評者:大前信也(同志社女子大学嘱託講師)
本書の著者筒井清忠氏は歴史社会学における第一人者として日本文化論、教養主義などについてすぐれた論考を公表してきた。そして二・二六事件前後の陸軍についても『昭和期日本の構造―その歴史社会学的考察』(有斐閣、昭和59年)を著して、歴史学、政治学の分野でも高い評価を得ている。筒井氏によれば、近代日本の歴史社会学的研究は丸山真男によって始められたということだが、その丸山を批判して橋川文三に関心を寄せ、超国家主義に思い至って昭和陸軍の研究に歩を進めたのが氏のそこに至る経緯であった。本書は昭和陸軍を取り上げた氏の2冊目の著作ということになる。以下には、まず各章の梗概を紹介したあと本書の意義を論じ批評を述べることとしたい。
「はしがき」では課題の設定が行われている。すなわち広田弘毅内閣で復活した軍部大臣現役武官制を使って、以後陸軍は政治を支配したというのがこれまでの定説であったが、同内閣以降開戦に至るまでの陸軍大臣ポストをめぐる陸軍と天皇、首相との対立を取り上げ、軍部大臣現役武官制の機能の実態を分析することで定説を再検討して、昭和10年代の陸軍と政治の関係の実像に迫るのが本書の目的とされている。
「第1章 広田内閣組閣における陸軍の政治介入」が描いたのは、軍部大臣現役武官制復活前の広田内閣組閣時でも、寺内寿一大将が入閣拒否を手段にして閣僚の入替え、国策樹立を実現させていること、つまり現役武官制でなくても陸軍は大きな政治的影響力を発揮できたということである。
「第2章 軍部大臣現役部官制の復活」では以下のことを述べている。本制度復活の本旨は粛軍のための陸相への人事の一元化であり、加えて皇道派将官の陸相就任を阻止するという目的があった。内閣支配を最初から企図したのではない。三長官会議廃止の意味は、現陸相の新陸相選定か首相の陸相選定か曖昧なままであった。
次いで「第3章 宇垣内閣の流産」は、宇垣一成の組閣失敗の理由は軍部大臣現役武官制ではなく、強大な政治勢力となった陸軍が宇垣内閣に強く反対したためであり、種々の方法で陸相を得られたとしても内閣の存続が危ういと考えられたこと、すなわち同制度でなくても組閣はできなかったはずであるということを論じている。
「第4章 林内閣の組閣」が述べるところは、林銑十郎内閣組閣時の対立は陸相選定を三長官会議によるか首相指名によるかというものであり、それは陸軍上層部(梅津美治郎次官など)と中堅幕僚(石原莞爾大佐らのグループ)の対立であった。前者の勝利は陸軍中堅幕僚支配の挫折を意味したのであって、ともに現役将官を推したこのケースは軍部大臣現役武官制が原因となって組閣が阻まれた事例とはならない。また、三長官会議による後任陸相決定方式の廃止という認識は陸軍にはなかったことも明かにしている。
「第5章 第一次近衛内閣のおける首相指名制陸相の実現」では、現職陸相を辞めさせ近衛文麿首相指名の板垣征四郎陸相が実現したこと、次官も近衛の希望通り東條英機中将が就任したこと、つまり天皇の支援があったとはいえ軍部大臣現役武官制の下でも首相は陸軍首脳部の入れ替えが出来たのであり、三長官会議は首相の希望を追認する場に終始したことを提示している。
さらに、阿部信行内閣の組閣時には軍部大臣現役武官制の下、三長官会議で決まった多田駿陸相案が天皇の畑俊六陸相指名によって覆されている。陸軍内部に対立があったので外部(天皇)からの強い意志が実現をもたらした人事であり、軍部大臣現役武官制という制度に関係なくそうした力学の中で陸相が決まることを示したのが、「第6章 阿部内閣における天皇指名制陸相の登場」である。
最終の「第7章 米内内閣倒壊」が描いたのは以下のようなことである。欧州情勢の急変と近衛新体制へ向かう国内情勢の下、米内光正内閣総辞職は不可避となる中で、米内首相が畑陸相に辞表提出を求め陸軍に責任を負わせて総辞職した。陸相後任を得られなかったことを表面的理由としたが、総辞職の本当の原因は欧州情勢急変と新体制運動、近衛の政権担当意欲であった。ここでも軍部大臣現役武官制は倒閣の原因ではないということである。
以上の議論が展開されたあと、「結論」として次のように著者は論じている。すなわち昭和10年代の陸軍の政治進出の要因を現役武官制に求める従来の歴史観は一面的であるということ、同制度は決定的要因ではなく全体的政治情勢の中で陸軍と首相、天皇・宮中勢力などとの力関係によったということ、同制度原因説は宮中、マスコミの責任を相対化する役割を果たした可能性強いということである。
さて、本書の意義に移りたい。本書は以下の点で高い評価を受けて然るべきであろう。第一に公刊資料を渉猟して一般読者にもわかりやすい形で陸相人事を中心とした広田内閣から米内内閣に至る時期の政治過程を描いたこと。第二にそれによって従来十分整理されていなかった軍部大臣現役武官制の現実の政治過程での意味を事例に基づいて明らかにしたこと。第三点として、その結果として政治における制度の意味、制度の重要性とその限界の一例を提供し、制度は政治を左右する重要な要因だがその要因のひとつにとどまり、各政治勢力間の総合的な力学の分析が不可欠であることを示したこと。第四には、複数の事例によって仮説を検証することの必要と意義を示したこと。そして、さらに言えば、第五点として近衛文麿の政治家としての不適格性を改めて印象づけたこと。以上の諸点が本書の特長と評者は考える。
