~生物学者・勝木元也氏と語る
安全性の検討こそ重要な倫理の議論である
ぬで島 ここまでの話をまとめると、iPS細胞は、受精卵をつぶしたりしてほかの命を犠牲にすることなく、患者や健常ボランティアの皮膚などの細胞からつくれるという点で、生命倫理上の問題がない。でもだからといって、生物学的な基礎に基づく安全性の確証を厳密に突き詰めずに、早々に治療に使うのを承認してよいことにはならない、ということですね。勝木 そうです。専門の審議会などで倫理の問題を論じるとき、参加していて非常に気になるのですが、どこから採ってくるかという由来の倫理性の話ばかりで、できてくる細胞の性質については、ほとんど論じないのです。万能細胞といっても,奇形腫というがん細胞の性質を持っていますから、安全性の問題はここからすべて出てくると思われます。
ぬで島 それは安全性の本質の問題で,分化の仕方などは重要ではあるが技術的な問題ですね。
勝木 そうなのです。しかし、いわゆる生命観のような倫理は、宗教的背景が変わったり、時代が変わったり、研究者たちの思考が変わったりすると、どんどん移ろっていくものです。私は、一番大事なことは、その細胞の基本的な性質がどういうものかを調べ上げ、その成果を全部公開することだと思います。それが最も重要な倫理だと思います。
ぬで島 勝木先生に前に伺った話(*参考文献参照)ですが、1970年代初めに遺伝子組換え技術が実用化されたとき、科学者たちが、自主的にモラトリアム(研究の一時停止)をかけて、適正な実施のための指針をつくりました。そのとき議論の核心に置かれたのは、生命の根幹である遺伝子に人が手を入れていいのか悪いのかという問題ではなく、安全性の問題だった。そのためには,組換え体を物理的に封じ込めて、危険かもしれない組換え体生物を外に出さないことと、もし外部に出たらすぐに死んでしまうように工夫した大腸菌を使う生物的封じ込めを極めて具体的に決めたことです。この指針をしっかりクリアできなければ、遺伝子組換えを研究に使ってはいけないとされた。それが遺伝子組換えの最大の倫理問題だったわけですね。
勝木 そうです。危険性を予測して,それを一つ一つ封じ込めながら実験ができること、言い換えれば潜在的危険性から地球環境や人間を守るための指針が、イコール研究者の倫理なのです。当時は,生命倫理などとは言わなかったのではないでしょうか。
ぬで島 そして、それがひいては研究成果の応用を受け入れるかどうか判断する社会の倫理にもなると思います。iPS細胞研究でも、それは同じはずですね。
勝木 臨床への応用における安全性の検討については同じだと思います。
ぬで島 しかし今、あまりにも社会の期待が大きすぎ、政治の後押しもあって、その倫理の筋道をちゃんと踏めないような状況にあることが危惧されます。そういう現状に、私たちはどう対応したらいいでしょうか。
勝木 遺伝子組換えの指針は、学問の自由の保障を前提にしたうえで、組換え実験がどこまで危険か、最大限、想定できることをできるかぎり検討して、危険に対処するための設備などの基準を設け、新しい問題が出てきたら、また検討し直して改訂するというコンセプトで成り立っています。その指針の枠内で研究を行うならば、学問の自由は保障できるという立場で、科学者は自らの行動原則を決定し、研究を進めてきたのです。
ぬで島 よくわかります。問題事例や事故が起こってから対応するのではなく、起こるかもしれない有害事態をできるかぎり想定して、起こらないうちからあらかじめ対応するという精神ですね。一言でいえば、「予防原則」でしょうか。それが、倫理の原則にもなる。それが重要なことだと思います。予防原則は化学物質の環境影響評価のような環境問題への対応の原則として確立されてきたことですが、私は、生命倫理の原則にもなると考えています。
しかし日本では、予防原則に基づいて生命倫理の議論がされることはなく、逆に、脳死臓器移植が典型ですが、何かひどく悪いことが起こってマスコミなどで問題にされてからはじめて、法律で規制しようという話になる。
一方、フランスの生命倫理法は、予防原則で貫かれています。事件、事故が起こらないうちに、先端生命科学・医学がもたらすリスクを想定し、先取りして全部最初に網を掛けてしまう。その土俵の中で、研究の自由を最大限に行使させるというのが、基本精神になっています。
勝木 ほう、そうですか。
ぬで島 予防原則でルールをつくるには、リスクを想定するための科学的な知見が不可欠です。つまり安全性の検討は、技術的な問題であると同時に、科学そのものの問題です。
勝木 そのとおりですね。
