評者:平良好利(獨協大学地域総合研究所特任助手)
本書は強い危機感をもって書かれたものである。本書はその「おわりに」(宮城)でみずからの問題意識と課題を次のように記している。
県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦や27年に及ぶ米軍統治を経て「復帰」した沖縄と本土との紐帯は、多くの努力と営為の積み重ねによって築かれ、培われてきたものであった。その紐帯が今日、計画の必然性すら疑わしい米海兵隊の一基地建設のために、大きくねじれようとしている。
1995年以降のこの「20年」を俯瞰してみれば、在日米軍専用施設の4分の3近くが集中し、日米安保体制の負の側面を背負ってきた沖縄に対する負担軽減の試みが、なぜ、法廷闘争や民意の分断などあらゆる手段を用いた新基地建設の強硬という倒錯した事態に転じてしまったのか、その奇怪さが自ずと浮き彫りになると考えている。
この「歪められた20年」の実相と全体像を解き明かし、「普天間・辺野古問題」についての判断材料として世に問いたいと思い立った(237頁)
この凝縮された文章からわかるように、本書の課題は、普天間基地の代替施設がなぜあれだけ大規模な新基地建設へと変貌を遂げたのかを明らかにすることであり、この課題の奥にある問題意識は、これまで多くの人々の「努力と営為」によって積み上げられてきた沖縄と本土との「紐帯」が切れかかっているというところにある。
こうした危機意識のもとで書かれた本書の第1の特徴は、普天間基地の返還合意からおよそ20年におよぶ政治過程を、日本政府と沖縄側双方の動きを織り交ぜながら、その全体像を描き出している点である。第2の特徴は、こうした強い問題意識にもかかわらず、いやそうであるからこそ、冷静な目で事実を確定し、その分析を試みている点である。
問題が政治化されればされるほど、それを論ずる際には、どちらか一方の側に寄りかかり、相手側の論理やその置かれた状況を無視するものが多いなか、本書は一方の側に寄りかかることなく、両者それぞれが置かれた状況やそこから導かれる論理と行動を冷静に分析している。だからこそ、両者の行動の違いや認識のズレが本書を読むとよくわかるし、また現実のもつ重みや複雑さも理解できる。その意味で本書は、いまこじれにこじれている「普天間・辺野古問題」をいま一度冷静に考え直すための、格好の書だといえよう。
本書の構成と概要
本書の構成は以下の通りである。
はじめに(渡辺豪)
第1章 橋本龍太郎の「賭け」と「代償」
第2章 小泉純一郎政権下の「普天間」
第3章 鳩山由紀夫政権と「最低でも県外」
第4章 「粛々と実行を」―安倍晋三政権
終 章 「歪められた20年」
おわりに(宮城大蔵)
まず第1章では、橋本(龍太郎)総理による普天間基地の返還合意と、それに対する大田(昌秀)知事の対応がメインに描かれている。
本書の白眉はこの章である。評者は長年にわたり、普天間基地の代替施設を沖縄県内につくるのは困難な作業であるにもかかわらず、なぜ橋本がそのことを十分に検討することなく、普天間基地の返還を発表したのかということが、謎のままであった。しかし、橋本が「サプライズ」という勢いでもって沖縄側の同意を得るという、まさに「賭け」に出たという解釈を本書は打ち出しており、これには十分に納得できるものがあった。
しかも、橋本がそうした「賭け」に出た背景には、大田知事の代理署名拒否などによって政府が苦境に立たされていたことを、本書は指摘している。つまり、冷戦終結後の1995年から96年ごろは、ちょうど日米安保「再定義」の真っただ中にあり、「どれだけ華々しく『再定義』しても、米軍に基地を安定的に提供できなくなれば、日米安保体制は根底から揺らぐ」(47頁)という非常に緊迫した状況下に置かれていたのである。こうした状況のなか、大田の姿勢を軟化させるための「切り札」として、橋本が普天間基地の返還を考えたというのが、本書の見解である。
また本章では、この普天間基地の返還合意を受けて、防衛庁が普天間基地の代替施設として「嘉手納統合案」を検討していたことや、しかしそれが橋本総理のイニシアティブによって「海上ヘリポート案」を模索する方向に進んでいったことを明らかにしている。20年におよぶ「普天間・辺野古問題」の歴史を俯瞰して、本書はこの「海上ヘリポート案」の浮上こそが、「1つの分岐点であった」と指摘している。橋本が同案に舵をきった「実際の理由」について、本書は「アメリカ側の難色」を推測している。
