はじめに: 香港発展の一端を担う外国人家事労働者
香港は、外国人家事労働者を多く受け入れている地域である。1960年代以降、香港経済は大きく発展し、女性の社会進出が促進されるようになった。それにともない、1973年から、香港政府は家事労働をするための外国人労働者の正式な受け入れを開始した。香港統計局によると、1996年では、164,229人の外国人家事労働者がおり、その82%をフィリピン人が占めていた。 [1] 2015年末日現在、香港の全人口は732万4千人である。 [2] 2011年の統計では、中華系が全体の94%を占めており、6%が非中華系の人々となっている。 [3] 非中華系住民の大半を占めているのが、家事労働者として、主に住み込みで就労する海外から来た女性である。2013年12月末日現在、家事労働に従事する外国人は320,988人に上っており、フィリピン人とインドネシア人がそれぞれ全体の51%と46%を占めている。 [4]
香港では、香港の発展の一端を担ってきた外国人家事労働者雇用のシステムを支持する声が圧倒的に多い。だが、近年注目されるようになってきたマイナス面の問題を踏まえて、「外国人家事労働者に頼らずに、自給自足すること」を真剣に考えなければならないという声も最近では聞かれるようになってきている。近年の香港における外国人家事労働者を取り巻く問題を考察した上で、外国人家事労働者雇用に関するリスクを回避するための提言を行うことが、本稿のねらいである。
1.外国人家事労働者を受け入れるメリット
(1)女性の就労にともなう家事労働者の需要
香港政府の資料によると、香港の労働人口における女性の人数および比率は上昇している。女性労働者の人口は、1999年から2009年にかけての10年間で、1,362,500 人から1,736,300人に増加した。毎年平均して2.5%の増加率となっており、労働人口全体の増加率と比較すると1.1ポイント高い。同期間における女性の労働参加率は、49.2%から53.5%へ上昇した。政府統計局の予測では、この情勢が今後も続いて2026?には55.4%に上昇し、2023?には女性労働人口が男性労働人口を超えると見込まれている。 [5]
労働女性の教育水準も上がっている。大学卒業程度の学歴を有する労働女性の比率は、1999?に25%だったのが、2009?には32%にまで上昇している。また、2009?現在の、専門職および管理職における女性の割合は約4割である。 [6] 女性の高学歴化は、その職業の多様化につながっている。 [7] 彼女らは、家事労働者を雇用することにより、仕事と家庭の両立を可能にしている。
(2)高齢者、留守家庭の子供に対する介助、介護要員の需要
香港の法律では、12才以下の子供を1人で留守番させたり、外出させたりすることが禁止されている。そのため、子供の登下校の際には、スクールバスや大人による送迎が一般的になっている。託児所や保育所が極端に不足している上、就学児童を対象にした学童のようなシステムもない。そこで共働き家庭では、子供の世話をする要員として、外国人家事労働者を雇用している。 [8]
高齢化も大きな問題である。香港では、1981年以降、高齢人口が増加しており、65歳以上の人口は、1988年では全体の6.6%だったのが、1996年には10.1%、2001年には11.1%、2011年には13.3%、2013年には14%へと増加している。2039年には、その数字は28%にまで上昇すると予測されている。 [9] 今後、家庭において高齢者の介助や介護をする人員は、更に必要となる。
(3)多元的な文化と宗教、多民族社会の形成
香港は、中華系住民が大多数を占めてはいるものの、英国植民地であった上、世界の貿易中継地としての歴史も長く多くの外国人が居住していることから、多元的な文化が存在する多民族社会が形成されている。香港は、多元的な文化や宗教を擁する多民族社会であることを国際社会に対してアピールしてきた。家事労働者を含めた東南アジアからの人々の増加によって、多元的な社会が更に多様なものとなり、「国際都市」としての香港の魅力が増大すると考えられている。 [10] 外国人家事労働者の休暇は、基本的には日曜日および祝日であり、多くが同郷人や友人らと集まる。彼らは、公園、屋根のある歩行者専用橋などに、レジャーシートなど敷いて、飲食や雑談をしたりして過ごすことが多く、その風景は、今では香港の休日の風物詩となっている。 [11] 外国人家事労働者が、多くの一般家庭で抵抗なく受け入れられていることと、こういった社会背景とは無関係ではない。
