第4回研究会の概要
2008年5月9日、第4回研究会を行った。今回は、生命・身体の倫理論と並ぶ本プロジェクトの二本柱の一つである、科学の倫理論の土台を考える作業の第一歩として、生命科学・医学研究と「学問の自由」の関係について、日本の憲法学はこれまでどう論じてきたかについて報告を聞き、議論を行った。
その結果、学問の自由についての憲法論は、現代の科学の進展によって生じた生命倫理的課題を十分に想定していないことが分かった。次いで、憲法上の学問の自由は、ほかの市民的自由権と異なる性格を持つことが明らかになった(生まれながらにすべての人が持つ自由ではなく、大学ないし研究者の特別の自由という面が強い)。
以上を踏まえたうえで、政策論として、精神的活動である学問と、フィジカルな作用を伴う研究(実験)は区別すべきであり、後者は、憲法上の自由権の保障とは異なる枠組みで、許容される範囲を確定するべきであるとの提起がなされた。
また、倫理の軸となるのは欧米では憲法ではなく宗教・哲学だと思われるが、日本ではそうした基盤がないので、憲法を倫理の拠りどころにしている面があるのではないか、という分析もなされた。
次回は、韓国での生命倫理法改正の報告と、日本の身体論のレビューを行うこととした。
出席者:ぬで島、洪、小門、島田、安井、吉原、南條、赤川、相原
発表者:田口空一郎(構想日本政策スタッフ、東京大学大学院医学系研究科医療倫理学講座客員研究員)
発表と議論の内容
学問の自由に関する憲法論と生命科学・医学研究(田口)
[発表]
1.「学問の自由」の概念と歴史
現在、憲法で学問の自由について明文で規定している国は、発祥国であるドイツのほか、日本、イタリア、韓国など、後発先進国に限られている。英米をはじめとする多くの国では、学問の自由を憲法で特別に保障している例は少なく、思想・良心の自由や表現の自由といった精神活動の自由を保障する市民的自由の権利の中に含まれていると考えられている。
日本の憲法学の通説では、学問の自由には、1)研究および研究発表の自由、2)教授・教育の自由、3)大学の自治が含まれるとされる※1。現代の生命科学・医学研究がもたらす問題との関係でいえば、主に1)の意味での学問の自由が問題になる。
2.「学問の自由」と生命科学・医学研究
学問の自由に関する日本の憲法論は、概括すれば、基本的に一九五〇年代の議論の域にとどまり、現実の科学技術の進展に適応しているとはいえない。伝統的な憲法学説は、憲法第23条の学問の自由の意義を、1)国家の学問研究への干渉の排除、2)大学の自治の保障と大学運営への国の干渉の排除、3)警察権の干渉の排除 に求めてきた。だが今日、(1)科学技術の急速な進展とともに生命・健康・環境に重大な影響を生じる可能性が高まり、研究のあり方そのものが問われている、(2)科学技術の研究の高度化や研究施設・設備の巨大化などにともない、研究費の財政支援を国家や民間資金に大きく依存している、(3)民間企業での研究が活発化し、従来の大学中心の研究のあり方が大きく変容している、(4)大学の大衆化や教育水準の低下など、大学のあり方も大きく変容している※2。これらの現代的変化に、従来の学問の自由に関する学説は対応しておらず、妥当性を喪失しつつあるといえる。
3.生命科学・医学研究の規制のあり方 ―遺伝子技術を例に―
学問研究の自由に対し、それを規制する際に考えられる具体的な論点としては、以下のようなものがある※2:
1)「学問・研究」と「技術」の区別 2)「営業目的」と「研究目的」の区別
3)国際的な協力体制の必要 4)規制の弾力的な見直しの必要
5)科学者・技術者の倫理 6)学問分野ごとの検討の必要
4.「学問の自由」の規制原理
日本でこれまで生命科学・医学研究の自由に対する規制原理として言及される筆頭は、「人間の尊厳」である。これはドイツの判例や学説に影響を受けた主流の憲法学説といえる。
○戸波江二氏の学説
「・・個人の尊厳の原理に照らして本質的に許されない研究を除いては、受精卵の研究の許容性にはグレイゾーンがあり、その具体的限界は法律によって確定されざるをえないことになろう。
