米国では、景気減速に対する政策対応が加速している。1月22日のFRB(連邦準備理事会)による緊急利下げに続き、連邦政府は景気刺激策の実現を急いでいる。伝統的に米国では、連邦政府による裁量的な財政政策は、景気対策としてはFRBの金融政策に劣るといわれる。しかし、こうした評価をものともせず、政権・議会は刺激策の実現にまい進しているのが現実である。
1月24日にブッシュ政権と下院指導部は、景気刺激策の骨格についての合意が形成されたと発表した。当初ブッシュ政権は1月28日の一般教書演説で景気対策を打ち出すといわれていた。しかし、景気刺激策の議論は日に日にスピードを増している。上院民主党のリード院内総務は、2月15日までに関連法案の議会審議を終えるとしている。2001~2003年のブッシュ減税を例に取れば、議会での議論が始まってから実際に法律が成立するまでには、約半年の時間がかかっている。実際に2月15日までに刺激策の立法化が完了すれば、米国の立法作業としては異例の速さである。
景気刺激策の議論が加速している理由は二つある。第一は、いうまでもなく景気後退(リセッション)入り懸念の高まりである。住宅バブルの崩壊に端を発するいわゆる「サブプライム問題」もあり、米国ではかねてから景気の先行きが懸念されてきた。その度合いは、1月4日に発表された雇用統計(昨年12月)によって一気に高まった。米国経済を支えてきたのは旺盛な消費である。しかし、1万8千人の雇用増という極めて弱い数字は、その消費の持続性に深刻な疑問符を投げかけた。
米国では、サブプライム問題の影響が、実体経済に波及しつつあるという懸念が根強い。金融市場に着目すると、サブプライム問題の影響は、三つの段階に大別できる。第一段階は、サブプライムローンの劣化によるローンの出し手への影響。第二は、サブプライムローン関連の証券化商品などを持つ金融機関への影響。そして第三段階が、バランスシートの悪化による金融機関の貸し渋りが、実体経済に与える影響である。連日報道されているように、米国の大手金融機関は相次いで巨額の損失を計上している。また、足元では、金融機関の貸出姿勢が厳格になっている兆しも見受けられる。同時に、住宅の資産価値が下がることは消費にとって逆風である。これまで米国の消費者は、資産価値の上昇を元手に消費を拡大してきた。こうしたメカニズムが逆回転するからだ。
第二の理由は、ブッシュ政権・共和党と民主党の政治的な思惑の一致である。ブッシュ政権は、政権最後の総仕上げの年。議会は秋に改選を控える。どちらも景気後退の責めは負いたくない。現在の米国は、政権(共和党)と議会(民主党)を異なった政党が支配する「分割政府」の状態にある。平時であれば、「分割政府」はそれぞれの政党に相手を妨害する手段があるため、政策の実行速度が鈍りやすい形態である。しかし今は平時ではない。お互いが責めを負わされる可能性があるという事実が、むしろ両者に歩み寄りを促している。
実際のところ、ここにきての共和党・民主党の歩みより振りには眼を見張るものがある。経済政策は共和党と民主党の主義主張が大きく異なる分野であり、それぞれの政党には、この機に乗じて自らの持論を実現に移そうという思惑が働いてもおかしくない。しかし今回調整役を担当した下院の両党指導部は、スピーディーな議論を優先し、論争的な提案を早々に取り下げ、先方の要請をある程度受け入れた。共和党は、かねてからの主張であるブッシュ減税の恒久化を刺激策の議論から切り離した。その上で、所得が所得税の課税水準に達していない国民にも「戻し減税」を行うべきだという民主党の要求を受け入れた。民主党側は、少なくとも下院指導部のレベルでは、食料補助や失業保険給付の拡充をあきらめ、共和党が支持する企業向けの投資減税を容認した。
