評者:森田吉彦(大阪観光大学国際交流学部教授)
国際政治学とは何だったか
国際政治学の原点を問い直す研究が盛んである。また、日本における国際政治学の学説史を扱った研究が増えている。
前者はとりわけ、国際政治学の祖の一人であるE・H・カーないし国際政治学における「第一論争」(理想主義対現実主義)の再評価にかかわるものが多い。最新の研究として、籔田有紀子の『レナード・ウルフと国際連盟 理想と現実の間で』(昭和堂、二〇一六年)が挙げられる。カーから両大戦間期の「空想主義者」の一人として批判され、二十世紀後半の国際政治学では軽視されがちだったウルフを再検討し、彼がどのような国際秩序構想を持ち、国際連盟を通じて現実にどのような政策を追求したかを実証的に描いた作品である。
後者では酒井哲哉の『近代日本の国際秩序論』(岩波書店、二〇〇七年)を一つの画期として、同じ酒井が編者を務めた『外交思想』(岩波書店、二〇一三年)をはじめとする成果が続々と出されるようになった。拙稿「国際政治 『外交』『国際』『政治』をめぐって」森田ほか『現代政治の理論と動向』(晃洋書房、二〇一六年)は、その最新の(残念ながら最高の、とは到底言えないが)例であり、diplomacy、international、international politicsといった言葉ないし概念の翻訳を軸に、明治・大正期の断片的なスケッチを試みたものである。
二つの進化論
本書は、こうした研究の大きな流れに、新たに一里塚をなす本格的な研究である。史料の博捜ぶり、論述の(ときに慎重すぎるほどの)手堅さ、全体的な一貫性の高さを備えており、その水準は高い。一口に言って、上述の拙稿などよりもずっと優れている。
英文の題名は、 From Darwinism to Geopolitics : the Modern Japanese Obsession with the Equilibrium Between Population, Resources, and Territory であり、元となった博士論文の題名は、「 進化論 から 地政学 へ 近代日本における 国際政治学の形成 」(下線は森田)。つまり、本書が検討するのは、(二つの)進化論という視角とその地政学への接続、そこに表れた強迫観念と、それらを基盤に形作られていった日本の国際政治学の前史である。
そのための題材として、著者は、五人の日本人による国際政治論とその知的な背景をとりあげる。
序章では、進化論がなにゆえに国際政治学の形成とかかわるのかが提示される。領土は一定であるが、人口は増え、資源は不足する。この難問を明らかにしたのはマルサスであったが、それを、スペンサーは人類の知力と繁殖力の反比例によって克服されるものと考え、逆にダーウィンは与件として受け入れて進化論を構築した、――というように近代日本では捉えられた(それぞれの思想が本来どうであるかは別にして)。そのため、進化論は、「適者生存」という「生存競争」の帰結を考えさせるよりも、その原因たる人口の増加に憂慮をかき立てるものとなった。国家間関係に対するさまざまな考察や検討が、そこから展開していくことになる。
スペンサー的な進化論――世界国家への展望
第一章、第二章でとりあげられるのは前者、すなわちスペンサー的な進化論を奉じながら限界にぶつからざるをえなかった、加藤弘之(一八三六~一九一六年)、有賀長雄(一八六〇~一九二一年)の二人である。
加藤は政治学者であり、帝国大学の総長として知られるが、一八八二年の『人権新説』の発表後、スペンサー的な進化論の観点から世界国家の成立を展望していたことはあまり知られていない。彼は、一八九三年の『強者の権利の競争』では国家間の勢力が拮抗することで利益の追求が抑えられ、世界国家への道が開けると論じていたが、一年後の『二百年後の吾人』では「ダーウィン抜きの進化論」を諦め、人口増加が「極めて悲惨なる生存競争の修羅場」に結びつくと認めざるをえなかった。その背景には、人口増加を憂える当時の圧倒的な時流があった。加藤は自著であるこの『二百年後の吾人』を嫌い、後にはマルサスの理論に背を向けさえするが、それはただ彼の孤立を意味するだけとなったのである。日露戦争の前年となる一九〇三年、いわゆる「七博士」が対露主戦論を訴えたときにも、その重要な根拠には人口論があった。
