評者:大前信也(同志社女子大学嘱託講師)
軍事史関係史料の翻刻に取り組む軍事史学会が、『機密戦争日誌』(平成10年)、『宮崎周一中将日誌』(同15年)に続く第3弾として公刊したのが本書である。日本陸軍最後の元帥であった畑俊六が巣鴨在監中に執筆した回顧録と彼の昭和3年から4年、20年から23年の日記からなる。
監修者のひとり、伊藤隆氏のまえがきが示すように、回顧録は誕生から阿部内閣陸相就任までの詳細な回想で、陸軍内の派閥対立から距離をおいていた畑ならではの客観的な記述は、陸軍研究の貴重な資料といえよう。畑の日誌としては、すでに『続・現代史資料4陸軍 畑俊六日誌』(みすず書房、昭和58年)が刊行されているが、今回の翻刻は同書を補い、これによって畑の全生涯をほぼカバーできることになった。
畑の経歴を概観するには、もうひとりの監修者、原剛氏による詳細な年譜が有益である。陸士12期の畑は杉山元、小磯国昭、柳川平助らと同期であり、陸大を首席で終えると参謀本部作戦課に配属され、以後欧州駐在や部隊長の期間を除くと一貫して軍令畑を歩み、昭和3年には作戦部長に就いている。彼を庇護していた兄英太郎が関東軍司令官のまま5年に急逝すると、一転閑職に追いやられるが、宇垣一成の後継者と目されていた兄と異なり、俊六自身は派閥や政治とは距離を置いていたようである。それが侍従武官長就任につながり、昭和天皇の信任を得て阿部内閣での陸相就任を招くことになる。次の米内内閣を自らの辞表で倒した後、支那派遣軍総司令官をつとめ、19年6月には元帥に就任、終戦時には第二総軍司令官をつとめていた。37年に逝去、日本陸軍最後の元帥であった。
ここでは本書の過半を占める回顧録部分を特に先の大戦の敗因分析に注目して取り上げたい。回顧録部分は「畑俊六回顧録」(5‐231頁)と「敗戦回顧」(469‐480頁)からなる。そこでは畑の目を通した明治、大正、昭和の陸軍が描かれているとともに、昭和20年12月巣鴨拘置所収容直後から22年暮れにかけての執筆であることから、敗北の原因に繰り返し言及されている。陸軍最高位の元帥にあった者による敗因の考察がこの回顧録の特徴といえよう。特に「敗戦回顧」は敗北の理由に的を絞って書かれている。すなわち、「ここに敗戦の因て来るべき処を深刻仔細に検討して、改むるべきは速かに改め、守るべきは守り、以て再起の資となさざるべからず」との思いで筆を執っていたのである。日記部分のうち、畑が参謀本部部長だった昭和3‐4年の日記には、山東出兵、済南事件に関する記述が目立ち、田中義一首相と満洲某重大事件、宇垣一成陸相と軍制改革への言及もあって、当時の参謀本部の様子が覗える。『続・現代史資料』所収分(昭和4‐20年)と合せて検討されるべきであろう。
さて、畑の回想によれば先の大戦の敗因の主たるものは次のようになる。
彼が敗北の最大の原因とするのは陸海軍の対立である。薩の海軍、長の陸軍より始まる融和の欠如は、作戦構想の不一致、隠し立てを招いたことに加えて、予算を奪い合い、航空機などの技術の共通化が出来ずに経費や資材を浪費したこと、統帥部の合一や空軍創設が海軍の反対で実現しなかったことを指摘する。そして、陸軍の立場から海軍に対して鋭い批判を投げかけている。すなわち海軍の陸軍に負けまいとする意識、陸軍主導を恐れる海軍の危惧がこれらの対立の根本にあって敗戦をもたらしたというのである。
畑は満洲事変や漢口作戦の事例を挙げた上で、海軍の便乗主義と責任回避を次のように論難している。「結果思はしからずと見れば宣伝是努め凡ての責任を陸軍に転嫁したり。今次の戦争の如き先づ海軍を以て戦はざるべからざること明瞭の事実にして、海軍さへ到底戦争出来ずと云へば勃発すべき筈なきに、主脳部の態度頗不明瞭にして首相一任と言う如き極めて狡猾な態度をとり、悲惨なる敗戦の結果となるや、開戦の責陸軍にありと宣伝是努むるが如き、其心情唾棄すべく武士の風上にも置けぬ代物なりと云ふべし」。敗戦から間もない時期の執筆だけに戦時の陸海軍間の様々な軋轢の経験がこうした激しい言葉を彼に記させたのであろう。
勿論、畑は陸軍部内の派閥対立や下剋上の悪習も敗戦の原因をなしたのは明らかであると断じている。長閥とそれへの対抗に始まる派閥抗争は、各派の少壮将校が中心人物をロボット化する事態を招いたが、満洲某重大事件や三月事件の関係者への不十分な処置が上官への軽侮感を促して下剋上を増長させた。この弊風が顕著であった関東軍が満洲事変を引き起こして政治にも影響を与えるようになったことが、ひいては先の大戦突入の一大原因であると論じられている。このような陸軍に対して、部内の統制を維持して敗戦まで結束を保った海軍の手際には感嘆のほかないと畑は述べて、先の手厳しい海軍批判との間でバランスをとっている。彼はその理由を岡田啓介ら海軍長老がよく部内をとりまとめたことに求め、陸軍が宇垣一成らを尊重する雅量に欠けたのと対照的であるとした。この畑の指摘を待つまでもなく、政戦略の一致に重要な役割を果たすべき陸軍が、もし内部対立を克服できていたとしたら、少なくとも中国との事変の長期化は避けられたであろう。
