民主党予備選終了 ― 党内分裂からの解放か
民主党予備選の長い戦いにようやく終止符が打たれた。最後の1週間は急転直下のような期間だった。少なくともクリントン陣営は5月31日の党規委員会までは攻撃を緩めない姿勢であったため、本拠地ニューヨークをはじめヒラリーが獲得した大票田の州にワシントンでのデモ参加が呼びかけられていた。しかし、周知の通り、予備選の前倒しで代議員ゼロの制裁を受けたミシガン、フロリダをめぐって、党大会参加代議員数の半数のみが有効との結論が出た。全員復活は認められなかったため、ヒラリーに87人、オバマに63人の代議員が追加で配分されるにとどまった。これを節目に内部的な運動も沈静化した。6月1日プエルトリコ、3日サウスダコタとクリントン陣営は最後の粘りを見せるも、3日の最終戦のあとに、ヒラリーのコアなサポーターやブロガーが、現地時間の4日から各州の支持者に、ヒラリーを副大統領に応援する運動を開始した。また、ヒラリー寄りの立場を表に出さず中立的な立場を終始一貫示していた民主党系のブロガーやコミュニティリーダーが、この日を境にオバマの底力と魅力を讃える発言を開始した。ヒラリーの正式な撤退宣言を前にして、内部的にはこの3日から4日前後が運動のベクトルの転換点だった。一般支持層のあいだには複雑な心境がいまだに渦巻いているものの、民主党は党としては挙党態勢を目指し、周知の通り焦点は副大統領選びに移った。
この長い戦いには、ボーダーラインに存在する党関係者の苦悩もあった。ヒラリー・クリントンとバラク・オバマの断絶は激しかった。これらの陣営の双方に何らかの関係を持つ多くの民主党関係者は引き裂かれるような思いの日々でもあった。ペローシ下院議長など議会指導部や党幹部の関係者も、意中の候補はいても諸般の事情で、表立っては最終局面まで立場を明確にできなかった。周辺のスタッフも辛かった。議会関係者、選挙関係者問わず、双方の候補者、あるいは周辺にかつて籍を置いていた者も少なくない。ワシントン周辺で、イリノイやニューヨークで、顔を合わすたびに、気まずい心境を言外に確認し合った。コミュニティリーダーや支持層、ブロガーのなかにも、あえて支持表明については沈黙を守る人たちも少なくなかった。陣営の戦闘態勢はお互い激しかったが、その激しさゆえ党関係者や支持層のなかには、なかなか支持を明確にできない関係者を多数生んだ。それだけ双方の支持基盤や党内人脈が多岐に入り組んでいたことを示している。
こうした党内分析は別稿に譲り、今回はオバマの本拠地であるイリノイ州シカゴに焦点を絞ってバラク・オバマの人物像を再確認してみたい。筆者は現在ニューヨークを離れ、かつて学生として籍をおいていたシカゴ大学に研究滞在しているため、この機会に「オバマ本拠地としてのシカゴ」「シカゴ人としてのオバマ」を報告したい。
「私的存在」としてのオバマ ―「アジア太平洋」と「大都市」
オバマの過去をめぐる分析には、私的存在としての次元と、公の存在としての次元がある。前者の私的存在としては、周知のように「ハワイ」(出生と10代の大半)「インドネシア」(10才までの幼少時)から出発し、「ロサンゼルス」(オキシデンタル大学時代)「ニューヨーク」(コロンビア大学と就職)と続き、あいだに「シカゴ」(NPO活動)をはさみ、「マサチューセッツ州ケンブリッジ」(ハーヴァード大学ロースクール[法科大学院])、そして「シカゴ」へと戻るコースだ。私的領域を彩るのは「アジア太平洋地域」と「大都市」の二文字だ。オバマは高校を卒業するまでアジア太平洋諸島地域以外に住んだことがない。アメリカ人の大多数の少年とはかなり違う環境で育ったことがこの事実だけでもよくわかる。ハワイ州はアジア系が約40%強。中でも日系が突出していて15%を超える。割合は少ないが、先住ハワイアンの存在も異彩を放っている。特記したいのは、黒人が2%未満だということである。白人の母親に引き取られ、しかも黒人比率の少ない州と海外で少年時代を送ったことで、オバマの「脱人種」的なアイデンティティは醸成されたと考えられる。
