~生物学者・勝木元也氏と語る
生物学からみたiPS細胞のリスク
ぬで島 先ほどは、iPS細胞になっても元の細胞の履歴があるということでしたが、それは臨床に使った場合、どのように影響するのでしょうか。勝木 履歴は、細胞ごとに違う可能性があります。どこから取ってくるか、皮膚か腸かで違うだけでなく、同じ皮膚の履歴でも、細胞ごとに違うらしい。DNAに印が付けられると言いましたが、今、それを細胞の核の中にあるすべての遺伝情報についてゲノムワイドに調べられますからね。どこの遺伝子がどう変わっているか、詳しくわかるようになりました。
ぬで島 そうすると、もし臨床で使うのであれば、一番害のない履歴がついているところから取ってきてiPS細胞をつくればいいという話になるのでしょうか。
勝木 そうなるべきだと思いますが、ここでも何が危険で、何が問題かが解っているわけではありません。たとえば再生医療の対象としてもう一つ大きな候補に挙がっている神経細胞の再生であれば、その神経細胞に分化が近いところからiPS細胞をつくって、あるいはそこに含まれている体性幹細胞を分離して、それを戻すのがいいという発想も出て来ます。ただ、今のところ体外での培養で細胞数を増やすのが難しい。
ぬで島 それでいうと、神経には神経の幹細胞が、私たちの体の中にはあるので、それを何とかして使えばどうかという議論につながりますね。iPS細胞にまでしなくても、神経の系列の中で、神経細胞の持つデフォルトの履歴に戻せるのではないか、という可能性です。
勝木 そうなります。研究としては、そちらの方に向かっている人はたくさんいると思います。
ぬで島 iPS細胞一辺倒の今の雰囲気の中で、そういう別の系統の研究に支援が行き届かなくなるのではないかという恐れがありますね。これは科学でなく政治の話になりますが。
勝木 そう、支援の話は本当にそうですね。
ぬで島 履歴の影響のほかに、考えなければいけないリスクにはどんなものがあるでしょうか。
勝木 見かけ上はうまく狙った細胞ができたようにみえるけれども、もしかしたらこれががんになるかもしれない。よく言われているのは、どうしても分化させきれなかった、未分化のままの状態の細胞が混じった場合、それが腫瘍化する恐れがあるという想定です。
しかし私は、本当にそれだけかなと思うんです。もともと、分化して安定していた細胞の中に遺伝子を入れて、未分化の状態に戻したんですよね。それがiPS細胞です。そこにまたいろいろ手を加えて、狙った細胞、網膜とか神経などの細胞に分化させるんですよね。
ぬで島 治療で使いたい細胞に、もう一度化けさせる。
勝木 そうです。それを、大変なスピードで、分裂させて実現する。そのとき、ふたたび分化した細胞にしても、ある未知の条件で、できた細胞がまた元のiPS細胞に戻る可能性を否定できません。
ぬで島 神戸で行われようとしている臨床試験計画でいえば、一度網膜にした細胞の一部が、患者の目の中で、何らかのきっかけでまた腫瘍細胞(iPS細胞)に戻ってしまうことがないかどうかということですね。
勝木 そうです。iPS細胞、つまり未分化の状態に戻ってしまうと、移植された場所で腫瘍を形成してしまう。
ぬで島 それが悪性腫瘍、つまりがんになれば、目から体中に転移してしまう恐れもありますね。
勝木 そういうことです。これは、まだ実際には確認されていません。移植に用いるために分化させ、動物実験段階で移植した場合、一部にがんが発生することが報告されています。しかしそれは、分化させきれていない元のiPS細胞が残っていたからだと解釈されています。iPS細胞から、ちゃんと分化したはずの細胞が、またがん細胞に戻ってしまっているのではないかという仮説を立てて、それを検証する研究は行われていない。だからそういう現象があるのかないのか、確認されていないのです。
ぬで島 腫瘍化が起こっても、それは元からあるiPS細胞が誤って混じっているからそうなるのだとしかみていないわけですね。もしかしたら分化してできた細胞がiPS細胞に戻ってしまっているかもしれないとは、誰も思っていない。そういう可能性が想定されていないから、実際にそれが起こっているかどうか、誰も確かめようとしていない。
勝木 そうです。それは生物学からみたiPS細胞のリスクについての、大事なポイントです。何か印をつけておいて、できた腫瘍がどこから由来したものか調べ、分化させた細胞がまたiPS細胞に戻ることがあるかどうか、科学的にきちんとやろうと思えば、実験で確証できると思います。もちろん可能性としてはもう一度分化した細胞からはiPS化は起こらないことも充分考えられます。何せ、培養されている条件と分化状態の細胞とでは、まったく環境が異なるのですから。しかし、本当にそうかという問いはすべきです。