続く第2章では、小泉政権の対応を中心に、2004年から2007年までのプロセスを分析している。1998年11月の沖縄県知事選挙で大田を破って当選した稲嶺(恵一)知事は、その1年後に「使用期限付きの軍民共用案」を条件に、名護市辺野古への移設を容認する。しかし本章では、この「軍民共用案」を2005年から2006年にかけて政府が一方的に破棄して「キャンプ・シュワブ沿岸案」で日米合意するプロセスを分析している。本書では、政府が政策変更に乗り出したそのきっかけとして、2004年8月に起きた沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故を挙げている。そして、以後防衛庁が「キャンプ・シュワブ陸上案」を模索したことや、しかしアメリカ側がこれに難色を示したことによって、結局のところ「沿岸案」に落ち着いていった過程を描き出している。
第3章では、鳩山(由紀夫)民主党政権の対応について、新たな角度から論じている。鳩山政権が普天間基地の「県外移設」を模索したことや、しかし結局のところ辺野古移設に回帰したことを、政権内部の動向に注目しながら検証している。この鳩山政権の対応については、鳩山の軽率な言動が「日米同盟」を危機にさらしたという批判が多くなされてきたが、本書はそうした議論とは距離をとって、まずは鳩山の描いた構想自体、すなわち「対等な日米関係」や「東アジア共同体」などの構想に注目している。
しかしその一方で本書は、鳩山政権失敗の最大の原因は、外務・防衛官僚のサボタージュにあるのではなく、岡田(克也)外相をはじめとする政権幹部の結束が欠いていたなど、いわゆる「政治による統制」ができていなかったことを指摘している。
続く第4章は、安倍(晋三)政権の動きと翁長(雄志)知事の対応を中心に叙述している。本章では、仲井真(弘多)知事が辺野古沿岸部の埋立てを承認していくプロセスと、その後「県内移設」に反対する翁長が知事に当選するまでのプロセス、そして国と沖縄県の「泥沼の訴訟合戦」などを詳しく追いかけている。
以上、本論を踏まえて終章では、その冒頭で政治学者ジェラルド・カーティスの言を引用して、「そもそも県内に新たな基地をつくろうとしたのが間違いだった」と指摘している。また本書は、新基地建設へと膨張していったその主要因として、「我が物顔で過ごせる居心地のよい沖縄に、日本側の負担で新しく高機能な『新基地』を欲した米海兵隊や、海兵隊との同居を嫌う米空軍の組織利益にある」と結論づけると同時に、「それに異議を唱えることなく『国策』として遂行しようとする」日本政府の対応を厳しく批判するのであった。
そしてこの20年にわたる日本政府の対応について、本書はこうまとめている。すなわち、「自民党政権による手練手管を尽くした問題の糊塗」も結局のところうまくいかず、また「過剰」に「政治問題化」させた鳩山民主党政権は日米交渉を前に「自滅」し、さらに現在の安倍政権が進める「タガが外れた」強硬路線では、「果たしてその先に、何があるのだろうか」というのである。
そして本書は次のように議論を締め括っている。
後世、「なぜあのような愚策を」と指弾されることが避けがたい辺野古での「現行案」に対するあまりに近視眼的な執着から離れ、「辺野古新基地なき普天間問題の解決」を実現できるか否か。それは日本が21世紀中葉に向けて、前途を切り開くに足るだけの「政治」を持つことができるか否か、その「試金石」なのである(234頁)
沖縄の文脈から本書を読むと
さて、前述のカーティスの表現はともかくとして、評者自身も本書の見解と同様に、この20年のプロセスをみると、そもそも「無理があった」というのが率直な意見である。そのことを沖縄の文脈から少し考えて、本書の補足としたい。
本書はその章立てをみてもわかるように、歴代政権の対応を中心に分析を試みているが、一方でそれにとどまることなく、沖縄側の論理や行動も丁寧にすくい取って叙述している。
まず大田知事についてだが、本書は大田の行動を「革新勢力を基盤にした知事であったことにのみ帰すのは、必ずしも適切ではなかろう」(32頁)と指摘している。評者も同じ意見であり、そもそも大田のあとの稲嶺も含めて歴代沖縄県知事は、保革を越えた“県民党”としての側面も有していたといえる。
沖縄では保守と革新が交互に県政を運営するという歴史を歩んできたが、その保革それぞれの県政で特色の違いはあるものの、沖縄の経済振興を図っていくことと、米軍基地の整理縮小をめざすという点では、そこに大きな違いはない。本書が引用しているように、沖縄保守のドンといわれて1978年から3期12年にわたり県政を運営した西銘順治にしても、「(本土では沖縄に)巨大な米軍基地が存在することすら、何人が知っているか。その負担の重さを国民はわかってほしい」(32頁)と訴えており、また実際にみずからが二度も訪米して基地の整理縮小を訴えている。このことは、数多くの米軍がらみの事件や事故、土地の強制接収などをこの身で経験してきた沖縄のリーダーたちにとっては、保革に関係なくもっていた感覚である。