近代日本の法学、社会学の開拓者としてあまりにも有名である有賀もまた、スペンサー的な進化論に傾倒した人物である。彼は、「七博士」の一人・戸水寛人が、ダーウィン的に人口の過剰を根拠として植民地を求め、対露即時開戦を説いたのに対して、スペンサー的な自由競争を念頭に(有賀の『社会進化論』にいわく、「自然淘汰の理」により、闘争は協力に置き換わる)門戸開放を求め、開戦は時期尚早であるとして論争した。彼にとって「生存競争」とは、孤立して戦う者は負け、協力する者が勝つことを意味したのである。しかしその有賀も、戸水が人口増加の脅威を饒舌に説いたことに対しては、有効な反論を加えることができなかったのであった。
ダーウィン的な進化論――闘争の世界
これに対して第三章、第四章でとりあげられるのは、ダーウィン的な進化論を前提に、その学問を展開することになった建部遯吾(一八七一~一九四五年)、小野塚喜平次(一八七一~一九四四年)の二人である。
建部は今日それほど知られていないが、社会学者であり、小野塚らが離脱した後に「七博士」の言論に加わった人物である(当時は国際関係に「政治」が存在するとは考えられておらず、「政治」関係のない国家間関係を論ずるのは社会学者であると認識されていた)。彼は「地球の面積には限り有りて、人口の増殖は限り無い」とダーウィン的な進化論に立脚し、領土の拡大と資源の確保が必要であることを、いち早く説くようになる。彼にとって、その後の第一次世界大戦は「侵略主義対正義人道の戦争」ではなかったし、国際連盟は「貴族国は飽まで貴族国たらしめ、貧民国は飽くまで貧民国たらしむる現状維持」の機関にほかならなかった。建部のこうした批判は、第二次世界大戦前の日本で繰り返される。
東京帝国大学総長であり、今日、吉野作造や南原繁といったデモクラシーの護り手たちの師として名高い小野塚は、実は民主主義だけでなく、国際政治学の確立や地政学の受容の基礎をもつくった(著者も指摘するように、「もともと民主主義は戦争の遂行と親和的な体制であり、したがって民主主義にまつわる思想が総力戦の準備に動員されるのは何ら不思議ではない」)。確かに、即時開戦には賛成せずに「七博士」からは離脱した小野塚であるが、当時の論文で人口過剰を与件とした「膨張」の得失を論じるなど、戸水と相通じてもいたのである。彼の見るところ、専制政治も極端な個人主義も、対外的な競争が激しくなると弱点を露呈するのであり、参政権が重要であるのは、そうしたときにこそ、国民の支持を受けた政府が強い「対外競争力」を発揮するためである。国家による「膨張政策」の追求にも、個人と政府が協力する必要があるのであった。ただし小野塚は、人類は自然淘汰に対して「人為淘汰」を試みる能力を持つとも説き、国際連盟構想を評価した。「事実は意思の母たると同時に意思は事実を左右」するとして、ウドロー・ウィルソンのような「国際的政治家」に期待したのである。
国際連盟への期待と失望
そして、第五章に至って登場するのが、神川彦松(一八八九~一九八八年)である(蛇足ながら、本稿冒頭のウルフは、この神川や蠟山政道が国際政治学を開拓する重要な原点となった)。周知のように、外交史研究から国際関係の研究に入っていった神川は、戦後にできる日本国際政治学会の初代理事長であり、日本の国際政治学の先駆者である。彼は、国際関係に対する小野塚の視座を引き継ぎ、一九二七年の『国際連盟政策論』などで人口・資源・領土の不均衡に起因する国際的な「生存競争」の克服を「国際連盟」に託したものの、望みが潰えたために自力救済に活路を見出さざるをえなくなる。この『国際連盟政策論』では「生存競争」を金科玉条とする「社会ダーウィニズム」を批判していたが、第二次世界大戦後、一九五〇年の『国際政治学概論』では欠陥はあるが一概に排斥できないとし、「国際政治進化の自然的根本動力は、政治集団の人口の増加である」と述べることになった。神川の見るところ、新しい国際連合にも限界があり、「連帯の法則」による「世界共和国」は「人類にとり真に、永遠の課題」となってしまった。冷戦はそれとは逆、米ソによる「世界帝国」であると捉えた彼は、日本国憲法第九条を批判すると共に、日米安全保障条約をも批判していくのであった。