一方、政治家として敗戦の責を負うべき人物に挙げられているのは近衛文麿である。その「はっきりしない性情」、「弱い性格」では開戦直前の日米交渉の難局を打開することはできず、嫌気がさすと内閣を投げ出して我が国の施策に一貫性を欠如させたことは、今次の敗因のひとつであるとして畑は我が国政治家の貧弱さを嘆いている。但し、近衛は陸軍のいうことをよく聞いたので、彼を支持して担ぎ上げた陸軍の責任も浅くはないとの自省も忘れてはいない。これは陸相経験者による陸軍の政治関与の難しさについての痛切な自己批判でもあろう。
政治に関連して政戦略の不一致も指摘されている。占領の効果など宣伝価値を優先して戦略の本領を後回しにしたため、兵力の逐次使用など用兵の失敗を招いたが、それは貧弱な政治家が軍部にひれ伏し、陸軍の少壮中堅層が政治を解さないまま宣伝に走った結果とする。このことは別に述べられている総力戦に備えた戦時体制構築の不十分さとも関係していよう。大陸での戦いが5年に及び国内が疲弊して厭戦気分も出てきた中で米英との国家総力戦に臨むには、戦争機構の改良進歩が必要であったにもかかわらず、それを怠ったところに失敗の原因のひとつがあったというのである。陸海の統帥も合一できず、政戦略の歯車も噛み合わないところに近代戦の捷報はもたらされないだろう。
ところで畑俊六は砲兵であった。工兵と並び技術に親しむ兵科である。砲工学校ののち帝大員外学生として技術を修める道を採らず陸大での参謀教育を選んだ彼は、技術には詳しくないと謙遜しているが、砲兵監をつとめ更には航空本部長の席にもついている。そうした畑から見ると、陸海軍や陸軍部内の対立とともに敗戦の一大原因をなしたのは、軍事技術の遅れであり、技術改良への関心の低さであった。「我国は飛行機にて米国に敗れたるなり。飛行機と電波兵器にて我国は無条件降伏の憂目に遭ひたるなり、窮極する処技術にて破れたるなり」とまで断言している。日清戦争後の軍備拡張時に量の拡大に追われて質の改良を進めず精神面で補おうとしたが、それで日露戦争に勝利したため方針を変えずに量の拡大に走り、その結果としての兵器の劣等が今次の惨敗を招いたとする。その背景には陸軍当局の技術に関する認識が至らず、技術制度の抜本的改正を怠ったことや幼年学校から陸大まで技術教育を軽視したことなどがあった。加えて貧乏国の常として予算に束縛されて列強より遅れた装備で戦わざるをえなかったのは、政治の責任でもあるとの指摘も忘れない。
教育に関連していえば、陸軍大学校が戦術戦略を偏重した教育を続けたことも敗因の一つとされている。火器や航空機の進歩発達した状況では、統帥も学理的、系統的であるべきであり、総合戦力を発揮するため精密周到な計算に基づく計画が必要となるが、陸大ではこれを軽視する傾向があったという。そこで養成された幕僚は計画的統帥に疎く、通信や補給がないがしろにされた。米軍の科学的な作戦計画とは雲泥の差であり、兵器と弾薬と航空機の学理的指揮に圧倒されたのが今次の大戦であったと畑は振り返っている。彼のいうように、陸大教育での兵站の軽視は補給計画の杜撰さ、すなわち船舶の運用、補充の計算の誤りを招いて補給の断絶を引き起こし、通信への無頓着は作戦連絡の敏活を欠く事態を生じさせて悲惨な敗戦の原因となったのである。
畑の筆がここまで進むと、我が国の国家、社会や文明のあり方といった議論がすぐそばに控えているように思える。欧米先進諸国に遅れて急速な近代化を進めた極東の島国がたどった隘路と片付けてしまうと、その道程に捧げられたものが見えてこないだろう。
畑は自身の生涯を振り返る中、敗戦の主たる原因を以上のように総括した上で、次のような文章を最後に筆を擱いている。そこには彼が敗北を糧にして次の世代に伝えようとした教訓が示されているといえよう。「要するに本戦争に於ては組織的技術的統率に於て敵側に破れたるものにして此原因は上は大本営より下は下級部隊に至るまで計画者指揮官が物的質と量に綿密周到なる計画等に疎く所謂観念的に客観的に物事を計画指導したる結果、万事科学的事務的なる米側に数歩を輸したるものにして、畢竟我国上下一貫する科学的事務的教育の不備を暴露したるものと云ふべし」、「我国将来の教育は学校と言はず社会と言はず一層事務能率的に教育を刷新するの要あり。之が為には科学的に組織的に物事を観察処理するの習慣を養成教育するの必要最大なりといふべし」。
敗戦間もない時期の悔悟が組織と技術、能率と計画に関する言葉で結ばれているのも、彼らしいところである。畑俊六は生粋の軍人であった。
ここに挙げられたいくつもの敗因は、その後、多くの論者によって指摘されたことでもある。しかし、陸軍最高位の人物が敗戦直後の回顧の中で率直に述べているというところに本書の特徴があるといえよう。畑が指摘したことは、例えば海軍側から見るとどうなるのか、政治家はいかに反駁するか、諸外国の事例はどうだったのか、といったことと比較していく必要があろう。しかし、何よりも興味深いのは畑の回顧から60余年後の現在、ここに指摘された論点がどのように克服されたか、あるいは克服されなかったかということである。それらの比較と分析と検討は評者を含めた政治史家の今後の課題であろう。
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