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《人の尊厳探求プラン》 第2回研究会報告

September 10, 2009

2009年9月1日、憲法学者の青柳幸一先生を講師にお迎えし、第2回の研究会を開催した。その概要を以下に報告する。

日時:2009年9月1日(火)午後3時~5時半
講師:青柳幸一先生(筑波大学法科大学院教授)
演題:憲法学から見た「人間の尊厳」
参加者:光石、橋爪、洪、小門、ぬで島、大沼

1 講演の概要(青柳先生)

1)政策提言報告書『生命科学研究の自由と倫理』へのコメント

まずご専門の憲法学の観点から、本研究プロジェクトで2009年4月に出した上記報告書に対しコメントをいただいた。その概要は以下のようである。

上記報告書第2章の1では、憲法における学問の自由の保障について述べられているが、その分析は二つの点で不十分である。

第一に、「学問の自由」の観念が近代的な意味で確立したのは、19世紀初めのドイツ(上級官僚養成機関としてのベルリン大学創設)であるが、そこで展開された「フンボルト理念」の内容・歴史的性格の把握が足りない。確かに、フンボルトは特権として学問の自由を主張した。しかし、それは、当時のドイツでは思想の自由や表現の自由が一般に認められていなかったからである。また、その学問の自由は、大学内に限られたもので、大学人は大学の外のこと、とくに政治については口を出さない、中立であることの「反面」として認められたものであること、そして、国家から認められた特権は、いつでも国家権力によって取り消されうるものであるにも、留意する必要がある。大学が学問研究の重要な部分を担っているとしても、それは特権につながるものではなく、卑見によれば、責務と結びつくものであると思われる。日本国憲法の制定の際の大日本帝国憲法改正案の審議において、学問の自由の享受者はすべての国民であるとの答弁が、当時の国務大臣および文部大臣なされており、そこでも大学の研究者だけの特権であるという考え方は採られていない。なお、フンボルトの大学における学問の自由の主張の内容には、学生の「学習の自由」が含まれていたことをも指摘しておきたい。

大学の自治に関しても、フンボルトは「大学の自治の擁護者である」と言われる。確かに、フンボルトは、「政府は大学にあまり干渉すべきではない。大学に任せておいたほうが、はるかにうまく事は運ぶ」と述べており、政府の干渉の排除という点では「大学の自治」の守護者と言える。しかし、他方で、大学の自治の重要な要素である人事権に関して、フンボルトは、教授の選考権は「大学に渡すべきではない」と主張している。なぜなら、「大学には内部対立と軋轢がつきものだから」であるとする。

第二に、上記報告書第3章の提言では、政策上も憲法上の自由の保障のうえでも、科学研究と技術開発は切り離すべきだとしているが、その場合、憲法上どこに技術の自由が位置づけるのか、が問題となる。

帝国憲法改正案の議会での審議において、学問だけでなく芸術や技術も憲法上明文で保障したらどうかという質問がなされている。それに対して時の国務大臣は、芸術の自由は表現の自由に含まれると思われるとしつつ、技術の自由については確たる条文は示さず、どこかに含みうる、と答弁している。
生命倫理で問題になる技術開発は、憲法で保障されているのであろうか。生命を操作する技術の研究の自由は、憲法の条文には規定されていない。それは、「新しい人権」として認められるか。最高裁が憲法上明記されていない権利を憲法上の権利として認めたのは、プライバシー権と知る権利の二つである。

科学と技術の関係は複雑なものがあり、そもそも同じものとはされていなかった。フンボルトの時代に研究と技術とが厳格に区分された理由は、技術の習得に関する伝統的な理解、そして大学と専門学校の区別であった。しかし、ドイツでも、19世紀後半には、大学内に実験室が整備されている(1825年のギーセン大学における化学実験室の設置を嚆矢として、1867年にはベルリン大学でも化学実験室を設置)。

技術の自由が日本国憲法第23条の学問の自由の保障の対象に入らないとすれば、第13条の幸福追求権の一部として認めるということも考えうる。この条文は、明文規定がない人権についても憲法上の保障を認める根拠とする包括的規定としての役割を果たしている。しかし、「新しい人権」の条文上の根拠としての13条は、15条以下の条文で個別に保障されている規定に対して補充的に援用される規定である。したがって、技術の自由は、全く無関係とはいえない23条の学問の自由に含まれ得るか否かが検討されなければならない。この問題は、「学問」とは何かを再度問い、そして研究と技術の関係の変遷等を踏まえて検討することが必要である。

学問という概念は、真理そのものと同一ではない。そのことは、学問の成果のなかには誤謬もあることからも明らかである。学問と真理の関係は、学問の定義において「真理の探究のために」という表現となってあらわれる。そこで、ポイントは、真理を探究はどのように行われるのか、である。それは、すでに得られた認識・知識を常に何度も批判的に問題にすることにかかっていることを意味する(ドイツ連邦憲法裁判所「大学判決」[1973年]参照)。