(4)雇用者にとって魅力的な賃金
2014年10月以降、外国人家事労働者の法定最低賃金は、4,110香港ドル(約6万円)となっている。食費や寝室などは別途支給となっているものの、香港のフルタイムの女性の月給は1万ドル~4万ドル(日本円で約15万~60万円)の間であるため、家事労働者を雇うことは難しく無い。 [12] 富裕層や中産階級だけではなく、一般家庭でも家事労働者の雇用が可能となっている。
かつての香港では、子育てから手が離れた中年女性が時間単位で家事手伝いやベビーシッターをするなど、家事労働の仕事を専門に行う「阿媽」と呼ばれる中国系の女性たちが多く活躍していた。しかし、現在は、廉価で家事労働を行ってくれる外国人家事労働者がその市場をほぼ独占するようになっている。現在、「外国人家事労働者による香港人の就労機会への影響」が議論されない理由は、低い法定最低賃金の設定にある。現在、外国人家事労働者と同じ賃金で、同様の仕事をする香港人がいないため、外国人家事労働者と香港人は就労の面では競合していない。
2.外国人家事労働者を受け入れるデメリット
(1)子供への影響
両親がフルタイムで共働きをしている家庭では、外国人家事労働者が家での仕事を全般的に行なうようになり、自分の親よりも家事労働者に懐く子供、自分の親の言うことを聞かなくなる子供、安易に家事労働者を頼る子供が増えてきたといわれている。家事労働者への過度な依頼は、子供の独立性を阻害し、親子関係にも影響をもたらす。また、一歩間違えると、親と家事労働者の立場が逆転してしまうということについて、専門家からも警笛が鳴らされるようになっている。 [13] また、教育者や保育士としてのトレーニングを受けているわけではない家事労働者が、家庭で教育者や保育士としての役割を担わされ、トラブルに発展したりすることもあるという。そういう問題に対応するために、香港では近年、民間の教育機関などにおいて、家事労働者を雇用する子育て世帯への講座が頻繁に開かれるようになっている。
(2)金銭トラブル、犯罪、不法行為
多くの外国人家事労働者は、仲介エージェントを通して仕事探しと渡航手続きを行っている。 [14] その仲介料金は高額であり、中には親類縁者、消費者金融から借金をして渡航する者もいる。 [15] 消費者金融に返済するために、更に、香港の消費者金融で借金を重ねる外国人家事労働者や、香港で借金返済ができなくなって雇用期間の途中で何もかも放り出して帰国してしまう者もいる。雇用主宅で窃盗などの犯罪行為に手を染める家事労働者の報道も散見されるようになっている。インターネットのサイトを利用して、売春活動をしている外国人家事労働者の問題も指摘されている。 [16]
(3)虐待問題
2014年1月、雇用主によるインドネシア家事労働者に対する虐待事件が大きく報道された。23歳(当時)のインドネシア人家事労働者が、香港人家庭で雇用されていた8か月間、一度も給金を支払われることも、休暇を与えられることも、外部との連絡を許されることもなく、満足な食事が与えられない状況で、毎日21時間の家事労働を余儀なくさせられ、更に、雇用主とその家族から毎日ひどい暴力を受けていたという事件である。 [17] この事件は、あまりに凄惨であったために、世界のメディアでも報道されることとなったが、このような事件は、後を絶たない。NPOである香港人權監察による2007年の報告では、近年、雇用主から虐待を受けたことがある2,500名の外国人家事労働者からの聞き取り調査の結果が記されている。それによれば、少なくとも4分の1が雇用主による法律違反行為(法廷最低賃金に満たない給金、祝日の強制労働など)について語り、4分の1以上が雇用主から暴力や暴言を受けていたことを証言している。 [18]
