第二章 国家的課題としての資源 ―戦前の動員と戦後の民主化(61頁~)
1919年の帝国議会では、資源の確保に明け暮れ長期的な保存戦略に欠けると、伊澤多喜男が政府の見解を問いただしている。時の原敬首相は、短期的な原料確保を優先して長期戦略は技術解決に期待する楽観論を展開した。今日でも根強いロジックである。この答弁に井上匡四郎は、仮に技術解決で代替物を見つけても、有限の資源をめぐる国際的な争奪戦は解決しないと反駁した。この論争は、もはや資源の競合に対応する調整管理や権力集中が不可避である、との同時代的な認識を浮かび上がらせている。
その具体化として1927年、内閣に資源局が設置された。長官の松井春生は、「欠乏こそは我々の創造の活動を喚起する源泉」と、資源の量でなく質を重視する捉え方を記している。そこには国家総動員の思想だけでなく、アメリカの森林保育に影響を受け天然資源と人的資源を包摂する総合的な考え方があった。だが、やがて1937年に日中戦争が勃発してモノ中心の物動計画や南洋地域の資源収奪が前面に出ると、資源局は企画庁と合同して企画院へと発展改組され、松井は退場して質的な資源概念も後退した。
しかし、1945年の敗戦による日本占領で、資源概念は米国流の民主主義から再定義される。その推進力は、市民保全隊やTVAの体験を持ち込んだGHQ天然資源局のニューディーラーである。戦争要因とされた農村貧困の解消や貿易制限下での国内資源利用を念頭に、大規模な水力発電開発や天然資源の保全を目指した。重要だったのは、「資源の一体性」を強く意識し、草の根民主主義に基づく現場への統合的な権限付与が謳われたことである。
企画院の系譜を継ぐ経済安定本部に結集した大来佐武郎・安芸皓一・都留重人らの計画官僚は、TVAモデルの国内資源開発や草の根民主主義に魅了された。そして、天然資源を働きかけの対象とする考え方を受容する過程で、知の断片化と官僚セクショナリズムを克服する「統合(総合)性」こそ、資源問題の核心と見抜く。結論を先取りすれば、民主主義の資源保全思想はモノ中心の「主流」に飲み込まれた。それでも、一体性ある豊かな資源論は、確かに政府に近い担い手たちへ受容された。その拠点が、経済安定本部内に設置された資源調査会であった。
第三章 資源調査会という実験 ―中進国日本の試み(101頁~)
1919年の帝国議会では、資源の確保に明け暮れ長期的な保存戦略に欠けると、伊澤多喜男が政府の見解を問いただしている。時の原敬首相は、短期的な原料確保を優先して長期戦略は技術解決に期待する楽観論を展開した。今日でも根強いロジックである。この答弁に井上匡四郎は、仮に技術解決で代替物を見つけても、有限の資源をめぐる国際的な争奪戦は解決しないと反駁した。この論争は、もはや資源の競合に対応する調整管理や権力集中が不可避である、との同時代的な認識を浮かび上がらせている。
その具体化として1927年、内閣に資源局が設置された。長官の松井春生は、「欠乏こそは我々の創造の活動を喚起する源泉」と、資源の量でなく質を重視する捉え方を記している。そこには国家総動員の思想だけでなく、アメリカの森林保育に影響を受け天然資源と人的資源を包摂する総合的な考え方があった。だが、やがて1937年に日中戦争が勃発してモノ中心の物動計画や南洋地域の資源収奪が前面に出ると、資源局は企画庁と合同して企画院へと発展改組され、松井は退場して質的な資源概念も後退した。
しかし、1945年の敗戦による日本占領で、資源概念は米国流の民主主義から再定義される。その推進力は、市民保全隊やTVAの体験を持ち込んだGHQ天然資源局のニューディーラーである。戦争要因とされた農村貧困の解消や貿易制限下での国内資源利用を念頭に、大規模な水力発電開発や天然資源の保全を目指した。重要だったのは、「資源の一体性」を強く意識し、草の根民主主義に基づく現場への統合的な権限付与が謳われたことである。
企画院の系譜を継ぐ経済安定本部に結集した大来佐武郎・安芸皓一・都留重人らの計画官僚は、TVAモデルの国内資源開発や草の根民主主義に魅了された。そして、天然資源を働きかけの対象とする考え方を受容する過程で、知の断片化と官僚セクショナリズムを克服する「統合(総合)性」こそ、資源問題の核心と見抜く。結論を先取りすれば、民主主義の資源保全思想はモノ中心の「主流」に飲み込まれた。それでも、一体性ある豊かな資源論は、確かに政府に近い担い手たちへ受容された。その拠点が、経済安定本部内に設置された資源調査会であった。