その後も、ロサンゼルス、ニューヨーク、シカゴ、ボストン近郊とリベラルで、エスニックな多様性を許容する大都市圏を転々としている。この居住遍歴は、異質の存在を偏見なしに受け入れるオバマの包容力の涵養と、オバマの知的才能を引き出す良質の環境をもたらす利点もあったが、南部、中西部の「ハートランド」の農村暮らしの実態を体験的実感としては知らない「都市エリート」という批判の原因にもなった。したがって、「私的領域」としてのオバマの変遷を表現すれば「アジア太平洋」と「リベラル系大都市」という二文字に収斂されてくることになる。このことは、「ハートランド」の無党派層やヒラリーに投票した民主党内のブルーカラー層を獲得していかねばならない、今後の本選でも主要な問題になってくる。
「公の存在」としてのオバマ変遷 ― 3つの次元
さて、本稿で注目したいのは。「公の存在」としてのオバマの変遷である。それはおよそ「3つの次元」に区別することができる。
(1)「シカゴのオバマ」
第一の次元は「シカゴのオバマ」である。ニューヨークから自ら望んで新天地シカゴに身を移したオバマは、NPO活動を皮切りに「公のオバマ」をスタートさせる。それまでのオバマは、『ハーヴァード・ローレビュー』の編集で活躍しようとも、素晴らしい学業成績を残していようとも、エスニシティを横断する幅広い友好関係を築こうとも、それは限られた「私的領域」の周辺での活動であり、政治家オバマ、大統領候補オバマにつながる「公のオバマ」の出発点そのものとは考えにくい。1995年に出版した初の自伝のDreams from My Fatherもシカゴに移り住んでからのインスピレーションによりシカゴで書き上げたものである。この時期、オバマの心理に黒人としてのアイデンティティを覚醒させる何かがシカゴで起きたと考えてよい。またそのような覚醒があったからこそ、シカゴ南部の黒人街に居を移したとも考えられる。その2年前1993年からオバマはシカゴ大学ロースクールで教鞭を執り始める。筆者がシカゴ大学に在籍した1990年代末を含め、上院議員になる2004年までシカゴで一貫してクラスを持っていた。筆者周辺、教授陣や大学職員、当時の院生達にとって、オバマは未だに大統領候補や議員というより、オバマ講師という印象である。この間、1997年から2004年までイリノイ州議会議員も務めた。シカゴ大学講師との「二足のわらじ時代」である。この段階までのオバマの認知度は、「イリノイ州シカゴ」それもサウスサイドに限定されたものだった。
(2)「民主党のオバマ」
「公のオバマ」の第二の次元は「民主党のオバマ」である。2004年の連邦上院選に出馬して当選を果たし、晴れて「シカゴのオバマ」は「民主党のオバマ」となった。しかし、世間の認識のレベルの変遷をたどる上でより厳密に分類すれば、2004年夏のボストンでの民主党大会での演説以降がターニングポイントであることは周知の通りだ。この時点で「民主党のオバマ」に脱皮した。いずれにせよ、ここの局面をもって初めてオバマは「全国区」の認識を獲得する。
(3)「アメリカのオバマ」
そして「公のオバマ」の第三の次元は、大統領候補としての「アメリカのオバマ」である。2007年2月、大統領候補に名乗りを上げたことで、世界的な知名度を獲得して現在に至る。広くオバマを世界に知らしめた近著The Audacity of Hope: Thoughts on Reclaiming the American Dreamのアメリカでの刊行が2006年の10月であるから、本の刊行からわずか数ヶ月で出馬したことになる。つまり、本のおかげで急に人気が出たので大統領候補になれたという一部理解もあるものの、すでに大統領選に傾いていたオバマとオバマ周辺が、キャンペーンの前哨戦として出した「国民への前挨拶」のメッセージと理解したほうがより現実に近い。したがって、「アメリカのオバマ」の開始時期を2007年2月ではなく2006年10月とする解釈も成立しうる(しかし後述するように、本格的にこの本が広く読まれるようになったのは随分あとになってのことである)。この局面をもって、党大会の演説を熱心に記憶に刻むような政治に関心の高いアメリカ選挙民や政治関係者にとどまらず、また海外での世界規模の知名度を獲得するにいたった。
「16年」「3年」「1年4ヶ月」― 彗星的登場への助走期間