終章に至り、以上のような経緯と相違を、著者は簡潔明瞭に「そもそも同時代の国際情勢を楽観していた加藤と有賀には、国際関係の転換を願う動機がなかった。そして建部と小野塚は、同じように国際関係を殺伐とした闘争と見なしたが、その変革を望む意思は小野塚しか持ち合わせていなかった」とまとめている。小野塚の学問を継いだ神川が国際連盟に期待したのは自然なことであったが、ウィルソンを批判するE・H・カーも実は同じように、平和の基礎を国際的な不均衡の克服に見出していた。彼の『危機の二十年』(一九三九年)と神川の『国際連盟政策論』(一九二七年)の違いは書かれた時期の違いでしかなく、神川の国際連盟への期待が潰えると、両者の対立はなくなったと本書は指摘する。
日本の国際政治学の戦前と戦後
以上のように本書では、日本の国際政治学の「前史」が、人口問題ないし進化論の影響という思想・学問の軸で鮮やかにまとめられている。もちろん、理論研究ではなく歴史研究であるから、それぞれの論者の立場は必ずしもすっきりせず、必ずしもはっきり分かれない。人口の増加は一国内では貧しさを導く一方、対外的には膨張の力と見なされるなど意味が入り組んでしまうし、従来の研究で意識されることが少なかったダーウィンとスペンサーの相違という観点は、各論者の思想的系譜から来るものであると共に政策的な立場や時代状況の反映でもあり、強弱や自覚の如何が評価しづらい。それらを史料を読み解いて可能な限り詰めて検討し、大きな像を提示した著者の労力と技量は、高く評価されるべきである。
本書に出てきた五人の議論が、教育や言論を通じて当時の人々、とりわけ官僚や政治家に影響を与えたであろうことは言うまでもない。しかし、小野塚を除いて、必ずしもこれまでその思想的な苦闘が充分に吟味・評価されてきたとは言えないし、とりわけ建部についてはそうである。そして、本書でやはり最も注目されるのは、その小野塚の評価の如何であろう。著者は、小野塚から吉野、南原へというこれまで強調されてきた流れに対して、小野塚から神川へという別の流れを提起した。実際、第四章は本書の中でも一番ページ数が多いが、一番刺激的な章でもあり、小野塚と進化論および地政学との結びつきが、手を替え品を替え、論述を駆使して明らかにされている。個々には「力技」と言うべき箇所もあるものの、全体としては説得的である。第四章がなくとも本書は優れた成果であっただろうが、第四章がなければ第一級の達成とはならなかったであろう。
そうなると気になるのは、人口・資源・領土の不均衡の今日的意味もさることながら、本書の直接的な「その後」である。果たして、神川彦松の学問は、戦後日本の国際政治学や日本国際政治学会にはどのように流れこんでいったのだろうか。神川は「日本の国際政治学の父」と呼ばれるべきであると私は考えるが、今日その影響をはっきり捉えることは(学会の中で外交史研究が存在感を持っていることを除けば)難しい。また、戦後の彼はカーを高く評価する「現実主義者」であったと言えるものの、九条と安保を同時に批判する彼を「現実主義者」と呼ぶには躊躇いを覚える向きも多かろう。戦前・戦後に対する通り一遍の理解や、これまで認識されてきた国際政治学観では、必ずしも評価しきれない部分がある。著者の手になる神川彦松の伝記が読みたいと思うのは、私だけであろうか。本書でも一部引用されているように、文書も残されているのである。