第三章 資源調査会という実験 ―中進国日本の試み(101頁~)
戦後に多様な資源政策の発想が登場したのは、当時の日本の「中進国性」が背景にある。1950年代の産業構造は、前近代的な要素を残存させつつ西欧近代的な要素を抱える急速な高度化の段階にあって、激化する資源争奪や様々な歪みをどう調整するかの本質的な問題に直面していたからである。
この「中進国性」を的確に捉えた資源調査会の原点は、1946年に大来らが中心に作成した『日本経済再建の基本問題』である。敗戦による領土喪失、貿易制限、大量の引揚者という深刻な問題は、国民生活を満たすべく、国内資源の徹底利用を通じた輸入額の最小化を求めたのである。この思考からすれば、日本の資源開発の楽観的な可能性を論じた天然資源局の技術顧問E.アッカーマンに、大来ら安本官僚が接近したのは当然のことであった。
1947年に設置された資源委員会(1949年に資源調査会へ改組)は、首相へ独立的に勧告する権限のある省庁横断的な専門機関であった。生産力の「拡大」でなく「保全」を重視した勧告は、既得権益を脅かされる関連業界や各省庁の圧力に晒されたが、それゆえ先進的なアイディアの宝庫となった。例えば、強い抵抗で結局は後退したものの、1952年の水質汚濁勧告は、後の産業公害問題を先取りする内容であった。
領域横断的で学際的な取り組みを確保するための組織文化も、注目に値する。それぞれの専門部会や現場での具体化を試みる地域計画部会などを擁した上で、「本会議」で最上位の意思決定を図った。自己批判の精神にも支えられて、絶えず「どこに問題があるのか」を総合的・大局的な視点から見極める自由闊達な調査・討議の実験が続けられたのである。その成果たる『資源白書』は、1953年・1961年・1971年に刊行された。
そこから再発見されるのは、「資源の乏しさ」ゆえに創意工夫で高い技術成長を遂げ、多種多様な資源条件ゆえに多角的な発展を遂げた日本の姿である。確かに政策のインパクトに欠けた資源調査会は、その後の高度成長に伴う国内資源への関心低下で急速に衰退する。だが、敗戦から1950年代に輝きながら「未完の総合」に終わった「資源論」は、「新たな不足の時代への突入」という今日的な課題への示唆となり得るのである。
第四章 「持たざる国」の資源放棄 ―国際社会と経済自立への道(137頁~)
日本の資源政策は、変動する国際関係のなかで経済自立を模索する歴史と重なる。それゆえ日本にとって資源は、「世界とつながる最も重要な接続の回路」であった。これに着目し本章は、外交課題として資源が登場してから国内資源を放棄するまでの、あえて「主流」に逆らった「もう一つの知」に光を当てる。
第一次世界大戦の総動員戦を目の当たりにした日本は、原料確保のための植民地の重要性を再認識する。だが、そこで直面したのは、近衛文麿が「英米本位の平和主義を排す」と指摘したごとく、「持てる国」西欧列強による不平等な国際秩序である。この認識転換が、日本は「持たざる国」というラベルづけをもたらし、再び資源と領土の争奪が激化した1930年代に定着して、東南アジアへの進出を国策とするに至ったのである。
ただし、海外からの資源収奪でない「知」も存在した。その代表は、「小日本主義」の論陣を張った石橋湛山である。石橋は、植民地の全面放棄と緊密な経済関係への転換で、管理コストの節約と欧米諸国への道徳的優位のみならず、天然資源開発による経済発展をもたらすとした。すなわち、単なる原料確保でない、創意工夫という人的資源に可能性を見出す理念を提示したのである。当時は受け付けられなかったが、前章でみたように、多くの犠牲とともに植民地と軍備路線を絶たれた敗戦後の日本こそ、この理念の条件が整う時代となった。
だが、国内資源開発の動きは長続きしなかった。戦後復興が軌道に乗り、石炭から石油への転換とともに貿易重視へ傾斜したからである。1960年代、爆発的な消費需要でエネルギー自給率は急速に低下する。乏しい資源ゆえ創意工夫で経済発展した時代経験を持つ大来は、過度な対外資源依存と国際関係の変動の兆しを警告していた。1967年のことである。やがて石油危機を迎えると、日本はますます原料確保という「主流」に傾斜してしまう。
