評者:森田吉彦(大阪観光大学国際交流学部教授)
二〇二〇年の創設百年を前にして、国際連盟に対する新しい研究がいろいろと見られるようになってきた。しかし、中には「国際連盟」と聞いただけで、前世紀の前半の昔話に出てくるだけの、もはや我々とは何の関係もない過去のもの、と決めつけてしまう向きもあろう。だが、その理解は間違っている。少なくとも本書で扱われているのは、既に失われた過去の国際機構のことと言うよりは、それまで現実のものではなかった(存在していなかった)集団安全保障という方法を、現実のものに(存在するものに)すべく知的な悪戦苦闘を繰り広げた男、レナード・ウルフの軌跡である。ウルフは「理想主義」者と呼ばれることになった。しかし、彼がその一端を担って考えたことは、二十一世紀の今日、我々がともかくも現実に存在するものとして知っている、集団安全保障というものに結びついたのである。
レナード・ウルフ論の位置
国際政治学を志す者で、E・H・カーの『危機の二十年』(直近の邦訳は原彬久訳、岩波書店、二〇一一年)を読まない者はない。そして、英米の国際政治学史の研究で、そのカーのいわゆる「現実主義」への再評価が言われるようになって、少なくとも四半世紀経つ。カーを再考することは、彼が批判した戦間期「理想主義」者について再検討することでもある。日本でも、吉川宏の『1930年代英国の平和論 レナード・ウルフと国際連盟体制』(北海道大学図書刊行会、一九八九年)は、「理想主義」側の代表格と言うべきウルフを軸に当時の平和論の交錯を描いた、先駆的な業績となった。近年では、西村邦行の『国際政治学の誕生 E・H・カーと近代の隘路』(昭和堂、二〇一二年)のような、切れ味鋭い傑作も世に出ている。西村の著書と同じ昭和堂が版元となって新しく世に問うた本書も、そうした流れに属する成果にほかならない。
とは言うものの実は、上述のような流れに加わるつもりは、著者にはない。あとがきで、「両大戦間期イギリスの知識人たちの議論についての史料は山のようにあり、面白い論点、個性的な意見がいくつも転がっている。その中で対象をレナード・ウルフの政策論の変遷に絞りこみ、ウルフの声を喧騒の中から拾い出しまとめた結果が、本書である」(二百十七ページ)と位置づけるように、本書はあくまで知識人研究として書かれたものであって、国際政治学史の研究を意識してのものではないのである。副題に「理想と現実」という言葉が挙がってはいるものの、これは直接的には、国際政治学でいう「理想主義」「現実主義」を念頭に置いたものではない。
それでは、本書が取り組んでいる課題は何なのか。序章で述べられているように、ウルフの国際連盟中心主義外交論の変遷である。それも、①国際連盟に基礎づけられるべき外交政策の意味の変化、②ウルフが国際連盟をイギリス外交政策論に組み入れていくプロセスと、国際連盟というビジョンがその時々のイギリス外交政策の要として特定の国際連盟主義を形成していく様子を描くこと、である。すなわち、イギリスの外交政策論と、ウルフによる国際連盟中心主義として描かれる外交論および、国際連盟に対する人々のビジョンという、それぞれに幅のある異なるものが、相互に影響し合って変化していったことをきちんと描写することこそ、著者の狙いにほかならない。それは、対象の設定については禁欲的であると共に、求める精度において野心的な姿勢であると言える。
安全保障・軍縮・国際裁判
未曽有の戦禍をもたらした第一次世界大戦のさなか、ウルフは、フェビアン協会で戦争防止問題の調査に取り組み、フェビアン・プランとして知られる計画にまとめた。それは、国際高等裁判所、国際会議、国際事務局からなる「超国家的権威」の設立と(裁判所には法的紛争を付託し、それに馴染まない他の紛争は会議に付託)、戦争モラトリアム(付託中、一定期間の戦争行為を控える)および国際義務違反国に対する制裁を求めるものである。しかし、戦争の禁止、軍縮、国家の独立と領土保全にかかわる条項は、取り入れられなかった。
なぜか。このフェビアン・プランを収録したウルフの著書が、国際政治学の先駆けとなる、一九一六年の『国際政府論』である。そこに、この計画が控えめな内容となった理由が示されていた。彼は「国際政府」を構想するにあたって、十九世紀の大国主導の「ヨーロッパ協調」を範としていたのである。この時代に行われた種々の国際会議は、国家の行動を規制する一般原則を作り、国家間の政治関係を調整し、国家から成る社会の基本構造を定めることに、一定程度成功したと、ウルフは理解した。裏を返せば、そうして国々が織りなしてきた歴史的経験を離れて戦争防止を考えても、結局それは実効性を持ちにくい。だから彼は、集合的な問題解決および立法の権利を持つ国際会議を設置するものの、各国の独立と主権は保障するとしたのだし、国際義務違反国に対する制裁義務はあるが、その強制がどのように可能かはあえて論じなかったのであった(前もって論じてしまえば、折角の国際連盟構想がしぼんでしまう)。