ところが、そういう研究は行われていない。いままで発表されてきたのは、元のiPS細胞が混じるのを防いで、できた分化細胞が腫瘍化するリスクを減らすという研究がほとんどです。がんになる細胞が10%あったものが5%になり、0.1%になり、0.01%になりましたというかもしれないけれど、それは、誤って混じるのを防いだからそうなったのか、それとも本当に細胞の性質としてそうなのか。これは根本的な問題ですよ。これは、ES細胞にも言えることです。Geron社がFDAに提出した脊髄損傷に対する治療用の細胞株からは、がんは発生しませんでしたが、嚢胞が現れて、その安定性が疑われました。これらのことは、けっして山中さんの科学的業績を何ら損なうことではありません。むしろその業績のおかげで明らかになった進展です。
ぬで島 そのようなリスクの想定は、論点としてきちんと出されていないですね。やはりiPS細胞は世界中でまだ経験が少ないので、安全といってもどこをどうチェックしていいのか、想定が難しい。いまのお話を伺って、元のiPS細胞が混じるのを防ぐという技術的な、応用開発の発想だけでは、リスクの想定は十分にできないだろうということがわかりました。安全性のチェックと言っても、生物学的な基礎の解明なしには何をどこまでチェックすればいいか確定できないはずだ、ともいえるかもしれません。基礎生物学からの提起が、もっと必要ですね。
勝木 そうです。いま話したような疑問について、発生のメカニズムという観点で、基礎生物学としてちゃんと課題を設定してやらないと、問題が解決できないし、そもそもそれ以前に疑問としても出てこない。本来臨床医学にもそのようなアプローチはありましたし、学問の王としてのプライドからいっても、無くなっているわけがないと思いますが、社会的な過度の期待や政治的な圧力によって、説明する機会を失っているのではないかと思います。
ぬで島 だからそこは生物学者の出番だということですね。医学、臨床応用と基礎科学の関係については、次の(2)でもう一度、まとめて議論したいと思います。
iPS細胞は、病気のメカニズムの研究に使えるか
ぬで島 生物学からの問題提起もいただいてみて、iPS細胞はまだ、いろいろな意味でよくわからないので、そこからつくったものを患者の体に入れるのは、ちょっと時期尚早ではないかという思いを新たにしました。
さてiPS細胞の応用研究は、直接患者の体に移植するものをつくるのではなく、病気のメカニズムの研究をする材料として使えば、大きな進展が期待できるといわれています。
たとえば神経の病気の患者さんの細胞からつくったiPS細胞を、試験管の中で培養して、神経に分化させる。患者さんの神経なので、病気の神経になる。それを分析すれば、どのようにその神経の病気が起こるのか、明らかにできるだろう。それが明らかにできれば、どう治療すればいいか、どういう薬をつくれば効くかなどがわかるだろう。iPS細胞は、再生医療よりも、病態研究といいますが、その方向で本領を発揮できるのではないかと考えられています。
勝木 そうですね。そういう研究をみなやっていますね。いろいろな病気の患者さんの細胞を日本中でストックして、病気ごとのiPS細胞をつくっていますね。
ただ私は、その方向の研究についても、あまり楽観的にはみていません。ストーリーとしてはありうるべき姿だと思っています。ただ、科学者として、あるいは実験家としてみると、iPS細胞を使った病態研究というのは、リアリティがなさすぎる。
ぬで島 それはどういう理由からでしょうか。
勝木 たとえば神経難病でいえば、患者さんの皮膚か何かを採ってiPS細胞をつくります。問題は、それをどうやって、患者さんの病気の神経組織と同じものに分化培養できるかということです。それを実現できる技術なり方法なりに、まだリアリティがない。病気の原因は、細胞でなく、組織のレベルで起きることがほとんどでしょう。細胞をいっぱい培養してシートにしたくらいでは、だめだと思うのです。
ぬで島 細胞レベルでできる研究はあまりないのでしょうか。
勝木 極めて限られると思いますね。
そのなかでいま、唯一現実味があると私が思うのは、神戸・理研の笹井さんによる、三次元の層構造組織の培養成功の報告です。とくに今年の『Nature』に載った、眼杯をつくった成果と、脳下垂体をつくった研究が生物学的には革命的だと思います。うまく成長させれば、間違いなくノーベル賞クラスの大発見だと思います。
