イギリスEU離脱の衝撃
2016年6月23日、イギリスで欧州連合(EU)からの離脱の是非を問う国民投票が行われ、離脱派が51.9%と、残留派の48.1%を僅差で上回り、イギリスのEUからの離脱が決まった。世界中に大きな衝撃を与えたこの出来事について、中国の国営新華社通信は翌24日、「西側が誇りにする民主的形式が、民族主義や極右主義の影響に抵抗しきれないことを証明した」とコメントした。
民主主義制度に数々の欠陥があることは、中国メディアの言う通りであろう。しかし、国民の自由や平等を守ることができなくなっているのは、民主主義に問題があるだけではなく、不平等と格差の拡大が政治を不安定化し、民主主義の脅威になっているからである。そう考えれば、イギリスの抱える問題は、中国にとって全くの他人事ではない。
イギリスの国民投票は、世代間、社会階層間で結果が大きく二分されたと言われている。アッシュクロフト卿の投票後の調査によると、18-24歳の有権者の73%、25-34歳の62%が残留を選び、55-64歳の57%、65歳以上の60%が離脱に票を投じている。また、収入の比較的高い中流上層以上の57%が残留に投じたのに対し、労働者階級と低所得者層の64%が離脱に投票した。残留派は離脱による経済や雇用への悪影響を心配するのに対し、離脱派は主権や自決、移民制限を重んじている [1] 。
アメリカでは、移民排斥を明確に主張するドナルド・トランプの共和党大統領候補としての指名が確実になった。『ナショナル・ジャーナル』のジョン・ジュディス記者は、トランプ旋風の原動力となっているのはアメリカの「中産階級ラディカル」であり、富裕層と貧困層を重視する政府に抵抗していると指摘する。彼らは、学歴は高卒以下、所得は中以下、工場労働者か営業職、事務職のホワイトカラーの下層中産階級であり、政治思想は保守かリベラルかで単純には割り切れないという [2] 。
中国の大学入試合格枠をめぐる争い
私は世界情勢の変化を見ながら、最近中国で繰り広げられている大学入試の合格枠をめぐる抗議デモを思い返した。
2016年5月中旬、江蘇省と湖北省で受験生の親ら数千人が教育の公平を求める大規模な抗議集会を行い、警官隊と衝突した。その後、同様のデモは河南省、浙江省、河北省にも広がった。
親たちの怒りは、2016年度の大学入試改革案にぶつけられた。教育部と国家発展改革委員会が、高等教育機関が多い12省に割り当てた合格枠のうち16万人分を、大学の少ない中西部10省に移す計画を打ち出したのだ。実現すれば、江蘇省の合格者は3万8000人、湖北省は4万人減少する。北京市は1人も枠を譲らず、上海市は5000人だけだった [3] 。
中国も日本の大学入試センター試験に相当する統一試験を行っているが、日本の国立大学入試のように、各大学による二次試験は行われていない。つまり、統一試験の点数だけで合否が判定されるのだが、北京大学法学部合格枠は北京市戸籍保持者が 400、上海市戸籍保持者が200という風に、各省、自治区、直轄市の戸籍人口別に合格人数を予め設定しており、合格ラインは全国一律にはならない。
このような中央政府、地方政府、各大学間の交渉で合格枠を決める現行の入試制度は、教育の公平性を損ねていると批判されている。実際に、第一類大学(トップ約140校)の2013-2015年の3年間の年間平均合格率は北京市24.42%、上海市21.52%に対し、四川省5.37%、山西省7.09%と大きく差が開いた [4] 。しかし、北京、上海、広東、江蘇、浙江、遼寧など一部地域が独自の入試問題を導入していることもあり、入試制度を全国で一斉に改革するのは難しい。先ほど、合格ラインは全国一律ではないと説明したが、そもそも入試問題や総合点が地域によって異なるため、統一できないという事情もある。
さらに、戸籍所在地でしか受験資格を得ることができないというのも、中国特有の問題だ。農村から都市に来る出稼ぎ労働者は2億人以上に上るが、その多くが戸籍を都市に移すことを許されず、出稼ぎ労働者の子どもは長く都市に住んでいても、戸籍所在地の農村に戻って受験する。例えば、北京の高校に通う四川の農村戸籍を持つ出稼ぎ労働者の子供が三流大学にしか合格できず、高校でその学生より成績の悪かった北京戸籍の同級生が一流大学に合格したといった事例が、しばしば生じている。
アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)は、世界中で行われている。中国政府も、貧しい地域や少数民族地域の学生の機会を拡大しようと、合格枠の調整を行ってきた。しかし、今回のデモが、北京や上海に次いで教育環境が良いと言われる江蘇省や湖北省で行われたのは、興味深い。米国では、白人の工場労働者らが高学歴エリートの政治主導に異議を唱え、移民排斥を訴える大統領候補のトランプを支持している。中国では、少数民族や農村出身の学生を優遇すれば、二番手の都市の学生の進学機会が奪われる。
そして、どの国も社会階層間の利害の調整に苦労しているが、中国の場合、それが民主的に行われていないことが問題を悪化させている。
ところで、今回の入試改革案で江蘇省が他地域に譲る3万8000人分のうち、9000人分は4年制大学で、残りの2万9000人分は専科大学(2年ないしは3年の専門教育課程)だという [5] 。専科大学は4年制大学と比べて格下であり、少子化が進む中、合格枠を譲った12省は専科の学生募集に苦労している。つまり、より多くの省外の学生に江蘇省の専科を受験してもらいたいのだから、江蘇省にとって改革案はそう痛いものではないはずだ。
もちろん、江蘇省の親たちは、4年制大学の9000に自分の子どもの志望校が入っていることを心配する。江蘇省もそれなりの譲歩をしたと言える。だが、移管する枠の大半が専科なら、中西部の受験生と親たちは不公平が大きく解消されたとは思わないだろう。
2000年、「部属大学」(中央の各行政機関が管轄する中国のトップ100あまりの大学)に入学した学生のうち、その大学の所在地の戸籍を持つ学生の比率は43%に達していたという。教育部は2008年、この数字を30%以内に抑えるよう指示し、2011年には25%に低下した。2015年には「部属大学」に、合格者の2%を貧困地区の県以下の高校に割り当てるように要請している [6] 。
しかし、やはり教育の公平性を確実に保障するためには、戸籍によって受験の条件が異なるという入試システムを根底から変える必要があるだろう。公平な競争を保障できない国の下には人材は集まらず、優秀な頭脳は海外に流出し続ける。
教育の公平性というのは、そう簡単に判断できるものではない。今回、親たちが立ち上がった江蘇省では、熾烈化する受験競争を緩和するため早くから入試改革が進められ、現在は「3+2+総合素質評価」というシステムを採用している。3は国語、数学、英語の必修教科、2は歴史、地理、物理、化学、生物から2教科を選択してABCDの等級で評価する。これに加えて、総合素質評価で道徳、公民素養、学習能力、表現能力などを見る。このような多様な指標で学生の能力や個性を評価する試みが十分に効果を発揮するためには、「経済発展のための人材育成」という国家の視点とともに、「自らの幸せを実現するために必要な能力を身につける」という国民本位の視点も重要だ。そしてそのためには、国民全員が基本的な教育を受ける機会を平等に保障できるよう、抜本的な改革を行うべきであろう。
おわりに――中国とヨーロッパの類似性
北海道大学の遠藤乾は、「<ナショナリズム=民主主義=国家主権>の「三位一体」を乗り越える正統性はEUにはない。民衆の直接選挙による欧州議会を抱えているものの、投票率は欧州議会の権限の増強に反比例して低落傾向にあり、民主的正統性は極めて脆弱である」と指摘する。EUは地域連合であり、国家ではない。加盟国の国民の多数が背を向け、その意向を民主主義の手続きを経て表現したのがイギリスの国民投票であり、それを止めることはできなかったのである [7] 。
中国は民主主義国家ではなく、EUとは単純に比較はできないが、中国の人々は中国の憲法に描いてある「人民民主独裁」に、そして立法組織である人民代表大会に、正統性があると見ているだろうか [8] 。中国は国際的に「中華人民共和国」という国家として承認されているが、実際の中国の統治状況は、EUのような「三位一体」を伴わない地域連合と変わらないのではないだろうか。