最初に地域の活動にシカゴで身を投じたのが1985年。規模は小さいながらも厳密には「公のオバマ」が始まったのはこの時点と考えていい。この間、ハーヴァード大学ロースクールの3年間はボストン近郊で過ごしたが、その後またシカゴに戻っている。州議会議員になったのが1997年。「公のオバマ」の大半は、「シカゴ時代」に彩られていることがわかる。第二段階の「民主党のオバマ」になるまでに、じつに長い年月をかけている。そして逆にいえば「民主党のオバマ」となり、全国区になってからはまだわずか4年しか経過していない。「シカゴのオバマ」→「民主党のオバマ」→「アメリカのオバマ」のそれぞれの年数を単純に割り振れば、「シカゴのオバマ」が19年間。ハーヴァード大学の3年をマイナスしても16年間。「民主党のオバマ」は3年間。「アメリカのオバマ」は1年4ヶ月程度。いかにオバマが全国区に「彗星」のごとく登場したかがよくわかる。逆にいえば、ビル・クリントンが予備選中にオバマを揶揄した「おとぎ話」の由来はここにある。あまりに「彗星」のごとく、「シカゴのオバマ」から「アメリカのオバマ」に駆け上がったのである。そのカリスマ的な勢いは、アメリカのみならず日本でもいまや周知の通りだが、「シカゴのオバマ」を知る者には、この変化は特別に驚異的に映る。実際、「オバマ講師が突然大統領候補になってしまった」という感覚なのである。当初、オバマの大統領候補としての指名獲得への実力を見誤った民主党関係者に、反オバマ勢力というより、むしろ昔からオバマを知るシカゴのコアな地元関係者が多く含まれていたのは、この「感覚」と無縁ではない。要すれば、第一に「シカゴのオバマ」がきわめて長期間に及び、オバマの印象としてあまりに固定的に定着してしまっていたこと、第二に「シカゴのオバマ」から「アメリカのオバマ」のあいだに存在する圧倒的な時間的短さにある。長年オバマを知る地元商店の黒人店員は「近所のオバマさんが変身した。手の届かない人になってしまった」という感想を漏らす。それだけ気さくな「普通の人」でもあった。「よそ者」オバマが、シカゴ黒人コミュニティに自らとけ込むには並々ならぬ夫妻の努力があったが、これは別稿に譲る。
「シカゴのオバマ」の含意
このことから導き出せるのは、「公のオバマ」を分析する上で大切なのは、単純に見積もって約16年の基礎を持つ「シカゴのオバマ」を正しく理解する必要性である。もちろんこのことは、「民主党のオバマ」としての上院での議会活動と党中枢内でのネットワーク、「アメリカのオバマ」としてのこれまでの1年4ヶ月に及ぶ選挙戦と陣営を分析することの重要性を揺るがすものではない。むしろ、もっとも重要なそれらを、より深く理解するために「シカゴのオバマ」の正しい理解が欠かせないという認識の再確認である。なぜなら、この「民主党のオバマ」「アメリカのオバマ」をクリエイトした大きな部分を占めているのが「シカゴのオバマ」でもあり、オバマを支える「シカゴ政治」と「シカゴ政治の面々」だからだ。デイリー市長、ダービン上院議員、その他下院議員のキーパーソン数名。彼らは、シカゴのオバマをどのように支え「民主党のオバマ」「アメリカのオバマ」に育てあげたのだろうか。予備選段階まででは、エキゾチックさ溢れる「異国での幼少期」や、父親のミドルネーム問題に注目が集まることはあっても、「シカゴのオバマ」の深層をめぐっては「コミュニティ活動をしていた」という理解にとどまる傾向もあった。そこで本稿と次号以降では、そうした米メディア報道を補填する面においても「シカゴのオバマ」に現場から接近してみたい。
シカゴ南部―バラクとミシェルが愛した町
イリノイ州にミッドウェイ空港という空港がある。シカゴのダウンタウンから13キロほど南下したサウスサイドの空港で、オヘア国際空港に次ぐシカゴの玄関口となっている。乗り入れは比較的低価格で運営している小規模の航空会社の便が多く、エアートラム、サウスウエストのほかデルタなどが短い間隔で離発着する。いわば地元民のための地元の空港である。シカゴ南部に居を構える者は、このミッドウェイが通用門となることが多い。なぜ空港の紹介をしたかといえば、このミッドウェイ空港からオバマが居を構えるシカゴ大学付近へ向かうには、シカゴ特有の「洗礼」が待ち構えているからである。ゲットーである。空港の番地はサウスサイドの55丁目。シアーズタワー、ジョンハンコックセンターをはじめとした高層ビル群のあるビジネスセンター、また日本総領事館などが所在するダウンタウンから、ミシガン湖沿いにレイクショアドライブという高速道路かメトラという鉄道でまっすぐ南下すると、いずれも30分程で「オバマ講師」が教鞭を執っていたシカゴ大学がある南部のハイドパークにぶつかる。ハイドパークといっても公園の名前ではなく、コミュニティの地域名である。このハイドパークの中心部がちょうどサウスサイド55丁目。そこからまっすぐ西に55丁目に沿って車を走らせれば40分ほどでミッドウェイ空港だ。しかがってこの地域の住民や大学関係者は、国際便で海外にでも飛ばないかぎりミッドウェイ空港を使うことが多い。
