1.なぜ、失業保険制度なのか
中国の社会保障に関しては、年金改革、医療に関する研究が大変多くあります。その一方、これまで失業保険はあまり注目を浴びない社会保障でした。しかし、最近になって中国では集団抗議運動が増大し、失業保険の役割を再考する動きが専門家の間から出てきました。
中国では、失業者の数は増えているのに、失業保険受給者はむしろ減っています。その結果、毎年莫大な黒字を失業基金は積み上げています。とりわけリーマンショック後の2年間で急激に積み上げたという矛盾を呈しています。これは、1990年代に失業保険を設立した主目的が、国有企業改革の推進にあったという歴史的経緯に由来しています。公有制企業が中心となって失業保険を形成したため、そのリストラが一段落した今、失業する可能性が低いフォーマル部門の労働者が保障の対象になっているのです。
その典型例が「事業単位」(公立病院や学校、報道機関など)の職員でしょう。したがって、基金の安定は当然のことと言えます。逆に解雇されやすい中小零細の私営企業の従業員(とりわけ農民工)は、失業保険でカバーされないことが多いのです。中国では失業保険を最も必要としている人が受け取れない。このことが、労働者の抗議運動に繋がっているということが言え、社会の安定からも失業保険制度の黒字の有効活用が早急に求められています。
2.失業保険の性質
失業保険の大事な機能の一つとして、失業しても消費のパターンをある程度維持するという点が挙げられます。これには、職を失った途端それまでの生活が崩壊するという事態を避けるとともに、景気後退につながる消費の急激な縮小を防ぐ、という意味が含まれます。移行経済の中では、クロアチア、ポーランドなどの東ヨーロッパ諸国の失業保険が、貧困率を抑えた点が世界銀国の調査で高く評価されていますが、それは消費の維持機能が有効だったということです。
ところが世銀の失業保険に関する分類では、中国は移行国とは別枠になっており、失業保険だけでは生存ぎりぎりの生活しかできないことが分かります。1990年代に失業保険が設計されたころには、その他のセーフティネットが機能していました。
たとえば国有企業からリストラされた40代の女性従業員を事例にとると、リストラ後の3年は再就職サービスセンターから生活費を受けとり、その後2年間は失業保険をもらえば、5年が経ちます。そこで早期定年退職に応じれば、50歳からの定年が5年前倒しになり、45歳から年金がもらえるという図式です。つまりリストラにあたって国有企業の元従業員を支えたのは失業保険よりも年金だったのです。
しかし国有企業改革が一段落したいまでは、景気悪化によるリストラの対象は、農民工や若者にシフトしています。彼らも、10年前までは、20代、30代でリストラされても、地元に一時的に戻って農業に従事し、また景気が良くなってきたら、都市に出て就業することを繰り返していましたが、現在の農民工は農業経験がなく、リストラされても地元には戻らない。ですから、失業すると都市の路頭に迷うという者が増えてきているのです。
3.失業保険と年金の関係:女性優遇? 女性差別?
また女性の早期定年退職についても、ここ10年は批判が高まってきました。女性優遇の一環として、女性は男性よりも法定定年が早く、幹部でも女性は55歳、男性は60歳という規定になっており、生産職の労働者なら女性は50歳で定年になります。これは女性の生涯賃金が減るだけでなく、中年時の昇進にも不利に働くため、優遇ではなく女性差別だという声がホワイトカラーの女性からあがり、裁判にもなりました。
しかし定年後は年金が貰えますから、雇用が不安定なブルーカラーの中年女性の間では、早めに年金を受給しながら職を探したい、という希望が強いのです。求職活動中の生活保障は失業保険の役目のはずですが、それではぎりぎりの生活しかできませんし、年金の方が受給額は高い。このため一部のブルーカラーの女性からは、男女平等を盾に定年延長を唱えるのはホワイトカラーの特権だという批判があり、そこに階級対立というものが生まれてきています。
4.人口の減少と年金制度の崩壊
女性の定年延長が提起された背景には、少子高齢化の急速な進展が存在します。日本でも、少子高齢化社会によって高齢者を支えるための年金制度の問題点が指摘されていますが、中国では一人っ子政策によって、一人当たりが支える高齢者の数が急増しています。生む権利ではなく年金の持続性の問題から一人っ子政策を見直し、漢民族にも無条件で二人まで子供を認めようという議論が生まれてきました。これには、労働人口が減れば国際競争力が落ちるという考えがあり、さもなければインドとの競争に負けるという主張も表れました。
5.地縁・血縁からNGOへ
以上のように、失業保険制度が機能しない場合、それを代替するものは何なのでしょうか。既存のネットワーク、たとえば地縁だとか血縁の相互扶助は弱体化していっているのですが、新しい地縁、血縁のネットワークが生まれています。それは出身地域をベースとしたNGOです。実際は古くからあるネットワークなのですが、NGOという看板を掲げると、外国から資金援助を受けられます。ほとんどのNGOの主な資金源は、EUや日米のような外国からの支援です。これらは草の根NGOと言われるもので、国際NGOの中国支部ではありません。創設者は、農民工と農村出身の退役軍人、新聞や雑誌の記者が多く見られます。かれらの相互扶助組織や社会運動組織を母体として大きくなったものが一般的で、活動内容には色々なタイプのものがありますが、農民工の参加が多いというところがポイントです。
労働NGOは、農民工の未払い賃金を取り戻す、賃金回収活動を展開しています。具体的な回収方法は、どうやって使用者を相手どって訴訟を起こすかを農民工にアドバイスし、弁護士を紹介します。弁護士はボランティアで協力するわけですが、その背後には弁護士の供給過剰という問題があります。中国では法学部を出て弁護士資格を取った人が沢山います。ボランティアとして農民工の訴訟支援を行うと、公的な法律支援センターからわずかながら手当が出ます。それを何件も引き受けると生活できる収入になります。その窓口として、NGOは機能しているので、農村出身の居候弁護士や司法習生、パラリーガルはNGOの依頼に応じて農民工の相談に乗っているのです。もちろん社会的なやりがいを求めてボランティアに参加するという側面もありますが、これから中国で労働問題が拡大するという見込みがあるから、そのスペシャリストとしてのキャリアを磨くこと目的にする弁護士も少なくありません。しかし、地元政府がこうしたNGOを支援する例はまだ少なく、多くは警戒されているのが現状です。