しかし、その場合でも、受精卵の研究目的の使用・・を禁止する法律が憲法上の根拠なくして研究の自由を制限して違憲となる、ということではない。それらの禁止立法は、生命の権利、家族の保護、人格権といった憲法上の権利保護に基づく規制であり、そして、その背後に人間の尊厳の原理をみてとることは十分可能である。」※2
○長谷部恭男氏の学説
「生命科学の発展は、学問の自由、とくに学問研究の自由の身分について再検討を促す。筆者の理解では『学問の自由』は大学を典型とする高等研究教育機関のメンバーに認められる憲法上の特権であり、人が生まれながらにして享有する人権ではない。他者に与えられた地位で、他者の財政的支援を受けつつ、なお自らの言いたいことを言う自由は、個人が生まれながらにして平等に享有する表現の自由には含まれないはずである。」
「・・学問の自由が認められるのは、それが重要な社会公共の利益につながるからである。そうであれば、他の同等のあるいはより重要な利益と衝突するときは、譲歩を余儀なくされうる権利だということになる。遺伝子工学の場合でいえば、遺伝子の組み替え実験が人間や環境にもたらしうる深刻で広範囲に及びうる影響を理由に、当該分野における研究活動の自由が制約されることも正当化する余地がある。」※3
まとめ
憲法学でのこの分野における議論の蓄積は乏しく、近年ようやくその学問的・社会的重要性が再認識されてきたといえる状況にある。この背景には、学問の自由が本来担ってきた法規範的な意味と、今日の学問のあり方との乖離があり、時代に即応した法規範上の意味の再構成が求められているといえる。
そのなかで、価値や権利の多元性や多層性を理論的に包摂しうる観点を導入したと評価できる長谷部氏の学説は、我々の直感や倫理観に反する科学技術の使用に対して規制を掛ける正当な理由を提供する、新たな法的価値論の創造に向けた一歩となるかもしれない。
※1 芦部信喜『憲法学III 人権各論(1) 増補版』有斐閣、2000年
※2 戸波江二「学問・科学技術と憲法」樋口陽一編『講座・憲法学 第4巻 権利の保障(2)』日本評論社、1994年
※3 長谷部恭男「憲法学から見た生命倫理」『憲法の理性』東京大学出版会、2006年
ディスカッション
まず、憲法でいう学問の自由とは、academic freedomと訳されるように、歴史的には、大学を中心とした特定の職能団体(=アカデミー)の自由であって、万人に開かれたほかの自由権とは異なるものであることが確認された。
学問とは真理を探究する精神作用であると考えれば、それは思想・良心の自由(憲法第19条)で保障されており、また教授・教育の自由も言論・表現の自由(同第21条)として保障されているのだから、「学問の自由」を憲法上の権利として別個に規定する必要はないのではないか、との意見が出された。現代の研究は、昔と違い、大学を超えてその外で行われるようになっており、とくに生命科学・医学はそうである。にもかかわらず、生命倫理上の政策課題に対し、憲法の学問の自由を持ち出して公的な規制の立案を否定する現状は、正されるべきであるとの意見も出された。
それに対し、日本国憲法に学問の自由が規定されたのは、戦前の国家権力による弾圧を繰り返させないためであって、長谷部説のように、その制定趣旨から離れて学問の自由の通用する範囲を限定する議論は危険なのではないかとの指摘があった。生命科学・医学研究がもたらす問題を想定せずにつくられた憲法を前提にした議論は、不必要ではないかとの意見も出された。いま最も問題なのは、「市場の原理」である。どのような研究に資金が与えられるかが、実際に行われる研究の中味を左右する現代の状況のなかで、「学問の自由」とは果たして何であるかを考えるべきであるとの指摘がなされた。