国内資源利用は海外との市場競争に敗北し、石炭などのエネルギーのみならず耕作地や森林も放棄された。こられが総合的に下支えした、雇用・国土保全・防災・保健衛生・知識技術の後退にもつながった。何より深刻だったのは、慎重な議論に基づく「知」の後退や国際関係への意識の希薄化であった。
第五章 資源論の離陸 ―高度経済成長と地理学者らの挑戦(181頁~)
「資源論」というプラットフォームは、1980年代には顧みられなくなった。外在的には技術革新による農業・土地の地位低下と原料輸入の拡大、内在的には関心の分散による学問体系の後退が要因である。だが、近年の国内資源の見直しは、環境学やサステナビリティ学などの総合的な学問を制度化しつつある。個別に解決できない課題が顕在化する今こそ、生態系を統一的な視座に収める自然科学と合意の落としどころを探る社会科学とを「総合」した「資源論」を想起する意義がある。本章は、こうした「資源論」を深化させた研究者たちに注目する。
戦前の地理学の「資源論」は、軍事的・政策的な地理決定論との緊張関係から胎動した。1930年代の独裁的権力の広がりは、明らかに資源概念の発展と親和的な関係にあった。ここから、国防目的や特定階級の利害に流され資源の不均衡に陥りやすい「実際的研究」と区別した、総合的に社会現象を捉える「学問的研究」が目指された。この担い手たちは、戦時体制では海外の資源調査機関に潜伏し、やがて国策と距離を置いた大学に身を置いた。
様々な社会問題をもたらす「資源の階級性」の解決を目指した石井素介、資源不足を人間の創造性・先見の明・賢明な政策・国際間の信頼と協力の欠如にあると喝破した石光亨、人間の自然への働きかけと自然からの反作用を一体的に読み取る資源論を唱えた黒岩俊郎、物的資源と人間社会との関係の不均衡をいかに計画・管理するかを問題とした黒澤一清。いずれも、専門領域で功績を残しながら、「資源論」に独自の思想的基盤を提供していた。
彼らの共通項は、(1)社会問題としての位置づけの努力、(2)現場(地域)の特殊性把握の重視、(3)国民に語りかける民衆重視の思想、であった。様々なレベルの「総合」を具体化する「知の枠組み」である。ここから、国家政策との適切な距離関係を保った学問・調査研究をどう構築するか、文理融合型の学際研究をどう再生させるのか、そして、意思決定の「権力」と社会弱者を含む全体的なバランスをどう取るか、という明確な方向が見えてくる。不可逆的な持続化可能性の問題に直面する現在、事例研究に収斂しない新たな「資源論」が必要とされるのである。
終章 可能性としての資源(221頁~245頁)
本書は、体制周辺にいながら、主流派の資源=「原料」(モノ)という「持たざる国」の発想に再考を促す「もう一つの知」を描くことで、「資源論」の可能性を提示した。すなわち、(1)議論の場を設定する統合的なビジョン、(2)困難に直面した際に「可能性の束」を見出す人的・知的工夫、(3)現象間の共通項を見出し問題の仮説を見立てる能力、(4)現場の特殊性把握という実践例を通じた一般化、といった「資源論」の役割である。
これらの学問知が実践知へと進む段階では、議論は民主主義の問題にまで発展する。現場への権限をどのくらい付与するのか、資源保全をどのような手続きで決めるのか、個々人の欲求をどのように抑えるのか。「資源論」は、民主主義との関係性において多くの議論の余地を持つ。さらに、国際社会にも意義と貢献をもたらす可能性がある。自然に親和的な思想と伝統を持ちつつ近代西洋の科学技術の受容に成功した日本は、その危険性も熟知してきた。ポスト経済成長の今こそ、日本は新しい自然との付き合い方の思想を世界に発信し得る。
ここから政府の果たすべき役割=公共政策も見えてくる。具体的には、人事交流の活性化による省益撤廃、現場への裁量権付与と長期ビジョン、問題志向マインドの人材を育成する機会と仕組みの構築である。だが、何より重要なのは、どれだけ人々の資源への関心を喚起させ、その創造力やエネルギーを覚醒できるかではないか。政治的・経済的な閉塞感に見舞われ、これに東日本大震災が拍車をかけている今こそ、日本は再び活力を取り戻す時代を迎えつつある。かつての試行錯誤の経験は、難局を乗り越え未来に活用されるべき「資源」に他ならない。
