評者:森田吉彦(帝京大学文学部専任講師)
吉川弘文館の「現代日本政治史」シリーズの第三巻。扱われているのは一九六〇年六月から一九七二年六月までの約十二年間であり、ちょうど池田勇人と佐藤栄作が内閣を率いた期間に相当する。このことは、執筆する側にとっては有益であろう。いうまでもなく、この二人には浅からぬ結びつきがあるし、二人とも退陣後しばらくで人生を終えているために、叙述をまとめやすいからである。
通史である本書ではさまざまな事件や人物が出てくるが、骨子を思いきってまとめてしまうと、こうなろう。岸内閣による安保改定が行われた一九六〇年、日米安保体制の枠が定まる一方で、国内政局上は左右両端双方が挫折した。国民的な敗戦の記憶を背景に、与党自民党は、権力の維持のためこれら内外の枠組みを踏み外さないように注意しながら、以後の政権運営に取り組むことになった。そこで池田内閣が取り組んだのが戦後復興を実感ある果実とすることであり、佐藤内閣で大きな課題となったのが沖縄返還であった。これらは後世に残る成果を上げたが、そうであるがゆえにも、今日まで続く地域格差や基地問題などの原点ともなった。
以上は当該期間の平凡なまとめ方のように見えるが、そこにこの著者ならではの上手い「味つけ」がなされているところが見逃せない。
章立ては次の通り。
プロローグ 池田政権と佐藤政権の時代
第I章 池田政権の発足
第II章 戦後復興の実現
第III章 沖縄返還の提起
第IV章 沖縄返還交渉
第V章 長期政権の終焉
エピローグ 復興後の政治課題
前半の第I章、第II章では池田内閣が、後半の第III章から第V章では佐藤内閣が扱われているが、これはごく順当な構成であるといえる。また、本書の題名通り、前半では日本の高度経済成長、後半では沖縄返還問題が大きな論点としてとりあげられている。ただし、その密度は大きく異なる。つまり、高度成長では戦後復興という一層緩やかな主題と結びつくことで叙述が拡がる一方、沖縄返還については圧倒的に詳細な第IV章を山場にして、物語は非常な集中力を見せている。実際、本書ではおおむね各節で一年程度を扱っているのに、この章だけは一年経過させるのに章の全部を費やしているのである。
広範な読者に向けた通史として、どちらの描き方の方が良いのかは難しいところであるが、私は後者での著者の筆致を支持する。前者では池田をはじめ、「所得倍増計画」を担った経済学者の下村治、次期首班を狙い、農水分野で辣腕を揮った党人派の河野一郎、社会党の立て直しを図った江田三郎、議会を通じた「改良」と「自主独立外交」を掲げた民社党の西尾末広、などなどの思考と行動がそれぞれに語られていくし、経済成長と表裏をなす経済外交の展開からアメリカによる核兵器の「持ち込み」問題や東京オリンピックに至る、多様な動向が叙述されている。経済成長とはそもそも何か、といった基礎的な部分から懇切に説明がなされていることもあり、個々には面白く、読みやすい。しかし、結局これらは並列的に書かれるばかりで、相互の連関や対立、緊張がつまるところどのような全体像へと結びつくのかという面では弱い。このことは、断片的に記される池田の政治指導の様相が(こぼれ話めくが例えば、側近であった大平正芳は「池田が怒ったってちっとも怖くないよ」と吐露さえしてみせる(七十八ページ))、総括としての池田像へと必ずしも繋がっていかないことと同根である。昨今、この時期の研究が多く世に出されるようになり、池田だけでなくほかの人物の伝記も新しく書かれ始めてもいるだけに、本書のこの部分は損をしているともいえる。
これに対して、佐藤内閣期の叙述は、沖縄返還を大きな軸に据え、佐藤の政治指導へと収斂する形でメリハリ良く進められている。第I章の始まりでは池田の人物像が合わせて十行程度で示されているにすぎないのに、第III章の冒頭で早くも数十行の佐藤論が展開されているのは対照的である。むろんこちらでも、琉球政府行政主席に当選する屋良朝苗、外務省で交渉に取り組んだ男たちの群像、「密使」若泉敬、相手方のヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官、などなどが、字数の制約は受けながらも丁寧に描き出されているし、沖縄返還以外の出来事も書かれてはいる。しかし、やはり佐藤が如何にして沖縄問題に取り組むようになり、与野党・国会や外務省、学生運動や世論やアメリカ、それに「七〇年安保」――日米安保条約を廃棄できるようになる一九七〇年に懸念された、「六〇年安保」の再来となりうる政治的危機――や合法性といった要素などと如何に対峙して、返還実現へとたどり着いたのかという点が非常に大きな基調になっている。例えば、内外の動向をつぶさに描いたうえでの中盤での佐藤評も、気を衒って大向こうを唸らせるような類のものではないが、実に腑に落ちるものである。
