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「生命倫理の土台づくり」プロジェクト 第5回研究会報告:韓国生命倫理法改正

July 16, 2008

第5回研究会の概要

2008年7月4日、第5回研究会を行った。今回は、韓国の「生命倫理安全法」の制定とこの5月に行われた同法の改正について、洪プロジェクトメンバーから報告を聞き、議論を行った。
報告では、クローン研究への対応が生命倫理安全法の制定と改正双方の動機になっていること、しかし規制対象はクローンだけでなく胚・遺伝子関連研究に及ぶこと、法成立後の問題の解決を図るため改正が行われたが、研究界・一般社会の実情とは依然ギャップがあること、といったポイントが提起された。
議論では、広範な生命科学・医学研究を国が管理する法律ができた背景について関心が集中した。そうした管理を必要とするだけの切迫した社会問題はあるのか、日本では実現しそうもない包括的な「生命倫理法」がどうして韓国では成立したのかについて、討論が交わされ、主な要因が明らかにされた。この討議のなかで、他国の立法政策を自国のそれと比較する際には、法律の内容だけでなく、法に対する意識や政治文化一般の把握が必要であるとの指摘がなされたが、直接の研究課題から離れた比較文化論を持ち込むと分析の焦点を拡散させてしまうとの反論もなされた。

出席者:ぬで島、洪、小門、島田、吉原、南條、安井、大沼

発表と議論の内容

[発表]

韓国の「生命倫理および安全に関する法律」改正で何が変わったのか(洪)

1.「生命倫理法」の骨格と制定の経緯

韓国では2003年12月末に「生命倫理安全法」が国会で採択され、2005年1月から施行された。同法は、クローン人間の産生と卵子・精子の売買を禁止するとともに、体外受精胚の作成と研究利用、遺伝子検査、遺伝情報の利用、遺伝子治療について国と実施機関での管理体制を詳細に規定した、アジア初の包括的な生命倫理立法である。
同法制定の直接のきっかけは、1997年2月にクローン羊誕生が公表され、クローン技術の人への応用の是非が問題とされたことであった。しかしその後の政策形成過程では、研究界・産業界と所管の行政省庁だけでなく、諸市民団体も積極的に関与し、対象がクローン研究だけでなく胚や遺伝子を扱う研究全般に広げられ、科学技術振興と倫理のバランスをどうとるかについて、広範な社会的議論が闘わされた。最終的には各界の意見の相違は埋まらないまま、政治的な妥協が急がれ、立法が実現した。

2.法成立後の問題と改正の概要

法制定が急がれた背景には、黄禹錫(ファン・ウソック)元ソウル大教授によるクローン胚研究の進展を国として支援する体制を早く整えたいという動機があった。ところがその研究の成果をまとめた論文にデータのねつ造があったことが明らかにされると、研究の進め方の倫理的問題も追及される事態となり、国家的スキャンダルに発展してしまった。
この事件が、今年5月の生命倫理安全法改正を促した最大の要因である。問題は大きく分けて二つあった。一つは、生命倫理安全法が導入した研究管理体制の有効性が批判され、検証と手直しが必要になったことである。もう一つは、こちらのほうが社会的に大きな論議の的になったことだが、研究に用いる卵子の提供を巡る倫理問題である。黄元教授事件では、卵子の売買や提供の強制が問題にされた。
第一の研究管理体制の見直しとしては、まず2007年10月の大統領令(生命倫理安全法の施行令)の改正において、新しい研究申請体制が整えられた。そして今年5月の本法の改正において、研究を実施する機関の倫理審議委員会(IRB)を国が支援監督する条項が新設された。これにより、今後各IRBの活動状況を保健福祉家族部(日本の厚生労働省に相当)が調査・評価し、必要な措置(結果の公開、教育指導など)をとることとなった。
第二の卵子提供の倫理問題に対しては、やはり大統領令の改正で、研究に用いることのできる卵子を不妊治療で採取されたが使われなくなったものなどに限定することで、難病患者の家族や研究員への提供の強制や、不特定多数の女性からの買収の恐れを抑える措置が採られた。また本法の改正では、卵子提供できる健康基準の設定、卵子採取頻度の制限、提供者の健康診断の義務化、実費補償など、卵子提供者を保護する条項が新たに導入された。
以上のクローン胚研究を巡る問題に隠された感があるが、生命倫理安全法にはもう一つ大きなポイントとして、遺伝子検査の適正管理がある。韓国社会では、独特の高い教育熱や上昇志向を背景に、健康・容姿などの体質や知能に関わる遺伝子検査が盛んに行われていたが、医学的根拠のないものも多く、社会問題となっていた。そこで今回の改正では、肥満、高血圧、うつ病、暴力性、長寿、知能などの遺伝子検査が禁止されることになった。そのほかの遺伝子検査に対しては、実施機関の届出制とともに、国の委任により遺伝子検査評価院が設けられ、チェックする仕組みがつくられている。同様の問題は他の先進諸国でも大なり小なりみられることであり、韓国の法的対応は注目に値する。