この「中進国性」を的確に捉えた資源調査会の原点は、1946年に大来らが中心に作成した『日本経済再建の基本問題』である。敗戦による領土喪失、貿易制限、大量の引揚者という深刻な問題は、国民生活を満たすべく、国内資源の徹底利用を通じた輸入額の最小化を求めたのである。この思考からすれば、日本の資源開発の楽観的な可能性を論じた天然資源局の技術顧問E.アッカーマンに、大来ら安本官僚が接近したのは当然のことであった。
1947年に設置された資源委員会(1949年に資源調査会へ改組)は、首相へ独立的に勧告する権限のある省庁横断的な専門機関であった。生産力の「拡大」でなく「保全」を重視した勧告は、既得権益を脅かされる関連業界や各省庁の圧力に晒されたが、それゆえ先進的なアイディアの宝庫となった。例えば、強い抵抗で結局は後退したものの、1952年の水質汚濁勧告は、後の産業公害問題を先取りする内容であった。
領域横断的で学際的な取り組みを確保するための組織文化も、注目に値する。それぞれの専門部会や現場での具体化を試みる地域計画部会などを擁した上で、「本会議」で最上位の意思決定を図った。自己批判の精神にも支えられて、絶えず「どこに問題があるのか」を総合的・大局的な視点から見極める自由闊達な調査・討議の実験が続けられたのである。その成果たる『資源白書』は、1953年・1961年・1971年に刊行された。
そこから再発見されるのは、「資源の乏しさ」ゆえに創意工夫で高い技術成長を遂げ、多種多様な資源条件ゆえに多角的な発展を遂げた日本の姿である。確かに政策のインパクトに欠けた資源調査会は、その後の高度成長に伴う国内資源への関心低下で急速に衰退する。だが、敗戦から1950年代に輝きながら「未完の総合」に終わった「資源論」は、「新たな不足の時代への突入」という今日的な課題への示唆となり得るのである。
第四章 「持たざる国」の資源放棄 ―国際社会と経済自立への道(137頁~)
日本の資源政策は、変動する国際関係のなかで経済自立を模索する歴史と重なる。それゆえ日本にとって資源は、「世界とつながる最も重要な接続の回路」であった。これに着目し本章は、外交課題として資源が登場してから国内資源を放棄するまでの、あえて「主流」に逆らった「もう一つの知」に光を当てる。
第一次世界大戦の総動員戦を目の当たりにした日本は、原料確保のための植民地の重要性を再認識する。だが、そこで直面したのは、近衛文麿が「英米本位の平和主義を排す」と指摘したごとく、「持てる国」西欧列強による不平等な国際秩序である。この認識転換が、日本は「持たざる国」というラベルづけをもたらし、再び資源と領土の争奪が激化した1930年代に定着して、東南アジアへの進出を国策とするに至ったのである。
ただし、海外からの資源収奪でない「知」も存在した。その代表は、「小日本主義」の論陣を張った石橋湛山である。石橋は、植民地の全面放棄と緊密な経済関係への転換で、管理コストの節約と欧米諸国への道徳的優位のみならず、天然資源開発による経済発展をもたらすとした。すなわち、単なる原料確保でない、創意工夫という人的資源に可能性を見出す理念を提示したのである。当時は受け付けられなかったが、前章でみたように、多くの犠牲とともに植民地と軍備路線を絶たれた敗戦後の日本こそ、この理念の条件が整う時代となった。
だが、国内資源開発の動きは長続きしなかった。戦後復興が軌道に乗り、石炭から石油への転換とともに貿易重視へ傾斜したからである。1960年代、爆発的な消費需要でエネルギー自給率は急速に低下する。乏しい資源ゆえ創意工夫で経済発展した時代経験を持つ大来は、過度な対外資源依存と国際関係の変動の兆しを警告していた。1967年のことである。やがて石油危機を迎えると、日本はますます原料確保という「主流」に傾斜してしまう。