中国の社会保障制度は全国で統一しておらず、条件の良い地域と悪い地域の格差がますます拡大している。戸籍制度の改革は遅れ、子どもは親の戸籍を引き継ぐため、国民がどの地域の社会保障を受けるかは生まれながらにして決まっている。条件の悪い地域の戸籍をもっていても、進学や就職によって条件の良い地域の戸籍を獲得する人はいるが、その人数は大幅に限られている [9] 。教育を受ける権利にも大きな格差が生じている。つまり、英国の過半数が「ヨーロッパ人」より「イギリス人」を選んだように、「中国人」より「上海人」や「北京人」の価値を重んじる状況が生じているのである。
私が農村調査を始めた1990年代半ば、農村の人たちは私に、「都会から来たあなたたちは学を積んでいる。自分たちは落後している(遅れている)」としばしば言った。あまりにも頻繁に「落後」という言葉を聞くので、私は「都市と農村でこれほど教育環境が異なるというのに、この人たちはなんて健気なのか」と感じた。しかし今や、「頑張って勉強すれば上に行ける」という言説に騙されていたことを知った中国の人々は、激しい不満と憤りを政府に向け始めている。特に、これまで既得権益を享受していた中間層が、経済の悪化や社会政策の変更によって不利益を被ることが多くなれば、中国にも大きな変化が訪れるのではないかと考える。
[1] Ashcroft, Lord “How the United Kingdom voted on Thursday … and why” Lord Ashcroft Polls , June 26, 2016. http://lordashcroftpolls.com/2016/06/how-the-united-kingdom-voted-and-why/
[2] Judis, John B. “The Return of the Middle American Radical: An Intellectual History of Trump Supporters”. National Journal , October 3, 2015, https://www.nationaljournal.com/s/74221/return-middle-american-radical
[3] 教育部・国家発展改革委員会「2016年部分地区跨省生源計画調控方案」(2016年4月25日) http://www.moe.edu.cn/srcsite/A03/s180/s3011/201605/t20160504_241872.html
[4] 「2015高考一本録取率排名 京津炉最高四川最低」『高考頻道』(2015年12月25日)http://gaokao.eol.cn/zhiyuan/zhinan/201512/t20151225_1351335.shtml
[5] 「“減招”事件折射高考改革未尽之路」『南風窓』(2016年6月2日)
[6] 李張光「敏感“高考減招”」『民主与法制時報』(2016年6月2日)
[7] 遠藤乾「英国はEU離脱でのた打ち回ることになる」『東洋経済オンライン』2016年6月27日、http://toyokeizai.net/articles/-/124569
[8] 中華人民共和国憲法の第一条は「中華人民共和国は労働者階級の指導による労農同盟を基礎とした人民民主独裁の社会主義国家である」と規定する。つまり、支配階級である人民(労働者と農民)が敵対階級、敵対勢力に対して独裁を加え、支配階級内部において民主を実行するという考え方である。「独裁の客体には権利を認めない」という思想の下、中国の政治制度はつくられており、人民代表大会制度とは、人民が国家のすべての権力を有することを前提とした上で、人民が人民代表大会を通じてその権力を行使するという制度である。しかし、市場経済化を進める現在の中国政府が、人民を重視する国づくりを行っていると言えるだろうか。
[9] 阿古智子「差別的な戸籍制度が阻む中国の社会的セーフティネット構築」『Nippon.com』2012年10月17日、http://www.nippon.com/ja/in-depth/a01404/ を参照。