ぬで島 ところが文部科学省による「今後の幹細胞・再生医学研究の在り方について」という政策文書では、どんな研究をどういうスケジュールで進めるかを示したいわゆる行程表がまとめられているのですが、その最新版を見ると、生物学的な基礎の解明は後回しにして、臨床応用を前倒しにしています。初期化メカニズムの同定という基礎研究の重要性は謳ってはいますが、ともかく臨床応用を早く進めようという姿勢が前面に出ています。
確かに生物の発生をリプログラミングする仕組みの解明なんて簡単にできることではなく、長い時間がかかるというのはわかります。しかしそうした生物学的な基礎の解明の積み重ねがないと、どんなリスクがあるかも十分に想定できないはずです。そのまま応用に進んで、もし「想定外」の問題が起こったら、社会の信頼を失い臨床応用全体にストップがかかってしまう。研究の倫理というだけでなく、応用開発のリスクマネジメントとしても、十分な基礎の解明に基づく予防原則を、もっと前面に出すべきではないでしょうか。
勝木 原則はその通りですが、ぬで島さんがおっしゃる基礎研究と応用研究というのはそんなに画然と分けられるものではありません。また基礎的なことがわからなければ,何もわからないわけでもありません。経験則からいって、具体的な対象に対して、安全性の問題点がどこにあり、それをどう解決するかというときに、基本的な性質を知っていることが多くの場合、解決のヒントを与えるということです。
医療への応用に対して生物学は何が言えるか
ぬで島 そこで、 (1) でふれた、生物学と医学の関係、科学とその応用のあり方の問題について、じっくり考えてみたいと思います。
文科省の行程表でもそうですが、臨床医学の場では、生物学的な仕組みがまだよくわからなくても、治療に役立つ可能性があれば直ちに試す。よくわかるまでやらないといっていたら、医療は進まない。「わからないものでも何もやらないよりはいい」というのが、臨床医学の行動原理だというのです。
勝木 確かに医学者はそういうふうに言いますね。しかし普通は、動物実験などをして大丈夫かどうかを確かめると同時に、問題点を見つけて解決しようとするはずですから、発言ほどには、単純にお考えではないと思います。ですが表面に出てくる報道に振り回されていることは確かだと思います。
ぬで島 そういう臨床医学の、いわば功利主義は、とてもわかりやすいので、経済界や政治家やマスコミも乗りやすいですね。そういう流れに対して、ではそれだけでいいのか。臨床医学に対して生物学は何が言えるのか、どういう役割を応用の進展に対して担えるのか。これは科学と応用の関係というだけでなく、医学研究と社会の関係の問題でもあると思います。私の経験からして、生物学者は、医学出身の人に比べると、生命現象に対する基本的感覚が、一般人に近いと思うからです。
勝木 私は、それほど臨床の先生方が無謀だとは思いませんが、研究開発の支援を求めたりするときに、功利主義的な説得が極めて有効であることも事実ですので、そのように見えてしまうのではないでしょうか。生物学者も医学者も生命現象に関する基本的感覚が違うとは思いませんが、もし違うとすれば、生物学者は自然科学者ですから生物の拘束条件をよく知ろうとします。すなわち正常の生物の生理を知ろうとしますが、医学者は、病気を治す段階になるとその拘束条件を突破してでも苦痛をとるための方策を開発しようとします。これは見かけ上の職業的な特徴であって、生物学者とも普通人とも異なる専門家の持つ性質だと思います。善し悪しの問題ではないでしょう。
ぬで島 ただそこで、社会全体が、功利主義に基づく再生医療振興にいっぺんに流されないようにするには、生物学者の発信がたいへん重要だと思うのです。
勝木 それは非常に興味深い論点です。われわれ生物学者は、自然を相手にしています。だから、いくら自分が様々な根拠をもって予測しても、それを自然が採用していなければ、拒絶されるのです。そこで自然が採用していると考えられる根拠をさらに学んでゆくことになります。
ぬで島 勝木先生が再三言ってこられたように、自然の拘束条件を明らかにするのが自然科学としての生物学であるということですね。
勝木 そうです。それに対し、自然の拘束条件を超えてでも病気の治療を実現させたいという臨床医学の精神は崇高で尊い。それはよく理解できます。しかし生物学者としては、その治療法のなかに自然が認めるものがなければ、必ず拒否されるだろうと思うのです。
ぬで島 私が経験した例でいいますと、臓器移植を受ける患者には免疫抑制剤を一生飲ませ続けます。それに対して生物学系の研究者は、免疫は生体を成り立たせている根本的なメカニズムだから、それを抑制するなんて考えられないと言うのです。でも医学系の研究者は、「いや、技術的にきちっとできるように必ずなるから、どんどんやればいい」と言うんです。
勝木 それは面白い。