しかし、このミッドウェイとハイドパークの間がシカゴでも有数のスラムであることは州外の関係者にはあまり知られていない。ミッドウェイからタクシーに乗るとまずヒスパニック系のコミュニティを通過する。タウンハウス式の住居や手入れされた芝生の家屋などもあり、空港寄りのコミュニティは比較的安定した経済力をもっているが、東に進むにつれて廃屋や空き地が目立つようになる。ここから先はヒスパニック系ギャングの巣窟である。そして20分ほどで突然、明確に住人や通行人が変わる。ここから残り20分の走行距離は黒人ゲットーである。貧困度はヒスパニック系地域よりも深刻である。高速道路の高架を渡ると、廃屋が減り建物が真新しくなってくる。大学から危険地帯に指定されているワシントンパーク公園の内部を突き抜けると、シカゴ大学のあるハイドパークに辿り着く。この黒人ゲットーとハイドパークの隣接地にオバマ夫妻は身を落ち着けた。筆者のかつての自宅からも徒歩数分の比較的閑静なエリアであるが、大学関係者以外には黒人の居住率が圧倒的である。
「シカゴのオバマ」の歴史は、まさにシカゴ黒人ゲットーと向き合う歴史でもあった。サウスサイドはミシェル夫人の故郷でもある。ミシェルはシカゴ大学学生課の職員を1996年からつとめていた。履修の問題、治安の悩み、成績証明書の発行の事務手続きまで、この頃ちょうど籍をおいた筆者をはじめとした学部生と院生を世話してくれる立場にあった。プリンストン大学でBA、夫と同じハーヴァード大学ロースクールでJDを取得している高学歴のミシェルは、学生課ではアソーシエート・ディーンであり、常にカウンターの窓口対応に出ているわけではなかったが、私たちの不満や要望を適宜検討するなど、大学運営改善の前線で活躍する立場にいた。2002年からはコミュニティ担当の非医療系職員としてシカゴ大学病院に移籍した。現在も同職を休職扱いのままだ。まさにキャリア的には「シカゴ大学夫妻」といってよい。そのため、オバマのシカゴ南部居住については、1:シカゴ黒人社会の象徴である南部ゲットーの隣接地とそこでのコミュニティ活動の「政治家オバマの涵養面」、2:夫人の故郷という「夫妻の心理的絆面」、3:夫妻の勤務先への定着と同化という「大学コミュニティの一員としての連帯性」の三層からそれぞれ複合的に理解しなければならない。
熱狂的オバマ熱に湧く地元
久しぶりに訪れた新緑のシカゴ南部は、空前のオバマブームに湧いている。そのブームたるや尋常ではない。55丁目の線路沿いにあるウォルグリーンストアに足を運んでみた。目につくのはレジの前に山のように積まれたオバマの本である。Dreams from My Father: A Story of Race and InheritanceとThe Audacity of Hope: Thoughts on Reclaiming the American Dreamの二冊の作品が置かれている。この異常性はアメリカに少しでも訪問したことがある方なら気がつくはずだ。ウォルグリーンはドラッグストアである。通常は書籍など入荷販売しない。しかも、周辺には大学の学術書専門店以外には、地域住民向けの一般書店は皆無という非読書層地域である。その黒人ゲットー隣接地の地元民向けのウォルグリーンで、書籍コーナーが即席で生まれたことは筆者を特別に驚かせた。ちなみに、今回のオバマ勝利を受けて、都市圏の大書店でみられる光景に、オバマの書籍のスペースの大幅確保と、ばたばたと購入する客が目につくことがある。ヒラリーの撤退演説後、加速度的になっている。筆者周辺の党関係者でも、オバマ支持なのに、いわゆる「積ん読」状態になっていたオバマの本を慌てて読み出したものは少なくない。とりあえず購入しておいたが、本格的に通読していなかったという人は多い。また、ヒラリーへの忠誠心から一切オバマ本に手をつけなかったというヒラリー支持層も渋々手を付けだした。
オバマ講師としての行動範囲