領土交渉では、そもそも相手国を交渉の土俵に乗せること自体が難しい。慎重な佐藤は、各方面で批判を受けながらも、状況を見定めるまで交渉方針を表明しなかった。佐藤は先にアメリカとの交渉の窓口を開き、その後、大衆世論の声を反映した「核抜き」と「本土並み」での沖縄返還を方針とすることができた。「核抜き・本土並み」返還の方針化を導いた佐藤の政治手法は優れていたと言える。佐藤政権の沖縄返還交渉は、日本政治外交史に貴重な前例を残すことになったことは確かである。(百八十四ページ)
もっとも、こうした面を、通史としてのバランスを逸したものと受け止める読者もあるかも知れない。確かに、沖縄問題に集中しすぎた分、社会開発や環境の問題、あるいは佐藤内閣末期の指導力の問題をはじめとして、いささか簡潔にすぎる扱いになった事項は少なくない。しかし、それは本書の長所の裏返しである。著者の博士学位論文は、佐藤政権期の沖縄返還交渉の政治外交を、内外の膨大な史料と緻密な分析によって描き出したものであった。本書でも、沖縄をある程度以上に大きくとりあげることで、著者のその持ち味が充分に活きたと評せよう。私が、本書の前半と後半を比べるならば、後半の方に一票を投じる所以である(あるいはそもそも、池田が表舞台では豪放、内実は官僚型のチームワークを重視する指導者であったのに対して、佐藤は慎重居士でありつつ、重要な決定はあくまで自分に帰するようにしたという、両者の政治指導の相違が、歴史叙述の構造にも影響しているともいえる)。
なお、本書にはほかにも、評価できる点が少なくない。著者はプロローグで、「冷戦が終わった今日の時点から高度成長期の日本政治を描く強みは、冷戦時代の政治的主張や言説と一定の距離を保ちながら、また新たに利用できる史料に基づいて、当時の政治家や官僚たちの思想や行動と向き合い、分析できることにある」(六ページ)と叙述の基本姿勢をうちだしているが、確かに本書はこうした利点を活かしている。著者の得意とする防衛問題と沖縄問題については特に多彩な素材が用いられているし(例えば、東京オリンピックと沖縄の関わり(百二~百三ページ)や一九七〇年前後の安保論議の活発化(二百四十四~二百四十八ページ)など)、当時の与野党対決からは(当然のこととはいえ)きちんと間合いを保った評価を示していっている(例えば、二百九十二~二百九十三ページでの自民党と社会党の党勢消長の対比)。新史料という点でも、内外の一次史料やインタヴューの成果も含めて、ふんだんに活用されている(例えば、二百十六ページでは沖縄返還費用の「財政問題について、大蔵省と外務省の間に連携はなかった」との証言を引いているし、二百二十四ページでは陸軍省文書に基づき、沖縄の基地の自由使用に関する新たな密約をアメリカは「諦めたものとみられる」と指摘している)。今後、これら最新の知見の是非は問われていくのだろうが、それを本書のような形で広く世に示したことの価値は大きい。
最後に、望蜀の無いものねだりであると明白に分かっていることに、あえて触れておきたい。著者自身、あとがきで指摘している「国際社会における日本の政治的独立性の問題」ないし「ナショナル・プライド」の問題については(三百六ページ)、やはり、本文中でもっと有機的に描きこんで欲しかった。たとえ仮説的なものであったとしても、それを入れることで、本書の前半と後半との結びつきはより確かなものとなったであろう。つまり、「所得倍増」と経済外交および沖縄返還は、根底では何よりもこの問題と関わるものであったはずである。それは、遡れば、経済中心主義は戦後「日本の新しい国家理性となった」とする高坂正堯の古典的な議論の意義にも連なり(『宰相 吉田茂』(中公クラシックス、二〇〇六年)、百三十五~百四十六ページ)、「戦後保守」を担った自民党の根本的な評価をも左右する、非常に大きな問題なのである。
いずれにせよ、本書が描き出した池田、佐藤両内閣での政治外交の姿は、現在から顧みればある意味で戦後日本の「黄金時代」とも呼べる、国民と国家に希望と活力があり、それに対して、問題はあっても差し引きすればおおむね適切な政治指導が行われた頃のそれであった(たとえ同時代的には皮肉に聞こえたとしても。『宰相 吉田茂』、百五十四ページを参照)。またその遺産は、功罪を合わせて、今日になお引き継がれてもいる。現代を生きる日本人、とりわけ政治家に、ぜひ本書を繙いて欲しい。そう願わずにはおれない。