当然のことながら、そうしたウルフの構想に対して、「限定的計画」にすぎず、紛争には対応してもその原因の除去には対応していないではないかという批判が加えられることになった。実際、平和的な現状変更、民族問題や経済問題の解決といった事項は、『国際政府論』にはなかった。しかし彼は、創設されるべき国際組織は、あくまで国際関係の発展段階の現実に合ったものでなければならないと理解していた。「『世界政府』支持者が前提とするような『世界市民』も『国際的愛国心』も、現実には存在しない。しかしそのことは、国際関係の仕組みを改革することで戦争を防ぐことができないことを意味しない」(四十五ページ)。それが彼の考え方であった。
こうして、ウルフは理想を追い求めながらも、まずそれを一歩ずつ現実のものにしていかなければならないと捉えていたから、彼の議論は現実の外交政策に反映されうるものとなった。実際、ウルフのそれは、イギリス労働党の講和構想に組みこまれていく。第一次世界大戦後、いわゆる両大戦間期のイギリスの外交政策は、孤立と部分的同盟を支持する保守党を中心とした考え方と、介入と普遍的保障を支持する労働党などの考え方とに分かれた。ウルフは労働党国際問題諮問委員会(ACIQ)の書記などを務め、実質的な活動を牽引することになる。
遂に成立した国際連盟規約の中心は、加盟国が国際紛争の平和的解決手続きと戦争モラトリアムに合意し、違反国には他の加盟国全てによって制裁を加えるという仕組みにあった。だが、ACIQではベルサイユ修正主義の立場からも国際連盟に期待が寄せられた。つまり、ベルサイユ講和を懲罰的で不公平なものと捉え、国際連盟が敗戦国を封じる対抗同盟と化していることを批判する観点から、連盟規約に基づき、条約の再審議、平和を脅かす問題の審議、新たな加盟国の承認を進めることを求めたのである。ウルフもまた、規約を妥協の産物として、国際連盟という「殻」に平和と正義の精神を吹き込んでいくことを強調することになった。
しかし現実には、国際連盟規約の保障条項(領土と政治的独立の保全、紛争の平和的解決手続き違反への制裁)は総会で論争の的になり、連盟の弱体化を招いてしまう。大陸ヨーロッパ諸国は次々に同盟条約を締結することで、対応することになってしまったのであった。こうした動きに対して、ACIQは、連盟規約の一般的保障を弱めるものだと批判する。しかし、その保障は国際的不正義を固定するものでもあったから、その姿勢は冷淡なものとなった。
結果、国際紛争の平和的解決のための一般議定書として、ジュネーブ議定書が議論される。それは、ラムゼイ・マクドナルド率いる初の労働党政権が推進し、安全保障・軍縮・国際裁判の三つを結合させたものであった。ACIQでは国際連盟を「復活」させるものだと歓迎する一方で、現状の不正を固定する点がやはり懸念され、論争となった。ウルフは議定書を支持し、「議定書は確かに、多くの国際的不正の道具になるが、戦争を現状変更の最終手段にする戦前のシステムが為すほどではないだろう」(九十二ページ)と指摘している。最終的にACIQは、「現時点で唯一の実際的計画であるという見地から、議定書を支持する」と決議することになったが、労働党の少数内閣が倒れ、次の保守党政権は議定書を拒否したため、成立しなかった。換わってネヴィル・チェンバレンが実現したのはロカルノ条約であり、ACIQが批判する、一般性を欠いた「部分条約」であった。
ファシズム及び共産主義との対峙
かくして、保守党中心の挙国内閣は、国際連盟を中心とする多国間主義ではなく、伝統的な個別外交による宥和政策を採用した。一方、労働党は、一九三三年十月の年次大会で「あらゆる戦争に反対」することを決議したが、国際連盟規約が求める制裁の実施によって起こる戦争をも拒否することになり、連盟支持政策と矛盾することになってしまった。ウルフはすでに、その一年ほど前の段階で懸念を示していた。「武装した国家主義に代わる政策は、全ての国家が被侵略国の側に立ち、攻撃に対抗する義務を引き受けることを必要とすることに議論の余地はない。連盟の失敗の幾分かは、この国の平和主義者がこのジレンマと誠実に向き合わなかったことにある」(百八ページ)。