細胞を使って組織にまで構築するのは、試験管内ではできないと考えられていました。だから、笹井さんの報告は驚きだった。生物学者から言うと、大発見です。
彼の研究成果で一番面白いのは、ES細胞を三千個集めて培養すると眼杯一個ができる、一万個集めると眼杯が三つできる、という点です。大きな眼杯が一つできるのではないんです。また千個集めれば三分の一の大きさの眼杯ができるということもないらしい。
これを「自己組織化」と笹井さんは言いますが、細胞が三千個集まると、どういうメカニズムかまだわからないけれど、それぞれの役割を自ら知っているようにそれぞれの性質を変えながら、網膜や神経の層構造を自らつくっていく。ほとんど完全な立体構造を持つ眼杯をつくっていく。ややオーバーな言い方をすると、細胞が集まるのが先で、そのあとから遺伝子が発現するのかもしれないのです。
ぬで島 いままでの常識では、細胞が集まって組織になるのも遺伝子にプログラムされていると考えられていたのですね。
勝木 それがわれわれ分子生物学者の先入観でした。遺伝子にプログラムされたとおりに、細胞が時間とともに集まって三次元構築されるという単純なモデルですね。ところが発生学者や細胞生物学者は、昔から、細胞が集まってはじめて面白いことが起こると言っていました。笹井さんは、確か5年以上前に、ES細胞から大脳の組織の三次元構築に成功したと聞いたことがありますが、あれが最初の、細胞社会の自己組織化、自己制御だったのだろうと思います。
ぬで島 多くの細胞が集まって組織になるプログラムが遺伝子の中にあらかじめあって、それが発現されるのではなく、細胞がいくつか集まったところで、その細胞の間で、何か伝達物質が出ていくのかわかりませんが、何らかのコミュニケーションが成立して、そうなった状態で、それがある遺伝子の部分にスイッチを入れて、組織形成が果たされる。生体内の環境が、遺伝子の発現をコントロールしているということですね。
勝木 それを実験的に試験管内で再現できたというのは奇跡ですよ。一様な三千の細胞が、見かけ上は、全体が一斉にそれぞれの細胞が役目を果たすように変化し、目になりましょう、神経叢も六層になりましょうということをやり始めるわけですよ。われわれは、受精卵からの発生過程で、最初からプログラムがあって、順々に三次元の組織になっていくのだろうと思っていたけれど、そうでないこともあるらしいことがわかったのです。どうやら細胞は自らの運命を知っているだけでなく、周りとの関係で、柔軟に教えられながら対応しているように見えます。
そこで翻って考えると、どんな生物も最初は、一様に見える細胞をたくさん分裂させるんですよ。まず細胞の数を増やす。そして突然そこから、陥入が起こったり、島が出来て組織になったりするわけです。
ぬで島 それは、個々の細胞レベルで起きている生命現象とは違うことが、多細胞レベルで起きるという、たいへん興味深いお話ですね。その多細胞レベルで起きる独特の生命現象の法則を理解するのに、iPS細胞を培養しただけでは不十分で、iPS細胞の持つ組織構築の能力をよく研究して、病気のメカニズムの研究に役立たせることが重要だということですね。
iPS細胞を使って、そういう多細胞間の自己組織化の状態にまで持っていくことはできるでしょうか。
勝木 できる可能性は充分にあります。あとで話題にする、文部科学省が改訂した幹細胞・再生医学研究の新しいロードマップでは、三次元培養について、膵臓、肝臓なども前倒しして実施することになっているようですので、少しリアリティが出て来ました。
この三次元培養の成功については、安全性に関しても大きな示唆を与えるのではないかと思います。私は、未分化のiPS細胞が混じっていることががん化の見かけ上の危険性であるかのような議論がなされていることに疑問を呈してきました。iPS細胞から分化させた細胞にも、履歴が残っている限り、それが再び未分化状態に戻ってテラトーマ(奇形腫;癌の一種:iPS細胞のすべてが持つ属性)をつくってしまう可能性を、どうやって見つけ出し排除するかが安全性の決め手だと思うからです。
キメラマウスでの実験で、iPS細胞からなる個体からは、履歴が残っているにかかわらず、がんが発生しないという事実がわかっています。皮下に移植すると奇形腫になるES細胞も同様にがんは発生しません。そこから、三次元の組織構築によって造腫瘍性が抑えられる可能性が考えられます。神戸で始められようとしている網膜再生の臨床試験においても、がん化のリスクについて定量的な説明が必要ですし、そのことを含めて三次元培養の安全性への寄与について研究が大きく進むのではないかと期待したいところです。