評者:川島 真(東京大学大学院総合文化研究科教授)
本書は、「宗主権」を扱いながら、世界史、あるいは文明史を論じようとするものである。そして、そのモチーフは昨今多く取り上げられるグローバル・ヒストリーという歴史の論じ方に対して、東洋史という領域の視点から問題提起をおこなうことにある。誤解を恐れずに言えば、本書の標題に掲げられている宗主権や翻訳概念という用語は議論する上での「手掛かり」にすぎないのであって、そこには近世から近代に至る世界史、より絞って言えば19世紀の世界史そのものを問い直そうという大きな試みがある。
■編者たちの問題提起
では、編者たちの言うグローバル・ヒストリーへの不満はどこにあるというのか。それは「欧米製の西洋史にすぎない『 世界史 』 が蔓延する現代」という語に端的に示される。結局のところ、19世紀の世界史を国民国家なり主権国家なり、いわゆる西洋近代の尺度で見てしまう、つまり西洋の眼鏡で東洋を見て解釈するということがなされてきた面がある。「本書はそうした研究の現状に鑑み、世界史を描き直してみようとする試みである。国家やその相互関係にまつわる西欧型の概念をア・プリオリな操作概念・術語とはせずに、その形成過程からまるごと歴史研究の対象にして、東西を架橋する可能性をつきつめてみたい」(3頁)というのはそのような問題意識からであろう。編者たちの不満は帝国論にもおよぶ。「ローマ帝国・モンゴル帝国など、国民国家に先行する広域の国家が『帝国』であれば、イギリス帝国・日本帝国など、植民地を領有して拡大膨張した国民国家も「帝国」であり、アメリカや中国など、最近の超大型の多民族の国民国家も『帝国』であって、こう並べてみると、すこぶるややこしい」(3頁)というのは全くそのとおりであろう。イギリス帝国などの世界展開が、ややもすれば 世界史 であるかのように言われることがあることに鑑みれば、この問題提起は重要である。
■なぜ宗主権をとりあげあるのか
では、なぜ宗主権をとりあげあるのだろう。一般的に宗主権というのは、冊封なり朝貢を受けた側が、それをおこなった国に対してもっている権利、主に外交権などであるように思われてきた。オスマントルコや清にそれがあるとも論じられてきていた。だが、それは本書の視点に寄れば、「西洋近代の国民国家・国際秩序が、東西アジア在来の「普遍性の重層」に邂逅すると、必ず「宗主権」が登場した」という。つまり、西洋の視点から19世紀のアジアの“国際関係”を理解しようとして、現れたのが宗主権ではなかったのか、というのである。そして、本書の嫌う清帝国、オスマン帝国などという呼称も、宗主権の持ち主として現れた物言いでは無いか、ともしている。
無論、本書は19世紀のオスマントルコと清の対外関係史を比較検討しようとするのではない。要は、この宗主権をめぐる状況を丁寧に追えば、従来国民国家の観点から単純かされた帝国や宗主権という語によって一元化された世界史が、より豊かなものになるのではないかということである。「史上の広域秩序を考えるにあたって、『宗主権』に着眼する試み」(17頁)というのはそうしたことだろう。
■普遍性と個別性
宗主権を読み解く上で、本書は興味深い論点、すなわち「普遍と個別」の観点を用いている。ユーラシア全体にわたる共通の価値なり経験、あるいは普遍としてシェアされる考え方と、限定性を持ってしか広まらない考え方を峻別している。こういった点は文明論的である。本書では、ユーラシア全体を見わたす上でモンゴルを重視するが、西にはイスラーム/ローマ、東にはモンゴル・チベット圏/漢語圏があるとする。無論、ローマの普遍性と儒学の限定性には留意がなされている。これは中国の価値観が現在も広がりを持たないことへの示唆でもある。オスマントルコと清朝は、東西「それぞれ在来の普遍性を集大成」した存在(7頁)だとされるのだが、オスマンはイスラームとローマが習合と混淆しているのに対して、清ではモンゴル・チベット圏の価値観と漢族の価値観が西北と東南で使い分けられているとする(13頁)。