それゆえウルフは、国際連盟をファシスト軍国主義への対抗手段として構築し直し、加盟国の安全を保障するよう、改めて提言する。その一方で、連盟を反ファシズム同盟とは峻別し、加盟国の総力がドイツを上回ることから、軍縮も主張した。著者によれば、それは、「バランス・オブ・パワー政策の温床であった国際的無政府状態から、法と正義に基づいた国際秩序への転換の第一歩であった」(百十六ページ)。しかし、国際連盟の経済制裁などは成果がなく、一九三六年にはドイツのラインラント進駐、イタリアのエチオピア併合、スペイン内戦の勃発と事態は悪化する。この事態に、国際連盟特別総会では連盟規約見直しが着手されるが、そもそも、集団安全保障制度に賛成し強化しようとするか、厳しく限定し弱めることを求めるかという基本の部分で意見が割れてしまった。
この年の終わりまでに、国際連盟の求心力喪失とヨーロッパの分裂は決定的なものとなり、ウルフも、戦争防止の手段としての国際連盟は死んだと認めざるをえなくなった。集団安全保障政策を諦めた彼は、孤立主義に強く引き寄せられたがぎりぎりで踏み止まり、軍備拡張を伴う英仏ソ同盟支持へと向かう。「私は他の国々の社会の価値あるもの全てが次から次へとなぎ倒されていくのを、孤立主義の内に傍観し、抗争から一人超然としていることが心理的に可能だとは信じられない……そして、心理的に耐えられない基盤に外交政策を置くこと以上の悲劇はない」(百三十七ページ)。彼は遂に、旧来の軍事同盟を認めることになったのであった。
しかしそれは、ウルフが、現実のイギリスの外交政策をただ受け入れたということではなかった。彼は一方で、ベルサイユ修正主義を感傷的な幻想として斥け、平和的変更よりも集団安全保障の確立を優先するよう明確に説いた。それは、国際連盟の制裁という戦争に反対し、平和的変更による「世界宥和」を求めるACIQ議長C・R・バクストンに対する批判に繋がったが、平和的変更政策の「現実主義バージョン」であるイギリス政府の宥和政策も批判することになったのである。
ただしその際、問題は、ファシズム国家に対抗するのに共産主義国家と手を組むことにあった。特に、イギリス政府は「反ソ・反共」であったが、労働党は「親ソ・反共」の立場であったため、事態は複雑であった。一九三一年以降、労働党内では共産主義ロシア再評価の機運が高まっていたが、ウルフは、共産主義はファシズムと同様「蜜蜂の巣箱」を目指すもので、民主主義の敵であると一蹴した。ただし、内政と外交の峻別という観点から、彼は、ソ連は軍事的には脅威ではないとして、協力していくべき国であることに同意していたのであった。
しかし、軍事的脅威ではないソ連は、別の種類の厄介な存在ではあった。というのも、労働党内の「マルキシスト左派」はソ連・ロシアを含まない国際連盟に批判的で、集団安全保障の制裁を含むいかなる戦争にも反対したからである。一九三四年にロシアが国際連盟に加盟すると、左派は態度を一変させたため、労働党が「国際連盟の強化と復活」を掲げ、英仏露を中心とした相互援助と平和愛好諸国のグループ結成を提言することに繋がる。しかし、ウルフの立場は微妙であった。彼は当初、左派の「資本主義者の国際連盟に関わらない」「戦争か平和かは、資本主義か社会主義かによって決まる」という立場は、心理状態や民族主義などの非経済的要因を認めない間違ったものと批判していたが、左派が姿勢を転じると、ロシアで行われている野蛮を引き続き批判しながら、「その目的は文明と理性の側にある」として、ファシズム諸国とは分離して論じることになったのである。だが、内政を批判すべき相手を外交で信頼するのが難しいことは、ウルフは百も承知であった。「ソビエト政府の国内政策には、反ファシズムの防波堤としてのロシアを国内的にも国際的にも弱めかねない側面がある」(百九十三ページ)。
ウルフは、一九三九年の著作『門に迫る野蛮人』の中で、ファシズム勢力よりも、「文明勢力の側」に潜む野蛮こそが文明の存亡に関わる大問題であると指摘している。「文明と野蛮の違いとは民主主義と独裁の違いである。民主主義とは政党や派閥の教条ではなくて、西欧文明の不可欠の一部なのである」(百九十九ページ)。ロシアの独裁体制は、文明の目的である自由な個人による社会の実現を阻むものであり、自身を継続的に弱体化させ、文明勢力の協力を阻むものだと、彼は認めざるをえなかったのであった。
「理想と現実の間で」