虐待の被害者は、家事労働者だけではない。外国人家事労働者による雇用主の子供の虐待事件も幾度となく起こっている。今年になって注目を集めた事例は、家事労働者による雇用主の4歳男児に対する性的虐待である。 [19] このような虐待問題、上述の金銭トラブルや不法行為などの問題は、外国人家事労働者に限ったことではない。しかし特に、家事労働者や子供への虐待は、被害者が弱い立場であるがゆえに声に出しにくかったり、対処方法が分からなかったり、外部との連絡を遮断されていたりするために、発覚が遅れている。
(4)永住権問題
近年、注目を集めているのが、家事労働者による永住権獲得要求の動きである。香港特別行政区の「基本法」第24条の香港永久居民の定義によると、「香港特別行政区の成立以前または成立後、有効な旅券を所持して香港に渡航し、香港において連続して7年以上居住している非中国籍の者」 [20] が、永住権を申請して取得する権利を有する。しかし、「入境条例」では、家事労働を目的としたビザで滞在している外国人は、7年の居住期間を満たしていても、その権利は与えられないと定められている。
2013年、香港の最高裁判所は、香港の永住権を求めていた外国人家事労働者側の主張を退けた。 [21] その理由は、外国人家事労働者全てが永住権を獲得した場合、香港政府の財政支出が膨大になるだけではなく、香港の民族人口構成が大きく変わることが考えられたからである。彼らが永住権を獲得して職業選択が自由になれば、香港人の就労機会に影響が出ることも危惧されている。一方で、「この判決は家事労働者の人権を侵害している」という指摘が人権団体から出ている。
3.外国人家事労働者に頼れなくなる可能性の出現
香港では、香港の発展の一端を担ってきた外国人家事労働者雇用のシステムを支持する声が圧倒的に多い。だが、近年取り沙汰されるようになったマイナス面の問題を踏まえて、最近では、「外国人家事労働者に頼らずに、自給自足すること」を真剣に考えなければならないという声も聞かれるようになっている。そして、以下の2つの動きによって、外国人家事労働者に頼れなくなる可能性が、いよいよ現実味を帯びるようになってきている。
1つ目は、マニラ・バスジャック事件による影響である。2010年8月、団体旅行に参加していた香港人観光客23人が乗る観光バスが、マニラ市内でバスジャック犯に乗っ取られ、マニラ警察の不手際などもあり、8人の香港人が死亡するという事件が起こった。香港の梁振英行政長官は、フィリピン政府の対応に納得がいかず、2014年、事件への第1段階の制裁措置として、フィリピンの外交旅券および公務旅券の所持者の14日間のビザ無し訪問を停止すると発表した。 [22] その後、フィリピンからの家事労働者の受け入れに制限を設けるという制裁措置を行うかどうかの議論がなされるようになっている。香港市民のフィリピン人に対する見方にも変化が起こった。香港大学によって実施された2011年11月の民意調査によると、フィリピンに対してマイナスの印象を有する香港人の割合は79.3%にのぼり、1997年以来一貫して40%未満だったフィリピンへのマイナス感情から一気に上昇した。 [23] フィリピン政府への不満から、フィリピン人以外の家事労働者を雇用することに決めたという香港人もいる。
2つ目は、インドネシア政府の声明である。2014年、インドネシアのジョコ・ウィドド大統領は、自国の家事労働者が海外で虐待を受けていることを深刻に受け止め、「国家と国民の尊厳を守るために、家事労働力の海外輸出を停止する」と表明した。2015年2月、インドネシア海外労働局のワヒド局長は、2017年までには家事労働力の輸出を全面的に停止することを、正式にメディアに伝えた。 [24]
2大外国人家事労働者グループの香港への道が断たれる可能性が濃厚になってきた現在、他国からの家事労働者を増やして、急きょ穴埋めすることは可能なのであろうか。香港では、数年前より、バングラディシュ、ミャンマー、スリランカなどからの家事労働者の受け入れを開始しているが、彼らは圧倒的に少数派である。また、他国からの家事労働者も、何らかの事情で急に停止される可能性もある。このようなリスクを踏まえ、これまでのように「外」に依頼し続けるという方法ではなく、いかにうまく香港内で「自給自足」を図っていくかということを、より議論していかなければならなくなってきたのである。
おわりに: 自給自足を考えるための好機