先端的科学研究も、技術革新も、すでに得られた認識・知識を常に何度も批判的に問題にすることから得られるものであろう。技術革新も、その意味では、研究と実験の積み重ねによってもたらされる。そうであるとすると、技術の自由も23条の「学問の自由」に含まれる、とすることが誤りであるとはいえないであろう。ただし、思索的な学問研究の自由と生命倫理で問題となる技術開発の自由とは、憲法上の保障の内容・程度において相違がある。検討すべきことは、この点である。

2)「人間の尊厳」とは何か

次に本論として、憲法学から見た人間の尊厳についてご講演いただいた。その概要は以下のようである。

1. 「個人の尊重」との同質性と異質性

憲法における人間の尊厳の概念は、「2500年間のヨーロッパ哲学史を背負っている」といわれるが、その重要な淵源のひとつがカントの「人間性の尊厳」の提唱にある。人間の尊厳は、アメリカでは自由や権利と結びつけて理解するのが主だが、ドイツやフランスでは人の義務と結びつけて理解されることが主である。

日本国憲法には「人間の尊厳」という規定はなく、第13条に「個人の尊重」が規定されているのみである。これまで憲法学では、この規定はドイツ基本法の「人間の尊厳」の保障と同質とみるのが多数説だった。国家に対する個人の優越という点では確かに両者に同質性が認められるが、そこには異質性もある。

第一に、ドイツ基本法における人間の尊厳の保障は、国権を拘束する規定となっているが、日本国憲法の個人の尊重はそのような規定になっていない。

第二に、背景にある人間観に違いがあると考える。ドイツにおいて尊厳が認められる人間とは、理性と道徳を備えた普遍的人格であり、いわば強い個人像である。それに対して日本で尊重される個人とは、ありのままの個別的な存在であり、失敗もするし過ちも犯すこともある、いわば弱い個人像である。理性だけで人を測る立場に立たない卑見は、類である人としての共通性と他の人とは異なる個別性のどちらに尊厳があるかといえば、「かけがえのない個人」という個別性に尊厳を見いだす。

2. 何が人間の尊厳に反すると考えるか

それでは具体的に何をしたら人間の尊厳に反するのだろうか。
人間の尊厳は、それに反する行為は絶対に認められない、all or nothingの結論を導き出す概念である。

ドイツでは、基本法制定時、人間の尊厳に反する行為とは、ナチス国家による蛮行が具体的に念頭にあった。だがその後の歴史の推移のなかで、新しく出てきた問題にこの概念をどう適用すべきかについては、判断に一貫性があるとはいえない。

生命倫理上の問題では、人工妊娠中絶を巡る議論が挙げられる。中絶を女性の自己決定権として認める米国の枠組みと異なり、ドイツでは、胎児はいつから人間の尊厳をもつかという枠組みで考えられてきた。連邦憲法裁判所は、人間の尊厳の始期を受精後14日としたが、学説では子宮への着床時とする見解もあり、対立している。受精後14日以前の胚には人間の尊厳が認められないのだとすれば、体外受精の実施を厳しく制限し、胚の研究利用を禁じる胚保護法の内容は、基本法の「人間の尊厳」が求める以上のものを規制していることになる。

All or nothingの解決法は、生命倫理や医療の問題にはなじまない。したがって同じ憲法第13条でも、人間の尊厳だけから考えるのではなく、生命に対する権利という枠組みで考えてみたい。人間の尊厳の枠組みで考えると絶対によいか悪いかという答えしか出ないが、生命に対する人権という枠組みで考えれば、バランスを配慮した幅のある答えが出せる。

第13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を幸福追求権として総称してきた従来の多数説では、生命に関する問題は、具体的には、子を産むか産まないか、生命を与えるか奪うかという問題であった。生命を操作する問題に直面している今日、そのような限定的な問題設定では不十分である。15条以下の条文のなかに生命権規定は存在しない。背意味に関する問題を真正面から論じるためにも、13条に独自の権利としての「生命」権を位置づけ、生命を扱う行為の自由の保障や制約の条件を議論することが必要であるように思われる。

3. 法と倫理の分離について

最後に、近代法においては法と倫理を分離しなければならないとされてきたことについて、再考してみたい。

法と倫理の分離は、第一に、国家の思想的中立を保障するために要請された。また第二に、社会規範には様々なものがあり、法も倫理もその一つであるなかで、法の固有の性質、役割、領域を確定する必要から、倫理との分離が議論されてきた。
だがこの分離からは、次のような問題も出てきた。
・法が人間の内面と分離され、もっぱら外的行為だけを対象とするとされたことで、法 の内面からの自発的遵守という性格が軽視された。法の前提にある、人間の自律性が軽視された。
・法の実質的正当性が軽視された。
・外的規制としての法を万能だと考えすぎた。