スピーディーな議論を優先する関係者の姿勢は、連邦政府による景気刺激策の大きな弱点をある程度補う可能性がある。米国では、景気対策という点では、連邦政府による裁量的な財政政策はFRBの金融政策に劣るというのが一般的な見方である。その大きな理由は、タイミングの良い政策発動の難しさにある。景気動向を正面からフォローしているFRBと比べれば、政権・議会の経済を評価する能力は見劣りするといわざるを得ない。また、財政を通じた景気刺激策の実施には、立法化という時間のかかる作業が伴う。このため、景気が回復過程に入った段階で、無用な刺激策を実施してしまうケースも少なくない。エコノミストのブルース・バートレットによれば、過去8回のリセッション(景気後退)に関連して、連邦政府は14回の景気刺激策を実施したが、リセッション期間中に立法作業を終えられたのは2001年のブッシュ減税だけで、残りはリセッションが終了した月以降の成立だった。2002年にハーバード大学のフェルドシュタイン教授は、「議会が刺激策を要請するのは、景気が上向き始めた兆候を表す良い指標かもしれない」と述べている。
今回の場合にも、景気刺激策が最適なタイミングに発動されるとは限らない。二つの視点がある。第一に、米国のリセッション入りが確実になったわけではない。このため、識者の中には、刺激策の法案化に当たって、経済指標にリセッション入りの証が明確に現れることを発動条件とするよう提案する向きもある。第二に、たとえ2月15日までに景気刺激策の立法化が終わったとしても、実際に国民にその恩恵が行き渡るまでには、ある程度の時間がかかる。主力とされる所得税の戻し減税の場合、実際に国民が減税を受け取り始めるのは、5月末から6月になるとの見方が少なくない。ちょうど米国は確定申告の時期を迎えつつあり、並行して戻し減税を進めるだけの余力が税務所にないからだ。さらに全ての対象者に減税が行き渡るには、それから2~3ヶ月が必要だといわれる。
景気刺激策の発動に慎重な見方がある一因は、米国の財政事情にある。それでなくても米国財政には、景気減速による赤字拡大圧力がかかっている。米議会予算局(CBO)は、1月23日に発表した最新の見通しで、2008年度の財政赤字額を、昨年8月の見通しよりも約600億ドル多い約2,200億ドルとした。景気の減速による税収の伸び悩みが主因である。こうした財政事情の悪化は、財政が景気の減速に自動的に対応する、いわゆる「ビルトイン・スタビライザー」効果の現れである。CBOによれば、1968年以降のリセッション期には、ビルトイン・スタビライザー効果によって、平均すると1,400~3,500億ドルのGDP引き上げ効果があったという。現在いわれているように、これに1,500億ドル程度の景気刺激策が加われば、米国の財政赤字は3,000億ドルを超える。加えて、長期的な視点に立つと、ベビー・ブーマー世代の高齢化と医療費の高騰によって、米国財政は維持不可能なほどの赤字を計上するとも予測されている。
それでも、現在の米国では、早急な景気刺激策の発動に踏み切るべきだという意見が優勢である。1月22日の議会公聴会で、CBOのオースザク局長は、リセッション入りが確実とはいえないにせよ、刺激策にはそのリスクを低減させる役割があると述べている。また、実際の効果が期待できるのが夏頃になる点についても、金融政策との対比でむしろ前向きにとらえる向きもある。心理面に与える影響を別にすると、FRBの利下げ効果が実体経済に行き渡るまでには1年程度のラグがある。対照的に、財政を通じた刺激策は、対象者が資金を受け取った時点からの効果が期待できる。ブルッキングス研究所のジェイソン・ファーマンは、今年の第2・3四半期にはFRBの利下げ効果はそれほど出てこない筈であり、むしろ財政政策の出番であると指摘する。
このように、景気刺激策を巡る議論は、民主党と共和党の歩み寄りの中で、急速に進みつつある。ブッシュ政権下の米国では、共和党と民主党の党派対立が先鋭化した。「融和」を掲げるオバマ候補や、中道・無党派層の支持が強いマケイン候補の躍進にみられるように、今回の大統領選挙でも、いかに党派間の対立を和らげるかというテーマが、一つの底流になってきた。皮肉なことに、経済状況の悪化は、新しいリーダーの出現を待たずに、米国政治の大きな課題を瞬時に成し遂げてしまったようにみえる。この「融和」の状態をどこまで維持できるかが、景気刺激策の行方を左右する一つの要素である。
■安井明彦:東京財団現代アメリカ研究プロジェクトメンバー、 みずほ総合研究所ニューヨーク事務所長