国内資源利用は海外との市場競争に敗北し、石炭などのエネルギーのみならず耕作地や森林も放棄された。こられが総合的に下支えした、雇用・国土保全・防災・保健衛生・知識技術の後退にもつながった。何より深刻だったのは、慎重な議論に基づく「知」の後退や国際関係への意識の希薄化であった。
第五章 資源論の離陸 ―高度経済成長と地理学者らの挑戦(181頁~)
「資源論」というプラットフォームは、1980年代には顧みられなくなった。外在的には技術革新による農業・土地の地位低下と原料輸入の拡大、内在的には関心の分散による学問体系の後退が要因である。だが、近年の国内資源の見直しは、環境学やサステナビリティ学などの総合的な学問を制度化しつつある。個別に解決できない課題が顕在化する今こそ、生態系を統一的な視座に収める自然科学と合意の落としどころを探る社会科学とを「総合」した「資源論」を想起する意義がある。本章は、こうした「資源論」を深化させた研究者たちに注目する。
戦前の地理学の「資源論」は、軍事的・政策的な地理決定論との緊張関係から胎動した。1930年代の独裁的権力の広がりは、明らかに資源概念の発展と親和的な関係にあった。ここから、国防目的や特定階級の利害に流され資源の不均衡に陥りやすい「実際的研究」と区別した、総合的に社会現象を捉える「学問的研究」が目指された。この担い手たちは、戦時体制では海外の資源調査機関に潜伏し、やがて国策と距離を置いた大学に身を置いた。
様々な社会問題をもたらす「資源の階級性」の解決を目指した石井素介、資源不足を人間の創造性・先見の明・賢明な政策・国際間の信頼と協力の欠如にあると喝破した石光亨、人間の自然への働きかけと自然からの反作用を一体的に読み取る資源論を唱えた黒岩俊郎、物的資源と人間社会との関係の不均衡をいかに計画・管理するかを問題とした黒澤一清。いずれも、専門領域で功績を残しながら、「資源論」に独自の思想的基盤を提供していた。
彼らの共通項は、(1)社会問題としての位置づけの努力、(2)現場(地域)の特殊性把握の重視、(3)国民に語りかける民衆重視の思想、であった。様々なレベルの「総合」を具体化する「知の枠組み」である。ここから、国家政策との適切な距離関係を保った学問・調査研究をどう構築するか、文理融合型の学際研究をどう再生させるのか、そして、意思決定の「権力」と社会弱者を含む全体的なバランスをどう取るか、という明確な方向が見えてくる。不可逆的な持続化可能性の問題に直面する現在、事例研究に収斂しない新たな「資源論」が必要とされるのである。
終章 可能性としての資源(221頁~245頁)
本書は、体制周辺にいながら、主流派の資源=「原料」(モノ)という「持たざる国」の発想に再考を促す「もう一つの知」を描くことで、「資源論」の可能性を提示した。すなわち、(1)議論の場を設定する統合的なビジョン、(2)困難に直面した際に「可能性の束」を見出す人的・知的工夫、(3)現象間の共通項を見出し問題の仮説を見立てる能力、(4)現場の特殊性把握という実践例を通じた一般化、といった「資源論」の役割である。
これらの学問知が実践知へと進む段階では、議論は民主主義の問題にまで発展する。現場への権限をどのくらい付与するのか、資源保全をどのような手続きで決めるのか、個々人の欲求をどのように抑えるのか。「資源論」は、民主主義との関係性において多くの議論の余地を持つ。さらに、国際社会にも意義と貢献をもたらす可能性がある。自然に親和的な思想と伝統を持ちつつ近代西洋の科学技術の受容に成功した日本は、その危険性も熟知してきた。ポスト経済成長の今こそ、日本は新しい自然との付き合い方の思想を世界に発信し得る。
ここから政府の果たすべき役割=公共政策も見えてくる。具体的には、人事交流の活性化による省益撤廃、現場への裁量権付与と長期ビジョン、問題志向マインドの人材を育成する機会と仕組みの構築である。だが、何より重要なのは、どれだけ人々の資源への関心を喚起させ、その創造力やエネルギーを覚醒できるかではないか。政治的・経済的な閉塞感に見舞われ、これに東日本大震災が拍車をかけている今こそ、日本は再び活力を取り戻す時代を迎えつつある。かつての試行錯誤の経験は、難局を乗り越え未来に活用されるべき「資源」に他ならない。
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