筆者は、香港で外国人家事労働者を雇用している働く母親たちに聞き取り調査を行ったことがある。「最も困ったことは、家事労働者の急病や突然の離職などといった突発的なこと」という声が印象に残っている。家事労働者は不死身ではない。急病になって、子供の送迎ができなくなってしまったら、親が仕事を休んで代わりに子供の送迎をしなければならない。家事労働者がデング熱になって入院し、しばらくの間は大変だったという話も聞いた。家事労働者の突然の離職によって、未就学児の子供の世話をするために、半年以上の休職を余儀なくされた母親もいた。これが保育所ならば、担任の保育士が急病になっても、変わりの保育士がいるために、少なくとも母親の仕事への影響が出ることはないだろう。また、家事労働者が子供に虐待を働いたことが分かり、即解雇したという人もいた。筆者は、家事労働者に振り回された母親たちの声を聞いて、「家事労働者だけに頼るのはリスクが高い」と強く感じ、家事労働者だけに頼ることしかできない現行のシステムだけではなく、保育所を増やして、親が自分のライフスタイルに合った方を自由に選択できるようにすることが理想的ではないかと考えるようになった。
「想定外のことや突発的なこと」で困っているのは、家事労働者側も同様である。筆者が聞き取りをした家事労働者の中には、「家事に並行して3人の子供の世話を同時進行でしなければならず、ヒヤリとしたことが何度もあり、負担が大きすぎると感じている」、「雇用主の夫婦ともに海外出張になり、大人が不在の状況の中で、子供の世話を一手に引き受けたことがあった。何かが起こった時のことを考えると、精神的な負担は半端ではなかった」、「自分がインフルエンザに罹った時に、雇用主が子供の送迎のためのヘルパーを苦労して探していた。雇い主に申し訳ないと思うと同時に、体調管理も仕事の内だと強く実感した」といった声があった。これらの声を通して、特に子育て家庭では、家事労働者側の体力的ならびに精神的な負担は大きいと感じられる。こういった負担を軽減するためにも、必要時に一時利用できるパートタイムの家事代行サービスや一時保育のシステムなどが増えると、雇用主のみならず家事労働者にとっても救いになるだろう。折しも、2014年9月、「雨傘運動」と呼ばれた、民主化を求める抗議運動が起こった。何千人もの学生や市民が大通りを占拠して、政府への抗議活動を行い、メディアは終日それを報道した。それへの賛否は別として、「雨傘運動」は、多くの香港人が香港のことについて真剣に考えるきっかけを作ることとなった。そして現在、「香港人はもっと真剣に香港のことに向き合わなければならない」という空気が、従来以上に香港を包みこむようになっている。
40年以上、外国人家事労働者に頼ってきた社会構造を変えていくことは、一朝一夕にはできないことである。しかしながら、これまで何十年もの間、棚上げ状態が続いていた保育所と介護施設(特に前者)を増設すること、そして、それに関わる保育士や介護スタッフの育成を始めることは喫緊の課題だといえる。また、パートタイムで家事代行サービスに従事している香港人女性は以前から存在しているものの、詳細な人数は把握できていない。現行の法律では、外国人家事労働者はパートタイムの仕事をすることができないため、香港人にその分野を委ねることになる。こういった人材を育成し、必要時に臨機応変に利用できるシステムを本格的に作っていくことも必要であろう。
「雨傘運動」に端を発する空気の変化が追い風となり、今まさに香港は「自立性を高め自給自足を図っていくための好機」を迎えていると言っていいだろう。そして、それが実現すれば、働く母親は、自分のライフスタイルに合わせて家事労働者なり保育所なりを自由に選択することができるようになり、より理想的なワーク・ライフ・バランスを得ることが可能になるだろう。
香港が海外から家事労働者を受け入れる前の1961年では、女性の就労率は32.3%であったが、1996年には49.2%に増加している。曽虹文『香港労働力市場透視』、広州経済出版社、1997年、13頁。
「香港特別行政区統計處人口估計」: http://www.censtatd.gov.hk/hkstat/sub/bbs_tc.jsp 。
http://orientaldaily.on.cc/cnt/news/20130326/00176_004.html 。