3.総括と分析

生命倫理安全法の内容と社会の実状の間には、制定後四年半を経た現在でも依然かなり隔たりがある。一般社会での生命倫理に対する意識はそれほど高いとはいえない。また研究界においても、研究倫理管理の根幹となる実施機関の倫理委員会(IRB)の活動はまだ活発ではなく、発展途上にある。
諸関係団体の間の意見の相違は依然埋められておらず、議論は平行線のままである。今回の改正により、研究目的での卵子提供の容認が明確にされ、ES細胞研究管理の規制緩和と効率化が図られるなど、生命科学研究を育成し支援する体制は強化された。これに対し、カトリック界と女性団体からは、「卵子売買を合法化した悪法」であるとの批判が出ている。その一方で、人の卵子の代わりに牛などの動物の卵子に人の核を移植するクローン胚研究は今回の改正で禁止されることになり、難病団体からは研究の推進に逆行すると批判されている。
最初の立法時に比べると、議論は下火になっている。とくに黄元教授事件の騒動の後、国民はもううんざりという気分になっている。こうした状況の下で、韓国の生命倫理政策が今後どう推移するのか、引き続きフォローしていきたい。

[ディスカッション]

まず、生命倫理安全法は生命科学・医学研究を包括的に規制する法律だというが、はたして韓国でどれだけ実効性をもつのか、本当にこれだけの管理をしなければならないほど切迫した問題があるのか、という疑問が出された。
これに対しては、クローン胚研究と遺伝子検査に対する社会の過熱ぶりが、法的管理を必要とした要因であるとの応えがなされた。
まずクローン胚研究については、黄元教授の事件の後も、自分の卵子を使ってくれと望む女性が殺到する事態が起こった。この問題は韓国独特の国民性によるところも大きいが、難病患者の家族や研究室の女性スタッフに研究用の卵子提供を求める圧力がかかる恐れは、どの国でもあるのではないか。今回の生命倫理安全法改正は、そうした弊害を抑えるために行われた。日本でも同様の事態を防ぐための法規制は必要ではないかとの指摘がなされた。
遺伝子検査については、進路や適性を測る道具として、評価が定まっていない遺伝子検査が濫用される状況があった。そうした行き過ぎた実態を抑えるために、法による管理が必要とされたのである。実際に、立法により公的管理(遺伝子検査の質評価)の体制ができたため、怪しげな遺伝子検査ビジネスを行うベンチャー企業が相次いでつぶれているという。
日本でも一時同じような遺伝子検査ビジネスが盛んになったことがある。その際は学会の批判声明が出され沈静化したようだが、正確な実態は分からない。実施業者任せの自主規制しかないのが日本の現状であり、韓国の法的対応は参考になるとの指摘がなされた。
これに対し、遺伝子検査の問題は非常に興味深いが、どのような検査が誰によってどれだけの数行われてきたのか、実際のデータで裏付ける調査も必要であるとの指摘がなされた。

生命倫理安全法の実効性については、このような膨大な行政事務をこなす財政的裏付けはあるのか、という疑問も出された。
これに対しては、前政権と現政権では違いがあるとの応えがなされた。生命倫理安全法の策定から今回の改正までを担当した金大中(キム・テジュン)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)前政権は、「大きな政府」を志向し、公務員ポストを増やしたので、生命倫理安全法による行政事務の増大は問題とされなかったものと思われる。しかし李明博(イ・ミョンバク)現政権は「小さな政府」を志向し、行政機関や公務員の削減を進めようとしているので、生命倫理安全法の施行にも影響が出るかもしれない、との指摘がなされた。現に、同法が設けた国家生命倫理審議委員会は廃止が検討されたが、とりあえず存続されることになった。今後の推移をさらに見守る必要がある。

次いで、韓国と日本の生命倫理政策を比較する議論が行われた。
韓国で生命倫理に関する立法が行われるきっかけになったのは、1997年のクローン羊誕生という事件だった。これは日本でも同じである。しかし韓国では、クローン技術にとどまらず、胚や遺伝子を扱う研究の管理にまで対象が広げられ、立法が行われた。それに対し日本では、立法の対象となったのはクローン技術の人への応用だけに限られた。同じ問題に直面しながら、その後の政策対応にこうした違いができたのはなぜなのか、という疑問が提起された。