シカゴ大学のキャンパスはアメリカの一般的な大学に比べるとさほど広くない。東は国際学生寮のあるストーニー・アイランド・アベニュー付近まで、西側はワシントンパークに隣接したコテッジ・グローブ・アベニュー。前述のようにワシントンパークに入ると銃撃を受けてもおかしくない地域になる。北は50番台までがシカゴ大学警察のパトロール重点地区で、40番台で強盗や射殺に巻き込まれても、シカゴでは「ああ40番台なんかに入るからだ」という感覚である。南は芝生の緑地帯をまたぎ、オバマが教鞭をとっていたロースクール、また公共政策大学院などが並ぶ60番台まで。私がかつて籍をおいた国際関係論研究科は政治学部系であったが、コースワークの履修はロースクール、公共政策大学院、社会科学系統などを横断して行うシステムに組まれており、公共政策大学院やロースクールには頻繁に足を運んだので、筆者もこの南側危険地帯との「境界線」エリアへの親しみは深い。ロースクールの裏側より南に行けば夜は命の保障はない。「シカゴのオバマ」には「コミュニティリーダー」としての顔と「オバマ講師」としての顔があったが、後者の「オバマ講師」としての行動範囲は、生活も含めて上記の正方形に限定されていた。黒人ゲットーの「コミュニティリーダー」になるには、ロースクールの教壇で身につけていたネクタイをとり、この危険地帯と大学警察の警備地区との境を「越境」していかねばならなかった。おなじ「シカゴ南部のオバマ」でも、ネクタイをして行う大学講師と地方議員の仕事と、ノーネクタイで行うコミュニティ活動家の「2つの仕事」には明らかなラインがあった。その断絶はシカゴのコミュニティの断絶をそのまま象徴していた。しかし、その「越境」をごく自然に行うのがオバマであり、その自然な行き来に周囲は驚嘆した。エリートでありエリートでない、黒人以上に心理的に黒人であって、黒人でない面もある。このシカゴで行っていた「越境」にオバマの魅力の鍵が隠されている。
党派をこえたキャンパスの応援
この狭いキャンパスエリア内に、シカゴ大学生や教職員で知らない者は「もぐり」という、シカゴ大学の胃袋的レストラン、メディチがある。筆者も1990年代末にほとんど2日に1回通っていた頃から、その後のシカゴ訪問のたびに数えきれない回数足を運んだ。この行きつけ中の行きつけの店に、今回もできるかぎり足を運んでいる。ハンバーガーからチキンまで一般的なこってりしたアメリカ料理を出す店だが、シカゴピザというナイフとフォークで切り取ってステーキのような食べ方をする分厚いピザの味ではシカゴ下町の味として、サウスサイド随一の変わらぬ人気を誇っている。1962年にオーナーの交代で、コーヒーハウスだったものがレストランとしてリニューアルオープン。キャンパスのレストランとして、公民権運動や学生運動の時代のノスタルジックな名残も残す。あくまで学生や教職員向けの大衆食堂であり、同じシカゴでもダウンタウンの絢爛なレストランとは比べ物にならないほど質素だ。
このレストランが最近お揃いのTシャツを作った。ウエイトレスと厨房スタッフが以前からお揃いできているメディチTシャツのオバマ版である。シカゴ大学関係者の胃袋であるこのレストランにはオバマ講師も訪れた。そのため、オバマを応援しようというコミュニティとレストランの発案で、Elect Obama(オバマを当選させよう)という彫り込みを施したメニューブック型の彫刻オブジェを、各テーブルに飾った。また、OBAMA EATS HEREというバックプリントのTシャツも作成。「ご近所にお住まいのオバマ講師お気に入りのレストラン」のニュアンスを背中にプリントした格好だが、数ブロック先に住んでいるオバマ先生の胃袋となってきた自負がある地元食堂なだけに「全米に溢れる即席のオバマファンクラブのグッズとは、込められた意味と価値が異なる」と店員は豪語する。Tシャツは三色作成した。倉庫から出してきてもらい、すべて見せてもらった。グリーン、ブラック、ブルー。グリーンは、うぐいす色に近い落ち着いた色合いで、なかなかの風合いである。ここでは、オバマを応援して当たり前という空気が流れており、まだ民主党予備選の決着がついていない段階でも、上記の文字が大きく入ったTシャツを着たウエイトレスが注文をとりにきて、Elect Obama彫り込みのオブジェがテーブルに飾ってあっても、気分を害し文句をいう客は一人もいない。心の中ではヒラリーを熱狂的に応援している人も当然いた。筆者の周辺の教授陣や若手の院生にもいる。また、経済学部の教授陣は当然共和党支持者が多い。しかし、千載一遇の地元関係者の大統領への王手に、党派を越えて大学コミュニティは応援の姿勢を取ることにした。
以上
■ 渡辺将人: 東京財団現代アメリカ研究プロジェクトメンバー、米コロンビア大学フェロー