これに対して、西洋近代は西欧に限定されたローカルな秩序に過ぎないが、ローマという「普遍」を継承しているというのが本書のスタンスだ。その「ごく狭小な範囲でしか通用しなかったはずのそうした観念・法制・行動様式が、西欧の圧倒的武力を通じ、グローバルに拡大していくのが、近代という時代だった。われわれはそんな拡大を『帝国主義』とよぶ」(10頁)。「ところが、ホブソンやレーニンがそれを資本主義と結びつけて説明して以来、画一・強制の側面が強調され、本来それと不可分だったはずのローマ性は、おおむね忘れ去られている、といってよい」(同上)ともいう。
■西欧近代とオスマンとの対峙
興味深いのは、西欧近代の価値はあまりにローカルであり、オスマントルコの重層的な普遍性の中にさえ踏まえられていなかったのだが、それでも西欧近代とオスマンには「ローマ性」という重なりがあったのである、だからこそ西欧諸国は自らがローマの正統な継承者であると自負、強調して、オスマンのもつローマ性を剥奪する必要に迫られた(実際にはローマ性をオスマンと争ったのはロシア)。いわゆる「東方問題」は、オスマンを非ローマ化、非文明化させ、アジア化、トルコ化させていく過程だとも捉えられ、それにともなって、ローマ=ビザンツの後継者として自らの歴史を取り戻すバルカン諸民族とオスマンの間で新たに形成された関係が「宗主権」、つまり「オスマン君主と分離していく各地の政権との関係を法制的に表現すべく生まれた秩序概念が、「宗主権」である[11頁]」と、本書では主張されている [1] 。
第一章「オスマン帝国における附庸国と「宗主権」の出現」(黛秋津)は、西欧諸国とオスマントルコが対峙する過程で宗主権という概念が創出される過程を、附庸国という概念から導こうとする。オスマンの統治は地域ごとに異なっていたが、中には、「既存の政治組織を維持したままオスマンの秩序に連なる『附庸国』も複数含まれていた」(47頁)。だが、西欧近代は、オスマンによる間接統治を見る際に、それを、宗主権をもつオスマン政府と「附庸国」として認識したという。そして、「宗主」という語は、19世紀初頭、イオニア諸島の七島共和国について、ロシアが軍を駐屯させる代わりに、オスマン帝国が名目的な支配者として統治するという文脈で現れたのであり、1829年には、ワラキアとモルドヴァに適用されたとする(こうした地域での「ローマ」の変質と過去のローマが登場、そこにはギリシャ性が含まれないこと、そしてルーマニアの登場ということも本章の大きな論点である)。第二章「主権と宗主権のあいだー近代オスマン外交の国制と外交」(藤波伸嘉)は、宗主権と主権の境界線を探る。近代オスマン帝国をめぐる主権および宗主権の所在を、イオニア七島共和国、両ドナウ公国、セルビア公国、ブルガリア公国の四例で確認できるとし(モンテネグロを含めれば五例)、これらはみな西洋とのやりとりの中で成立した特権諸州に該当すると指摘する。このほか宗主権を明示しない特権諸州や事実上の自治権を有する地域があったが、これらには宗主を用いず、むしろ「主権」を保持する論理を適用していったというのが本章の白眉だろう。
■西洋近代の東方への拡大
この普遍性をめぐる議論から見れば、ユーラシアをめぐるイギリスとロシアのグレートゲームは、「モンゴル的普遍性を争奪し、消滅せしめていく過程とみなすこともできる。チャガダイ=トルコ語圏を支配したロシアと、ティムール=ムガルの後継者たる英領インドとの争いだったからである」(12頁)ということになるという。ペルシャ=モンゴルの普遍性を剥奪されて、国民国家に矮小化されたのが、カージャール朝イランだという史的のように、ロシアが自らの普遍性を意識していたどうかは別にして、ユーラシア史全体を説明しようとしている。