但し、研究者としての評者の視点からすれば、本書を学術書、専門書と見たときにはいくつかの不満がある。第一には「はしがき」での課題の設定を充実すべきではなかったか。より多くの先行研究を丹念に吟味して、それらの論旨を批判的に検討、位置づけることによって本書の意義をより明確に主張することができたはずである。半藤一利『昭和史』のような一般書を引用するよりも、研究者による学術書ないしは概説書を数多く取り上げ、分類、整理して従来の研究の論点を明示できなかっただろうか。
限られた範囲であるが、この分野の研究者による先行研究を評者が概観したところ、昭和11年5月の軍部大臣現役武官制の復活に触れた箇所では、これは陸軍が内閣に対して生殺与奪の権をもつ制度的根拠となったと位置づけているものが少なくなかったが、一方で加藤陽子氏は陸軍中堅層の意図や陸軍省官制改正の枢密院審査時の説明などの資料に基づいてすでに定説を批判している(二・二六事件後に予想される事件処理への部内の不満を封殺できるような法的裏付けを陸相の人事権に付与すること、つまり陸相の権限強化が軍部大臣現役武官制復活の直接的本質的意図であるとする)。また、個別内閣の下の政治過程の分析においては、林内閣陸相選定についての首相指名方式と三長官会議推薦方式の対立、近衛首相主導の板垣陸相選定や昭和天皇による畑陸相指名、新体制運動や欧州情勢急変を背景にして米内首相が畑陸相に辞表提出を求めたことに言及した論文が見受けられる。
従来の研究は、こうした個別の事例をもとに軍部大臣現役武官制という制度が現実の政治過程において果たした役割を帰納的に考察することを怠っていたといえよう。各内閣の政治過程を改めて精査した上で、その作業を行ったところに本書の意義があるのではないだろうか。加藤氏が現役武官制復活前後の限られた時期に焦点をあてて行った定説批判を、筆者はより範囲を広げその後の事例も詳細に検討することで説得力ある批判を提示したのである。こうした本書の研究史上の意義をより明確にするためにも、「はしがき」で先行研究をより詳細に分析すべきだったであろう。
次に分析手法について述べておきたい。前著『昭和期日本の構造―その歴史社会学的考察』はその書名が表すように、筒井氏本来の専門領域である歴史社会学の手法による昭和期日本の構造分析の中に昭和陸軍が位置づけられていた。その分析視角は陸軍を対象として有効に機能し、発表当時としては斬新さ有していた。しかし、今回の著書では歴史社会学の要素は見られず、公刊資料を操作して通説を正すことを優先したためか、アプローチの目新しさに欠ける。新資料の発見や未公刊資料の活用も見られず、全体として手堅くまとめたという印象を受ける。別稿(「日本では政治家はなぜ育たないのか」『アステイオン』第66号)で米内内閣期の事例をもとに社会学的観点からの分析が行われているので、歴史社会学的考察はそちらに譲ったのかもしれない。
著者は『二・二六事件とその時代』(『昭和期日本の構造』の改題、復刊)の「ちくま学芸文庫版あとがき」で昭和史関係書の現状に触れて、専門的な研究と一般向き著作の距離が乖離している、何とかしなければならないと嘆いているので、おそらく両者の架橋を本書で試みたのだろう。しかし、詳細な註や資料本文の引用など形態面ではまだ専門書の方に傾いているのではないか。そうすると上記のようなことが気になってしまう。もちろんこれらの不満は先に挙げた本書の特長に比べたら些事にすぎないことはいうまでもない。
最後に評者の立場から見た今後の課題を述べておきたい。本書は陸相人事などに関係して陸軍中央の上部構造を扱う一方、下剋上を言いつつ下部構造としての省部官僚機構の動態には言及していない。著者は『昭和期日本の構造』や「戦争拡大へと駆り立てた陸軍の下克上連鎖」(『中央公論』第121巻第9号)でも昭和陸軍を突き動かしたのは下剋上ドライブであると述べている。今後必要となるのは人事、特に派閥に還元させての説明よりも、陸軍省や参謀本部の各部局課の権限をふまえて陸軍の政策形成過程を探究することではないだろうか。陸軍を巨大な官僚機構ととらえるところにこの時期の政軍関係を解析する際の鍵があると思われる。たとえば「陸軍省大日記」や幕僚の日記など未公刊資料を用いて官僚機構としての陸軍の政策形成過程を描くことは可能であろう。それによって陸軍の政治との関わりについて先行研究とは違った角度からの理解を提示できるかもしれない。
0%
INQUIRIES
お問合せ
取材のお申込みやお問合せは
こちらのフォームより送信してください。