これらの問題を現代の変化に即して考えてみると、まず法の側では、人間の尊厳が基本的人権の根拠とされ、人権を保護するための立法が増えてきたことで、法に倫理との深い関わりが生じてきた。また法の規制対象の側でも、個々の行為を対象とするかどうかの判断に倫理を根拠とする例が増えてきた。生命科学・医学の研究と臨床応用はその最たる例である。

このように現代では、法は倫理に実質的根拠をもたざるをえなくなっている領域も生じている。人間の尊厳を巡る議論はその典型である。法の過度の倫理化は問題であるが、倫理を法規範としてどこまで受容するのかが、新たに問われている。それゆえ、人間の尊厳に反するとして絶対的に禁止される行為が何であるか、その結論は、理論的考察によってのみ得られるものではなく、「公論」による熟議を通じてコンセンサスを形成する必要があると思われる。

2 質疑とディスカッション

以上の講演を受けて、参加者と講師の間で以下の質疑と討論が交わされた。

1)人間の尊厳と生命の尊厳

まず、法は人間の尊厳をいうのに対し、倫理は生命の尊厳というとらえ方をしてきたのではないか、との提起があった。それは、講演にもあったように、「人間」を、理性を持った道徳的存在と理解してしまうと、尊厳のある存在の範囲が狭まってしまうからである。そのように「人」の範囲を狭め、そこから外れる人たちを排除しようとしたのがまさにナチスの行為で、それを否定しようとしたドイツ基本法の人間の尊厳規定は、対象範囲を広くとる生命の尊厳に近い考え方ではなかったのかという質問が出された。それに対し講師からは、ドイツでも時代に応じ概念が変化してきたのは確かである、ただ現在でも理性を強調する考え方は根強く、それが「人」の存在はいつから始まるかという議論にも現れている、との応えがなされた。

2)人の尊厳に反する行為は何か

次に、先端生命科学・医学のなかで、何が人間の尊厳に反する行為だと考えるか、との質問が出された。それに対して講師からは、代理懐胎とクローニングが挙げられた。後者には、生殖目的のクローン人間づくりだけでなく、ES細胞などを作成する目的でのいわゆる治療的クローニングも含める。いずれも、人を道具化する、目的でなく手段として利用するという点で、人間の尊厳に反すると考える。代理母契約を禁止する立法を行っても憲法違反にはならないだろう、とのことであった。

それに対して、ある行為が人間の尊厳に反すると論証するのは非常に難しい、との問題提起が出された。反しないという論証のほうが容易ではないか。たとえば本研究プロジェクトで検討してきた代理母契約の規制について、産んだ子を譲り渡すかどうかを代理母の自由意志に委ねるような幅のある契約なら、人間の尊厳に反するとはいえないのではないか、との議論がなされた。

総じて、人間の尊厳という概念は、これと決まった内容がないので、実際の法規制に適用する際には使えないのではないか、それを根拠に個別の事例を法の自由と権利の保護対象から排除する力は弱いのではないか、との意見が出された。少なくとも憲法に人間の尊厳を規定してもしなくても、個別法でそれを規定すれば同じではないか、という議論がなされた。

3)生命に対する権利という問題のたて方について

最後に、憲法の基本的人権の保障から生命倫理を考えるには、人間の尊厳だけでなく、生命に対する権利という枠組みで問題を検討すべきだとの講師の提起に対し、議論がなされた。

生命権を規定した憲法第13条を根拠とすると、「公共の福祉に反しない限り」という限定がつくので、生命権を保護しようとする立法提案が、公共の福祉を盾に認められにくくなるのではないかとの懸念が出された。それに対して講師からは、生命に対する権利については、第13条だけでなく、第25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を新たな根拠とする考え方がある、との応えがなされた。第25条の規定は、社会福祉・社会保障政策に関するものとされてきたが、最近はこれを生命に対する権利の問題の検討にも援用する論が出てきているとのことだった。

生命倫理政策においては、禁止か是認かの二者択一ではなく、条件付きの容認・規制を考えなければならないケースが多くなることが予想される。オール・オア・ナッシングの概念である人間の尊厳に対して、幅のある結論を導ける理念的根拠として生命に対する権利を考えるという提起は、本研究プロジェクトにとってたいへん参考になった。青柳先生に感謝するとともに、今後も議論にご参加いただけるようお願いして、終了した。

以 上


取りまとめ:研究リーダー ぬで島次郎

    • 元東京財団研究員
    • 橳島 次郎
    • 橳島 次郎

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