第4章「ロシアの東方進出と東アジア-対露境界問題をめぐる清朝と日本」(山添博史)は、ロシアと日本、清の交渉過程を論じつつ重要な論点を提示する。無論、清とロシアとの交渉はネルチンスク条約やキャフタ条約が17世紀や18世紀にあったものの、清にとって内陸の民のいない土地の防衛は優先されず、大きな論点とはならなかった。つまり、清のもつ内陸のモンゴル・チベット圏ではロシアとの接触が18世紀以前には大きな問題とはならず、19世紀の中頃になって、「主権国家体系を奉ずる列強」が東アジアにやってきたときには、海の方から、つまり「まず漢語圏と対峙したのである」。その影響は、二面あった(13頁)。まずは「西洋の影響が、まず東南の漢語圏に浸透した、という事実」、そして、極東の東アジアには、西欧とイスラームが争い、西欧が専有しようとした「ローマも、敵対すべきイスラームも、そこにはなかった」のである。本書は、「このちがいはきわめて重要であり、東西アジアの異なる命運はそこで、半ば決まったと述べては言い過ぎだろうか」と喝破する。つまり、西欧とオスマンとの間には共通のコード=ローマがあったが、西欧と清の間にはそれがなかったのであり、それが決定的に重要だというのである。
西洋人は清朝・東方に対し、はなはだ浅薄な理解、もっといえば、誤解の多いままに関係をとり結び、深めていった。むしろそうした誤解が西洋の卓越した軍事力・圧力とあいまって、歴史を動かしたのである。その具体例がsuzerainty(宗主権)の頻用にほかならない。そもそも曖昧性・恣意性に富むこの概念は、漢語圏で儒教的な儀礼・名分・序列が律する中華と外夷との関係を、西洋列強が自らの主権国家体系と「文明」への「進歩」度で差別する世界観で理解するのに、かえって好都合だった。その理解とはもちろん、多分に誤解を含むものに他ならず、そこから漢語圏の変貌がはじまる。その典型が国際法の漢訳『萬国公法』の刊行であり、それにもとづいて日本の近代化、そこから誕生した近代日本漢語の中国化がつづいた。そうした一連の過程が東アジアにおける普遍性を再編し、その重層を解体、否定する原動力となる(13頁)。
第三章「宗主権と国際法と翻訳-「東方問題」から「朝鮮問題」へ」(岡本隆司)は、東アジアに於ける曖昧さと、もともと漢語圏にあった概念と結合したさまざまな翻訳後が錯綜する空間を描き出す。朝鮮問題を事例に検討。東方問題で形成されたvassal、suzerainがもともと曖昧である上に、それを「上国」「属国」と翻訳したために、在来の秩序関係と重なりあって、いっそう曖昧になるという(117頁)。そのために、朝鮮、清、日本それぞれでの認識が異なり、特に「保護」で錯綜することになった。袁世凱は、属国と保護を不可分のものと見なし、日本も朝鮮も、外国も納得しなかったが、東学党の乱に際して、朝鮮が清に「保護」を求めたことで決着がついた、という
■日本の重要性
東アジアの状況を見る場合、西欧が海の側の漢語圏から接近したということが重要だとされていることは既に述べた。それとは別に本書が特に指摘するのが日本の重要性だ。「西欧の軍事力と主権国家体系を自家薬籠中にしようとする試み」を日本がおこない、「西洋に近似しながらも、儒教圏と同じ漢語を使用する。この日本の特性は、東アジアの在来秩序・普遍性の再編をうながすにあたって、重大な条件を提供した」というのである。さらに、「『宗主権』という漢語概念も、日清戦争を一大転機とする『日本外交』の過程でできあがったものなのである」(14頁)ともいう。
その日本を論じたのが、第五章「Diplomacyから外交へ-明治日本の「外交」観」(森田吉彦)である。この章では宗主権それじたいというよりも、外交とDiplomacyの相違、ずれの存在を指摘する。もともとはforeign relationsが外交(外国交際)、Diplomacyが外国交際法として登場し、当初は隣国との関係は想定されていなかったが、そこに朝鮮問題が絡んでいくことになって変容したとする。日本が西洋近代に接しながら変容していく様を、翻訳語を通して明らかにしようとする。
第六章「日清開戦前後の日本外交と清韓宗属関係」(古結諒子)もまた日本を中心に論じられる。朝鮮半島問題について、日本は国際法に基づいて朝鮮独立を追求しようとしたとされるが、日清開戦以前、日本は東アジアに内在する宗属関係と国際法のふたつの外交原理を用いて清朝への対抗姿勢を示していた。清韓間の宗属関係は下関条約と大韓帝国の成立で断ち切られるが、日露戦争前後には日本が朝鮮に対するsuzerainty を有する存在として登場するという日本の立場の変容を描き出している。