また、生命科学・医学の「研究」は、フィジカルな作用を(とりわけ生き物に)及ぼす実験行為を中心とするので、精神的活動である「学問」とは異なる概念として区別すべきであるとの意見が出された。学問は目的であり、研究はそのための手段、道具である。そのように両者を弁別すれば、政策論として、憲法上の自由権の保障を前提としながら、それに抗する原理(たとえば「人間の尊厳」)にいちいち訴求しなくとも、倫理上の理由で公的な管理や規制を研究行為にかけることはできるだろう、というのがその趣旨である。
さらに、憲法は国家の権能とその正当な行使の手続きを定めた法規であって、ことの善悪を示す規範ではないとの指摘がなされた。にもかかわらず、多くの日本人は、憲法に書いてあることは善であると認識しているふしがある。それは、日本には、西洋のキリスト教社会やイスラム世界にあるような、ことの善悪を示す基盤がないので、憲法がその代わりにされているからではないか、との意見が出された。
それに対し、西洋やイスラム世界では本当にそのような善悪の原理があって、社会の意思決定を支えているのかとの疑問が出された。これには、少なくとも議論の軸になる規範を提示する主体はあって、それへの賛否で論議が進むと考えられる、との答えが出された。日本には、そうした議論の母体を提供する主体がない、ということである。
また、憲法を善の拠りどころにしようとする態度は、団塊世代までの年代を中心としたものであると思われる、今後世代が代われば憲法に対する認識も変化するのではないかとの意見も出された。
学問の自由を規制しうる原理として「人間の尊厳」を持ち出すのが日本の憲法学説の主流であるという発表に対し、日本国憲法は第13条で「個人の尊重」を謳い、婚姻に関する条文(第24条)で「個人の尊厳」をいうのみで、ドイツ基本法のような普遍的な「人間の尊厳」は規定していない、との指摘がなされた。「個人の尊厳」あるいは「個人として尊重される」とは、具体的・個別的なケースでの侵害に対応する概念で、それを超えた抽象的で普遍的な価値を保障する「人間の尊厳」とは異なるものであるとの理解がある。にもかかわらず、日本において、学問の自由に優越する憲法規範として「人間の尊厳」を持ち出す学説は成り立つのか、との疑問が出された。これに対しては、ドイツ流の「人間の尊厳」をいうようになったのは生命科学・医学の問題が関心を集めるようになった最近のことであり、伝統的な憲法学説ではなかった、との答えがあった。
科学研究とそれがもたらす問題は国境を越えたものであるので、国際レベルでの対応について考えることも重要であるとの意見が出された。それと関連して、韓国では憲法に学問の自由を規定しているが、生命倫理安全法は、胚・クローン研究や遺伝子関連研究をかなり広範に国が管理する内容になっている、憲法上の学問の自由を盾に、そうした立法に反対する動きはなかったのかとの質問が出された。それに対しては、少なくとも立法を阻むような動きはなかった、現在韓国で憲法について論議されるのは、大統領弾劾、新行政首都の移転などをめぐる政治的問題や、家族や性差別に関する問題が主で、生命倫理の議論に限ってみると、学問や研究の自由の議論より人間の尊厳についての議論に重きが置かれていた、との答えがあった。
だが、韓国で学問研究の自由についての議論がないわけではない。とくにファン・ウソック元教授によるES細胞論文捏造事件後、政府の生命倫理法改正案における人クローン胚研究への規制に対し、学問の自由に反するものであるというファン元教授支持者らの主張がある。この点については、次回、韓国での法改正の報告において取り上げたい。
最後に、憲法規範としての学問の自由を見直し再構築すべきであるという提起は、科学者の暴走を止めようという意図によるものなのか、という質問が出された。それに対しては、科学者が暴走しているとは考えていない、むしろ研究の自由は様々な形で脅かされているので、旧態依然たる「学問の自由」ではなく、現代の問題に対応した新しい「自由」の土俵を確定する作業が必要だと考えている、との意見が出された。
このテーマは、本プロジェクトの科学論の重要な要素として、今後も研究と討議を続けていきたい。
以 上
とりまとめ:プロジェクトリーダー ぬで島次郎