ぬで島 一般人がそれを聞いてどう思うかですね。健康なときは、生物学者の言うことをもっともだと思うかもしれないけれど、いざ病気になったら、お医者さんの方につく気がします。
しかしそこで、とりあえず今は直接命にかかわる傷病がない者、そういう傷病者を治す責任を負っていない者の役割が、別にあると思うのです。
勝木 なるほど、わかります。自然の拘束条件というものがあるのだといくら言っても、臨床を推進する立場の人は納得しないかもしれませんね。その点で、臨床医学と工学はよく似ています。再生医療研究では工学の果たす役割が大きいです。
臨床医学や医療工学において、先に言われた予防原則がどこまできちんと貫けるかは、基礎研究におけるよりもはるかに難しいです。われわれ生物学者は、生き物の拘束条件を見つけていけばいいけれど、臨床家は、患者を救わなければならないという、自然の拘束条件とはまったく違う別の条件に支配されます。それを考えながら、自然とも合わせていくのはたぶんほとんど不可能だから、彼らの行動原理は、よく理解できます。
しかし、何が自然の拘束条件かを十分に想定しないでやった結果、もし万一有害な失敗例が起こったら、応用開発への信頼がすべて失われる、トータルロスになることがあるわけです。iPS細胞からつくった細胞を患者に移植して、十年後にがんになった例が出たら、誰もあとを続けられなくなります。
しかし、iPS細胞から体内で正常に働くものをつくりだすのは夢ではない。長期的には実現できるだろう。そのプロセスの中で、安全性をどう保証するか考えたときに、何よりも重要なのは、わかっている細胞の性質についてその都度、不都合な真実も含めて、全部世に出さなくてはいけないということです。生物学者が参加できるのは、そこくらいでしょう。
ぬで島 予防原則に十分に基づかないで進めて一度失敗したら取り返しがつかないから、考えられる最悪事態をできるだけ想定してそれに対応できる備えをあらかじめつくっておくことが、臨床の危機管理として重要である。その最悪事態の想定において、iPS細胞の場合とくに、生物学が示す事実を組み込んでいくことが役に立つだろうということですね。
そうした基礎科学の役割が、現状では、ちゃんと組み込めていない。社会に発信すべき倫理の課題として取り上げられていない。それが大きな問題だと言いたいですね。
勝木 しかし予防原則も研究現場から生まれるものですから,臨床研究にまで進めて来られた研究者たちが責任を持って提案するしかありません。直接関わっていないが、説明を聞けば理解でき、問題点を指摘できる専門家の会議が必要になるかもしれませんが、それが各機関の倫理審査委員会ではないでしょうか。お尋ねのような点ではそれほど生物学者が様々なことを想定できるとは思いませんが、研究現場において、何が問題で、その問題をどう調べ尽くすかについて議論の仲間となるべき役割があるかもしれません。
ところで、日本の幹細胞による再生医療研究の中心人物たちは、まだ安全だとは一言もいっていないのです。そこでなぜ安全が疑われるのかについて、たとえば,動物実験で、百例移植してみたら五十例はがん化しました、別のやり方をしたらこうなりましたという定量的な結果を明らかにしてもらわないといけない。
他方、われわれの体の各組織は何百、何千という細胞から成り立っています。その細胞のあちこちで突然変異が起きても、全体としてはそれほどのダメージにはなりませんので、機能は正常に保たれます。ところがそのなかから一個細胞を採ってきてiPS細胞をつくる。すると、それ以後の細胞はみな元の細胞にあった突然変異も引き継いでしまう。皮膚の細胞などは、外部に晒されていますから、放射線が当たったり、毒物に晒されたりして、いろいろと変異を起こしたり障害を受けたりしやすい。
ですから、再生医療に使う細胞が、ゲノムにどういう変異のダメージを受けているか調べる必要があるかもしれない。どういう状態が安定なのかを調べないといけないですね。そこは個々の臨床計画に使う細胞について必要なゲノムの情報をきちっと調べるべきだと思います。
私は再生医療に反対しているわけではまったくありません。これほどすばらしい技術が展開されるときには、カタストロフィックなことが起こる最大リスクを予め考えておくべきだと言っているのです。それができる研究体制の構築に、国の援助を向けるべきだと思いますね。
ぬで島 日本の中核とされている山中教授が率いる京都大学のiPS細胞研究所で、最悪事態をきちっと想定するのに必要な役割を果たせる基礎生物学研究ができる人材を、ちゃんとリクルートしているか、ぜひ検討するべきでしょうね。
勝木 再三申し上げて来ましたが、おそらくすでにそのような体制ができていると思います。ですから今更そんなことを言う立場にありませんが、そこですでにわかっていることは、すべて公開すべきであることは確かだと思います。