■中国をめぐる状況-内陸の視点-
西欧近代が海の側から到来し、その海に位置する日本が西欧近代を摂取することで新たな立ち位置を得たことは既に述べた。その「日本外交」の形成過程と時を同じくして、「日本漢語の『文明』が西欧主権国家体系を示す概念となり、従前の『中華』を頂点とする漢語圏の秩序モデルに取って代わった。そんな『文明』の主導権をめぐる争いが、20世紀以降の日中関係の本質をなし、おそらくいまも続いている」(14-15頁)という立場である。日本は、漢語圏における文明を破壊して新たな文明を築こうとしたというよりも、そうした西欧近代を借りながら、日本もまた「真の中華(=文明)」を目指したというのが本書のスタンスである(16頁)。そうした意味で日本には価値の重層性があったのだろう。
それに対して中国ではむしろ、国民国家・主権国家を至上の価値とし、逆に普遍の重層性を認めなかった面があるという。そして、「『文明』の一元化を望んでやまない東南の漢語圏」、つまり沿岸部の中国は、チベット・モンゴル、つまり「西北の自律的な普遍性を圧殺し、その伝統を剥奪して、西欧的漢語的普遍性への同化をめざした」と説明される(15頁)。清の皇帝は、漢語圏での皇帝であるだけでなく、もともと大ハーンとしてのモンゴルの君主、チベット仏教の保護者でもあった。だからこそ、漢語圏とチベット・モンゴルの双方の普遍性を空間的に切り分けつつ体現できた。しかし、西欧的な価値観を沿岸部の漢語圏が受容することによって、漢語圏による「中国」が拡大し、それに内陸部が一元化されていくことになる。だが、それに反発するのがモンゴルやチベットの独立ということになるのであり、その「中国」による普遍性の画一化に対して、「日本」が介入して満洲国や満蒙などといった地域概念を創出していったのではないか、というのが本書のモチーフである(16頁)。
第七章「モンゴル『独立』をめぐる翻訳概念-自治か独立か」(橘誠)は、20世紀初頭のモンゴルにおける、独立、自立、自主、自治の訳語について検討し、モンゴルでは漢語の自立が独立と同義に用いられてきたことなどを明らかにする。宗主権をめぐっては、清にとり宗主権が清の地方に対して付与するもので、宗主権を行使することが主権の及ぶことの表現と考えられたのに対して、ロシアなどでは、宗主権を「国」、「自治国」に対して与えられるものと考えられていたことなどの相違点があったことを指摘する。第八章「チベットの政治的地位とシムラ会議-翻訳概念の検討を中心に」(小林亮介)は、中国、チベット、イギリスが参加した1913~14年のシムラ会議について検討する。主権と宗主権との間の関係の問題が中英間で議論されたのに対して、チベットはその枠組みでは議論してはいないという指摘が重要だろう。チベット語のランッェンはindependenceの訳語としては機能していないという訳語の論点もまた、翻訳の多義性を示している。
第九章「中国における『領土』概念の形成」(岡本隆司)は、西洋、日本経由で入った主権、愛国主義概念とともに中国で領土概念が形成されていったことを指摘する。1880年代には、チベットやモンゴルなどの藩部を属地として、冊封関係にある属国と区別した。属国は喪失するも、属地は残るということであろう。そして、20世紀初頭になると、属地が主権の及ぶ範囲として認定され、その頃に日本から領土概念が入り、辛亥革命で属地概念が領土に一元化していくことになった。また、もう一方で「領土保全」という概念が流入した。ここで指摘される興味深い点は、中国での領土概念が藩属→属地→領土へという過程を辿っただけに、逆に領土→属地→藩属へと逆に拡大していく懸念があること、つまり旧属国へとも拡大する可能性を秘めているということであろう。
■東西比較の視点