この提起の趣旨を敷衍すれば、次のようになる。生命科学技術の振興と倫理的価値観の間のバランスをどう保つかという問題は、現代社会が共通に直面する政策課題である。そのバランスを決める際のスタンスの取り方が、韓国と日本ではだいぶ違うようにみえる。韓国では、より広範な対象に法的管理を及ぼすことで、社会の懸念と研究界・産業界の意向の妥協を図ろうとしている。それが生命倫理安全法の立場である。それに対し日本では、法的管理の対象を極小にしようとする研究界・産業界の意向が常に優先されている。日本では生命倫理安全法のような立法は、到底実現しそうにない。韓国でそうした日本と異なるスタンスが生まれるのは、どのような要因によるのだろうか。

この問題提起に対し、活発な討議が行われた。
まず指摘されたのは、韓国における市民団体の活動の強さである。同国では、開発独裁政権が長く続いたことへの反動で、これに抗してきた市民活動の層が厚かった。生命倫理安全法の策定過程に参与した諸団体は、そうした活動の流れを汲むものと考えられる。科学技術部(日本の旧科学技術庁に相当)が生命倫理立法の策定のために組織した諮問委員会には、こうした市民団体系の人材も参入し、一般社会の生命科学研究開発への懸念を、政策形成過程に色濃く反映させる回路となったと考えられる。

さらに同諮問委員会には海外留学経験者が多く入っており、彼らの意見が審議の方向性に影響を与えたと考えられる、との指摘もあった。欧米で生命倫理として問題にされる広範な課題群を、これら留学組が韓国の政策形成過程に持ち込んだのではないか、ということである。

こうした要因を背景にして、同諮問委員会は、人だけでなくすべての生命の尊厳を保護すべき価値として掲げ、立法対象を、先端医療技術全般に広げるだけでなく、研究開発における動物実験の管理(実験動物の保護)にまで拡大した。その後行政部は、この諮問結果の広すぎるアジェンダを、研究界・産業界の意向を受けて狭めるよう努力し、最終的に立法が実現したが、それでも当初の問題だったクローン技術にとどまらず、多くの範囲の研究開発が対象に残されたのだと考えられる、との分析がなされた。先進国入りを目指す韓国の国家方針が、生命倫理の政策課題設定でも、世界標準を志向したことが背景要因になっているとの指摘もあった。

これに対し日本では、立法を検討するため旧科学技術庁が組織した諮問委員会(旧科学技術会議生命倫理委員会)は、人選からアジェンダ・セッティングまですべて官僚のコントロールが強く及び、韓国におけるような検討対象の拡大は実現しなかった。その結果、クローン技術だけを対象にした法律しかできなかったとの指摘がなされた。

以上の議論に対し、立法された内容だけを比較して日韓の違いを論じることに疑問が提起された。立法対象が広いか狭いかで、どちらの国の政策が進んでいる、遅れているというような問題のたて方は偏りがあるとの意見が出された。そこで、どのような分析視覚が必要かについて、さらに論議が交わされた。

まず、社会のルールとして法がどれだけの重みを持っているか、韓国と日本では差があるのではないかとの指摘がなされた。研究に用いる卵子の条件のような重要事項が法律ではなく大統領令に回されている点が問題にされ、立法が拙速で法律本体の吟味が足りていなかったのではないかとの疑問が出された。これに対しては、大統領令は日本の政令に相当し、法規範としての格は高い、法が施行細則を行政令に委ねるのは一般にどこでも行われることなので、それだけで韓国の生命倫理安全法が拙速だったとはいえないとの反論がなされた。この点については、韓国法の専門家の意見も聞いてみることとした。

また、議員提案と政府提案の比重の違いなどの立法過程の構造の比較も必要であること、そしてその背景にある市民の政治参加の強さを規定している要因として、宗教やマスメディアなどの文化面の違いも考慮すべきことが指摘された。
それに対しては、そうした政治文化と社会意識(国民性?)の比較分析が重要なことは確かだが、当面の具体的政策課題(先端生命科学・医学の何をどこまで認めるかという課題)からあまり離れた比較文化論は、議論を拡散させ問題の在処を見失わせる恐れがあるとの反論もなされた。
政策分析と文化論のバランスの問題は、今後本プロジェクトを進めるうえで、さらに検討していくこととしたい。

そこで次回は、第2回研究会での日本の伝統的心身論の分析の続きとして、島田顧問に、日本の身体論のレビューをしていただくこととした。

以 上

とりまとめ:プロジェクトリーダー ぬで島次郎

    • 元東京財団研究員
    • 橳島 次郎
    • 橳島 次郎

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