評者:川島 真 (東京大学大学院総合文化研究科准教授)
〔章立て〕
プロローグ
第I部 フランス留学と在外公館
第一章 フランスへの留学/第二章 馬建忠の役割/第三章 在外公館に関する意見書/第四章 馬建忠と在外公館
第II部 馬建忠と清末外交
第一章 李鴻章の幕下にて/第二章 「東行三録」/第三章 清末外交の転換
第III部 馬建忠と清末経済
第一章 企業経営の時代/第二章 「富民説」(翻訳)/第三章 経済思想
エピローグ
〔評価〕
本書は、坂野正高『中国近代化と馬建忠』(東京大学出版会、1985年)の一種のオマージュでありながら、同時に坂野の著作を批判的に検討して、馬建忠という決して著名とは言えない19世紀の人物を扱いつつ、近代中国史のナラティブそのものを問い直そうという試みをおこなう、中国近代史の深層に踏み込む著作である。
馬建忠(1845-1900)は、上海のミッション系の学校で学び、李鴻章の幕下に入ってからフランスに留学、シアンスポ、パリ法科大学で学んだ。フランス留学中、また帰国後に、対仏外交、ヴェトナム問題、朝鮮問題など多くの場で活躍する。とくに壬午軍乱での活躍は有名。1884年に外交の一線から引き、商業の世界に身を置き、50歳以後には引退生活を送っているようである。その著作は、『適可斎記言記行』にほぼまとめられている。
同時代的にも毀誉褒貶の幅の広い人物であったが、学問の世界でも、洋務派、改良主義者、近代思想の先駆者といった様々な評価がある。だが、多くの場合、洋務から変法への過渡期に位置づけられる人物だとされる。坂野正高は、外交官や鉄道技術者などの面で馬が「プロフェッション」に注目している点を高く評価している。だが、これもある意味では「近代の先駆者」的な評価と通じるところがある。
では、なぜこのような議論になってしまうのだろうか。中国の近代史を議論する場合、一般的に「洋務→変法→革命」という枠組みが用いられてきた。これは、革命史観と表裏一体になっている議論であり、日本でも1950年代に学界に広まったようである。その説明は、アヘン戦争やアロー戦争で衝撃を受けた清朝では、中体西用論を基調として、軍事面に重点を置いた洋務運動を展開し、法や制度も近代化した日本に日清戦争で敗れると、制度や法、思想面をも取り入れた変法運動を展開、ところがそれが社会の支持を得られず、最終的には社会と人民の支持を革命にいたるという筋立てになっている。そして多くの事象や人物の評価も、この枠組みの下に位置づけなおされた。馬建忠もその例外ではなく、海軍論などで洋務的な側面を強く見せつつも、制度論などにも関心をもつから「先駆的」などと評されてきたのである。また、「富民説」において、自強のために民衆が富むべきだとしたため、その民衆への注目が「進歩的」だとされたりもしたのである。
しかし、本書が指摘するように、馬建忠は「中体西用」には批判的であり、思想、制度や人事などに強い関心をもっていた。むしろ、そこに重点があるといってもいい。つまり、馬建忠において、洋務運動的な「洋務」と後に変法として整理される内容は区分されていなかったのではないかというのが本書の第一の問題提起である。だが、中国の実際の社会状況や政治状況において、実現可能だったのが、これまで研究史的に洋務「運動」と言われたものであり、日清戦争後になって実現したものが変法などと言われてきたのではないかというのである。このように、本書は中国近代史のナラティブそのものに問題提起をおこなっている。確かに馬建忠以外の「洋務派知識人」たちも同じように思想や制度に関心を示している。この点は、多くの研究者は共有できる論点であろう。
なお、本書が比較的難解とされる『適可斎記言記行』についてその内容を解きほぐし、日本語訳テキストとして示したことも、後進にとって有意義なことであろう。
本書の読後感としては三点指摘しておきたい。第一に、馬以外の人物をどのように見るのかという課題は残る。第二に、思想や制度に関心をもっていたことと、結果論として何ができたかということを本書は弁別しているが、結果論としては清流派などからの反発もあり、洋務→変法という流れになった面がある。馬らの意思が異なることは本書により明らかだが、歴史叙述をどのようにおこなうかという課題が残る。第三に、変法から革命への移行という課題が残る。おそらくは夷務から洋務へと移行したとしてもそれは一部分で、思想としての夷務が底流として中国に残り、それが洋務を抑制して中体西用への至らしめ、さらに19世紀末には排外思想となって、洋務と結びつくことで排外的な文明主義になるという説明になるのであろうか。すると、夷務が革命に転化するということになるのかどうか。「洋務→変法→革命」という枠組み全体を考える際には、議論が求められるであろう
本書については、『洛北史学』、『東方』などに書評が掲載されている。あわせて参照願いたい。また評者自身も『史学雑誌』にて書評を記すことになっている。
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