このように見ていくと、オスマントルコが国民国家化に失敗したのに対して、中国は失敗しなかった、という見方が「いかに一面的か」わかる(16頁)。東西の相違点は、イスラームやローマといった普遍性の有無、西洋側のアプローチの相違などが重要である。19世紀にそれぞれの保持していた重層性が解消してゆく過程も、自ずからちがったものなる、ということが本書のモチーフである。そこでは、日本が在地レベルの「闖入者」(17頁)でもあり、在地レベルの「翻訳者」であった。
こうした東西の普遍をキーワードにしながら、西洋近代の東漸を“宗主権”、あるいはそれをめぐる翻訳概念のありよう見ることによって、ユーラシア文明史を描こうとしたのが本書だと言うことになろう。第十章「宗主権と正教会-世界総主教座の近代とオスマン・ギリシャ人の歴史叙述」(藤波伸嘉)はこれらの一連の議論に対して、欧州の普遍とも関わるキリスト教の近代に於ける変容とオスマン・ギリシャでの歴史叙述を論じ、本書にいっそうの厚みを与えている。
■幾つかの論点
以上のように、本書はまさにユーラシアを舞台にした世界史を、従来のグローバル・ヒストリーとは異なる観点から描き出した興味深い一緒だということになる。宗主権や翻訳後といった補助線はそこで豊かな歴史を与えてくれる。無論、論文集であるだけに、宗主権をめぐる議論に重きを置く章と、翻訳に重きを置く章があったり、また本書のモチーフとの距離感が各章ごとにやや異なっていることなど、まとまりの上でやや難もあるが、これらは共同研究参加者がそれぞれに課題に挑戦した結果でもあり、共同研究の成果としてはまとまりをもったものだと言えよう。
本書を通じて幾つか議論ができるとすれば以下のような幾つかの論点であろう。本書の分析のモチーフとなる、普遍と個別、文明と文化であるが、モンゴルがユーラシアに普遍を提供したこと、また西にはローマ、イスラームという普遍が、そして東には漢語圏とチベット・モンゴルの普遍があった、という説明それじたいの妥当性の問題である。これをはじめたらもう一冊書籍が必要となることはわかるが、普遍と個別、文明と文化の弁別が本書の説明の基礎になっていることに鑑みれば、これを検討することは必要だろう。
次に本書が海よりも陸を重視したために、ペルシャ、南アジアから東南アジアの分析が必ずしも十分におこなわれているわけではないということがある。あるいはロシアを重視した結果かもしれないが、本書の議論は内陸にフォーカスが当てられていたということは指摘すべきであろうし、これに「海」の視点を加えてこそ、全体像が描けるということになろう。
第三に、西欧近代は確かに個別の価値として出現したが、それが多様な展開を示す中で世界に拡大したことをどう考えるのかということである。つまり、ローマ、イスラームなどは普遍であり、もともと西欧近代は個別だというのは理解できるが、ではその西欧近代は次第に普遍へと転化していったということなのか、それとも世界各地の普遍に吸収されていったのか、あるいはそれぞれが西欧近代を吸収してあらたな普遍が複数生まれたと見るのだろうか。本書は必ずしも明確な回答を与えていない。
第四に、現代への視座である。本書は21世紀の国際関係を見る場合にきわめて示唆的、刺激的である。確かに、叙述は禁欲的であるが、それでも西欧近代が世界を被い、それに対して新興国が挑戦していると見るような国際秩序観に対しては、新たな視座を提示する。つまり、そもそも西欧近代などということに対する理解それじたい、関わり方じたいが多元的であるということである。だとすれば、西欧近代が文明で個々の考え方を文化と位置づけてみる視点には限界があるということになる。本書は、そもそも近代とは何かということを考えることで、過去から現在、未来を見据える上で、多くの議論の「タネ」を提供してくれるものとなろう。
[1] 評者からすれば、このような角度からオリエンタリズムの言説を捉え直すことができるのでは無いか、とも考える。
0%
INQUIRIES
お問合せ
取材のお申込みやお問合せは
こちらのフォームより送信してください。