米軍基地に対するある種の「負」のイメージは、まだ全国各地にそれが多く存在した1950年代や60年代を生きた本土のリーダーたちにしても、たとえば岸信介や佐藤栄作などの保守政治家にしても、また外務官僚などにしても、あるいは社共を中心とする革新勢力にしても、その濃淡はあれ、皆が共通にもっていたものである。本土では50年代の末から徐々に基地がなくなっていって、こうした感覚も次第に薄れていったが、沖縄ではいまだ広大な基地が存在するがゆえに、こうした感覚が保革を問わず生き続けているのである。これは、構造そのものが本土と沖縄では異なっているということであり、米軍基地がなくなっていった本土の政治空間と、戦後70年を経てもいまだ巨大な基地が存在する沖縄の政治空間との違いといえよう。
本書でも述べているように、大田知事は最終的に県内受入れを拒否して政府との関係を悪化させるが、続く稲嶺知事は県内移設を受け入れて政府との関係を再構築する。しかし、留意すべきは、その稲嶺でさえ無条件に受け入れたのではなく、「苦渋の選択」として条件付きで受け入れたということである。稲嶺は、一方では政府との協調を図り、他方では県民世論への配慮も行わなければならないという、困難な役回りを演じなければならなかったのである。
しかし、本書も述べているように、政府が「キャンプ・シュワブ沿岸案」に方針を変更したことにより、「軍民共用案」によってギリギリみずからの正当性を保っていた稲嶺県政は、結局のところ政府と対決する道を歩んでいき、大田県政と同じような境遇に陥っていくことになる。
しかし、自民党に代わって誕生した民主党政権が「県外移設」を模索したことにより、これまで苦悩しながら「県内移設」を容認してきた保守にしても、もう「苦渋の選択」をする必要はないということになり、「県外移設」にその方針を変えていくのであった。これまでの歴史を踏まえれば、ある意味で当然の流れだといえる。
ここで重要なことは、この民主党政権の対応により、米軍基地が沖縄になぜ集中するのかというその構造そのものが、沖縄の人々にとって完全に可視化されたということである。たとえば、最終的に辺野古移設に回帰した鳩山が、首相辞任後の2011年2月、海兵隊の抑止力は「方便」であった、と明らかにしている。また、本書では言及していないが、翌2012年12月には、退任間際の森本敏防衛大臣が、普天間基地の移設先は「軍事的には沖縄でなくても良い」と公言したことにより、「県内移設」の軍事的正当性は、その根底から崩れ去るのであった。
保守の西銘順治が本書で象徴的に述べているように、「沖縄の基地は日米安保のかなめ。国家の安全にとっての必要悪だ」(32頁)というのが、これまでの沖縄保守の基本的立場であった。しかし、海兵隊がどれだけ国家の安全にとって重要なのか、また軍事的には沖縄でなくてもいいとなると、何も沖縄だけが「苦渋の選択」をする必要はないのではないか、となるのは自然な流れである。
本書で引用している翁長雄志沖縄県知事の次の言は、苦悩しながらも国の安全のために基地を受け入れてきた保守でなければ出てこない言葉である。翁長はいう。「(沖縄は基地を引き受けて)懸命に日本を支え、尽くしてきたという自負もあれば無念さもあります」(205頁)。
したがって、戦後の沖縄保守をある意味で体現している翁長が、「日米安保体制を中長期的に安定化させる」ためには「『辺野古新基地』なしの普天間問題の解決」(225頁)が必要ではないか、と提起していることは、本書も注目しているように、重要な意味をもっているといえよう。
二重の困難を乗り越えて
以上、本書が明らかにしたように、いまから20年前に橋本総理は危機的状況のなか、「サプライズ」という手法によって問題を解決しようとした。それは本質的なことを深く検討する前に、少女暴行事件などが起きて危機的な状況になったがゆえに、橋本がとった“苦肉の策”である。しかし、現在の状況は、法廷での争いに加え、本年4月の米軍属(元海兵隊員)による女性殺害事件などもあって、きわめて緊迫した状況になっている。こうしたなか、政府はかつてのように「サプライズ」によってではなく、本質的なことを検討してなおかつ具体的に対応しなければならないという、いわば二重の困難を抱えているのである。
さて私たちは、この“良質の批判精神”が息づく本書より、何を学ぶべきであろうか。
*本書評は、本年6月17日に行なわれた拡大研究会(書籍『普天間・辺野古 歪められた20年』から沖縄基地問題を考察する)で報告した内容を若干加筆・修正した上で、文章化したものである。同企画の性格上、通常の書評とはやや異なる面があることを断っておきたい。