東京財団 政治外交検証研究会は、戦後70年を機に、「日米安保体制」、「沖縄基地問題」、「日中関係」をテーマに取り上げ、新進気鋭の外交史や国際政治史の研究者が歴史を手がかりに、それぞれの課題と方途を探る公開研究会を行った。
◆2015年5月26日 政治外交検証公開研究会
- 発表者:平良 好利(政治外交検証研究会メンバー/獨協大学地域総合研究所特任助手)
- モデレーター兼コメンテーター:宮城 大蔵(政治外交検証研究会サブリーダー/上智大学総合グローバル学部教授)
はじめに
本報告は、戦後70年という歴史の文脈からみて、果たしていまの「沖縄の姿」が日本の政治と安全保障にいかなる問いを投げかけているのか、ということを考察することにある。より具体的にいえば、沖縄戦から米軍占領期に構築された沖縄の米軍基地がいまも変わらず広大に存続しているという現実が、戦後70年を迎えた日本にとって、一体いかなる意味を持っているのかを検討するものである。
日本本土における米軍撤退と基地縮小
対日平和条約の発効によって日本が主権を回復した1952年当時、本土における米軍基地(専用施設)の面積は13万5200haであり、1万6000haの沖縄より、実に8倍以上もあった。こうした広大な米軍基地あるがゆえに、1950年代の日本では、全国各地で米軍絡みの事件・事故が多発し、しかも基地の新設・拡張をめざす米軍に対して「反基地闘争」が繰り広げられ、国内では「反基地」「反米」感情が渦巻くことになる。
この「反基地」「反米」感情について駐日アメリカ大使のアリソンは、1955年に次のような電報を本国に送り、アメリカ側の危機感を示している。「日本の世論の多数は、駐留する地上軍を占領のシンボルとして見続けている」「地上軍の早期の、しかし秩序だった撤退がきわめて望ましい」(林博史『米軍基地の歴史』)。
こうした国内世論を背景に57年に首相の座に就いた岸信介は、この「占領のシンボル」である米地上軍の撤退をアメリカ側に要求し、同年6月の日米首脳会談で実現をみることになる。これを受けて日本本土からは次々と米地上軍が撤退し、米軍基地も3万3000haにまで削減されることになる(一方、沖縄では本土から移駐した米海兵隊が大規模な土地を接収し、沖縄の基地は3万350haにまで拡大することになる)。
しかし、米地上軍がこのように全面的に撤退したとはいえ、日本本土にはいまだ米空軍と海軍が残留しており、しかも首都近郊の広大な地域を基地として確保していた。日本ではこの頃から高度経済成長に入り、しかもそれにあわせて敗戦の結果失ったナショナル・プライドも徐々に回復してきたこともあって、首都近郊にいまだ「敗戦と占領」の負のイメージを喚起させる米軍基地が厳として存在していることは、決して好ましいものではなかった。1970年に佐藤栄作が国会で次のように述べたことは、そのことを端的に示している。「外国の兵隊が首府のそばにたくさんいるという、そういうような状態は好ましい状態ではない」。
かくして、「関東計画」なるものが日米間で合意されるなどして、米軍基地の整理縮小が進み、72年には1万9700haにまで削減され、さらに80年には8500haにまで削減されることになる(現在は8000ha)。
このように岸や佐藤などの政治指導者たちをして、米軍の撤退、基地の縮小へと走らせたものは一体何だったのか。安保改定に乗り出した岸信介の言葉を借りていえば、占領の「残滓」の払拭であったといえる。つまり、「占領時代の滓みたいなもの」を「一切なくして日米を対等の地位に置く」といったものが、強弱の違いはあれ、日本の政治指導者たちを突き動かす原動力になったといえよう(原彬久編『岸信介証言録』)。
こうしたものを駆動力にして、60年には日米安保条約を改定し、また72年には沖縄返還を実現し、さらには50年代から70年代にかけて在日米軍の撤退、基地の整理縮小を実現していったのが、アメリカ占領から脱して講和後主権を回復した日本の姿であったといえる。これによって日本は、占領の「残滓」の払拭、「日米対等」の実現という戦後政治の最大課題のひとつに、ひとまず?ケリ?をつけたのである。そして、その日米関係に付着する負の側面を拭い去って、日本はその後、「日米同盟」という呼び名の下、その同盟関係を深化・発展させていくのであった。
しかし、ここで少し立ち止まって考えると、本当に占領の「残滓」は払拭されたのであろうか。確かに悲願であった沖縄返還は実現されたとはいえ、沖縄にはいまだ2万2800haという広大な米軍基地が存在していることを考えれば、果たして「占領時代の滓」を取り除くことはできたのであろうか、ということである。
旧安保条約の作成に携わった外務省の西村熊雄条約局長は、日米安保条約の本質を「物と人との協力」としている。日本がアメリカに基地(物)を提供し、アメリカは日本に軍隊(人)を提供する、すなわちアメリカに基地を提供することと引き換えにアメリカに守ってもらう、というのが同条約の本質である。そのことを考えれば、基地という最も重要な「実」の部分の大半が沖縄に局地化されて見えなくなり、その「実」の部分を脇に置いたまま、「日米同盟」は深化・発展していったのではないか、ということである。
「沖縄の姿」が問いかけるもの
以上のことを踏まえて冒頭で述べた問いに戻ると、現在の「沖縄の姿」が戦後日本に問いかけているものは一体何なのか。大きくいって2つあると考える。
まず第1は、敗戦国日本が拭い去ろうと努めてきた「占領の残滓」をどう考えるのか、という問いである。もっと端的にいえば、現在の沖縄にみられる「敗戦国の姿」を日本国民としてどう考えるのか、ということである(阿波連正一「公有水面埋立法と土地所有権」)。本土ではなくなっていった、いやなくしていった「敗戦国の姿」がそのまま強烈に残っている「沖縄の姿」をそのまま容認し、その「敗戦国の姿」を沖縄でこれからも感じ続けるのか、という問題である。講和後、主権国家として歩んできた日本という国のあり方そのものが、問われているといえよう。
第2は、国土面積の僅か0.6%しかない沖縄に在日米軍基地(専用施設)の73.8%が集中するというこの現実を、民主主義国家としてどう考えるのか、という問いである。言い換えれば、基地提供という形で安全保障上の負担を一地域が過重に背負っているという現実をどう考えるのか、ということである。そもそも民主主義国家においては国民みずからが主権者であることから、その国家を守るためには主権者である国民みずからが国を守る意志をもち、かつその負担(責任)を等しく分かち合うことが必要となる。そう考えると、民主主義国家として戦後70年歩んできた日本という国のあり方そのものも、根源的に問われているのではないだろうか。
おわりに
以上のことから、沖縄の基地問題は決して沖縄だけの問題ではなく、ましてや辺野古移設の是非に限定されるものでもなく、いまの「沖縄の姿」に凝縮的に現われている「戦後日本の姿」をどう考えるのか、という問題だといえる。平たくいえば、戦後をどう「乗り越えるのか」という問題である。