、地方の博物館などの建設に参加してきた。だが、開発規模の大きいプロジェクトにおける、建築家の役割の限界を感じ、個人の力で裁量がきくファッションの世界に転向したのだという。陳さんの場合は、再生のプランを自分で作成、事業プランとともに政府系ディベロッパー「北京市大柵欄投資有限公司」の審査をうけ、やはり多数の競争者のなかから権利を獲得している。ブティックのスペース名および、新規に立ち上げたブランド名は「彼伏」(ビィ・フゥ)とつけた。ハイエンド層を対象に高級ブランドとして展開していく戦略だ。「高級ブランドを歴史的建造物にマッチングさせることで、空間の価値を知らしめることをも目標としている」と語る。

書店をオープンさせた邢娜さんにしても、ブティックを手がける陳興さんにしても、いずれも建造物の歴史的価値をきちんと認識した事業主が選ばれていることが分かる。

こうした事業主がプロジェクトを展開させる一方、古くからの住民でそのまま残ることを希望する人々はそこに留まり、「大柵欄」エリアでは、新旧が一体となった変化が進んでいる。こうした再開発の在り方は「不大拆大建」(大規模取り壊し、大規模建設ではない)という言葉で括られる。

このエリアの変化の仕方を見て見れば、かつての「乱開発」とも呼べる大規模取り壊し型の再開発とはまた別の、過去の歴史を継承しながらの街づくりがスタートしていることが感じられる。

転出する住民に対し、少なくない補償コストがかかる現在では、投じた資金の回収、という点ではおよそ収支がつりあわないであろうこの新再開発方式。その担い手が西城区政府であり、そこに「歴史ある街並みを残す」という明確な方向性があるゆえ、実現された風景である。


原口純子 北京在住ライター/エディター

1993年から北京在住。執筆作品に『踊る中国人』『中国の賢いキッチン』(講談社)『北京上海小さな街物語』(JTBパブリッシング)『歳時記 中国雑貨』(木楽舎)など。共編書に『在中日本人108人の それでも私たちが中国に住む理由』(CCCメディアハウス)

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