終章では以上を総括し、ウルフにおいて、国際連盟は変化する国際関係に緊密に結びついてその役割を変え、一定の外交政策を担う存在として繰り返し現れたと評価されている。そこに見られるのは、短く言えば、構想の融通性と政策論の明快さであった。彼は第二次世界大戦後も、一九四七年の『外交 労働党のジレンマ』では、国際連合に対して、イギリス政府は非難の応酬に加わらず、連合の悪用には抗議し、合意に至ることが不可能と思われるような重大な問題は持ち込まないよう主張するなど、如何にして理想を現実に定着させていくかに重きを置く姿勢で一貫していた。著者は、戦後、イギリスの力が低下し冷戦を迎える中のウルフたちの情勢認識と国際組織構想を次なる課題として掲げて、本書を閉じている。
本書は、博士論文を基にしたのに相応しく、時間をかけてまとめられた手堅い研究書であり、全巻を通して、イギリス労働党やウルフの未公刊史料を渉猟し、記事や報告書(無署名だが原稿や議事録から彼のものと特定できるものを含む)などを一つ一つ整理して、その言論活動を綿密に追った労作である。
ウルフは、例えば日本でも、蠟山政道や神川彦松のような国際政治学の戦前と戦後を繋ぐ学者に同時代的な影響を与えた、重要な存在である。しかし、著作の数々を通覧して、彼の主張の中心がどこにあるのか捉えようとすると、必ずしも容易には分からない。一見すると曖昧ですっきりしないウルフの議論を、国際社会の改革を一歩ずつ実現していく観点から整合的に捉え、まとめた著者の力量は、大いに評価されるべきであろう。そこでは例えば、国際連盟中心主義とは言うものの、連盟加盟国の資格や基本的な機能でさえ、国際情勢の認識を反映して変化する。描かれているのは、長期的な展望を抱き、それを利用したり変形させたりもしながら、政府の外交政策の修正を図り続けた知識人の姿である。
「理想と現実の間で」生きることを選んだ人間の思想をこのように捉えるのは、常識的なことである。しかし、人は往々にして理想だけ、あるいは現実だけに生きたという単純化の方を、理解しやすさからか、受け容れてしまうことが多いように思われる。ウルフに対して著者が示したような評価の型の値打ちは、実際のところしばしば見失われがちであり、あるいは過小評価されがちではないだろうか。
ただし、そうした観点からすると、本書の関心があくまでウルフのとった政策構想の論理に集中し、彼の情念や時代の雰囲気(知識人の交流を含む)には最低限度でしか触れていないことは、勿体ない。例えば、第四章の註八十七、妻ヴァージニアの日記に描かれたウルフの姿など(レナードは「バーティ[バートランド・ラッセル]の本を置いて言った、『僕は決心がついた』。彼は孤立主義者になったのだ」)実に印象的であるし、論理だけでは割り切れない彼の知的、精神的な葛藤がよく示されている。ウルフという人物が日本ではそれほど知られていないだけに、なおさら、彼の人間像に繋がる逸話は数多く盛り込んでおくべきであったように思う。
もちろん、第二次世界大戦後の国際秩序が何度目かの転換期を迎えている今日の国際情勢に照らしても、さまざまな点で、ウルフの苦心は他人事ではない。『国際政府論』が「ヨーロッパ協調」の克服ではなく発展する先に書かれたのと同じことである。国際秩序の構想の如何から、体制ないし国家の基礎を異にする勢力との関係の在り方に至るまで、我々の腐心すべき事柄はウルフのそれに通ずる。それはさらに、さまざまなものが流動していく中で、「実現不能なもの」を追求するのではなく「実在しないもの」を実現させようとした「理想主義」外交政策論の具体的な広がりという、より高次の関心にも結びつく。また逆、もっとただ単純に、なかなか現実の政策には結びつきにくい野党の外交構想というものは如何にあるべきかという、実際的な技術レベルの教訓にも繋がるのである。
なお、冒頭で指摘した「理想主義」と「現実主義」という観点からするウルフ論としては、邦語でも、これも西村邦行の「レナード・ウルフにおける自我と社会 戦間期理想主義の政治心理学」『北海道教育大学紀要 人文科学・社会科学編』第六十五巻第一号(二〇一四年)などの研究がある。西村はウルフの思想を読み解き、カーとの論争の意味を考察している。彼によれば、「現実主義」者たちと同じくウルフも国際政治を人間の本性から説明していたし、理性の限界に苦悩しながら理性に価値を認めようと格闘した。西村の評価でもまた、ウルフは「理想と現実の間で」生きた人物であったのだと言えるだろう。「理想主義」と「現実主義」とがただ対立するものであるという見方は、やはりもっと限定して用いられるべきである。