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アメリカNOW23号 「シカゴ以前のオバマ」再考―「脱人種」意識の涵養の根源(渡辺将人)

August 6, 2008

『黒人オバマ』とミシェル夫人

オバマはアメリカの典型的な黒人ではなかった。この点は何度強調しても強調しすぎることはないだろう。「シカゴトリビューン」紙で、オバマ番記者を長年務め、シカゴではオバマに最も詳しい一人とされているデイヴィッド・メンデルの表現を借りれば「外見がアフリカ系であったことと、夫人と子供がアフリカ系アメリカ人」であったことにより、シカゴの黒人社会でオバマは「黒人の仲間」として、はじめて認められた。ミシェル夫人が予備選キャンペーンの過程、とくに黒人率の高いサウスカロライナ州以降に、目立った役割を果たすようになった背景には、「脱人種」の無色透明のオバマと、シカゴ南部出身の伝統的なアメリカの黒人文化を継承しているミシェル夫人の「役割分担」もあった。これが何を暗喩しているかというと、ハーフのオバマが母親側の外見を受け継ぎ、白人的な風貌になっていたか、あるいは白人女性と結婚していたら、黒人社会で黒人の仲間として認められるのは相当に困難だったということである。ひいては「黒人初の大統領」という「オバマ現象」の一角を築いてきたテーゼも成り立たなかった。

アメリカの黒人専門誌『JET』が2008年5月にオバマを表紙にした特別企画を組んだ。『JET』はあらゆる階層、性別、地域の黒人層にもっとも親しまれている雑誌で、このカバーになったことは、晴れて黒人社会がオバマを代表として認めたと考えて良い。この「御墨付き」が5月にまでずれ込んだ最大の理由は、『JET』記者のケヴィン・チャペルが言うように、民主党のスーパーデリゲートである黒人議員や黒人の党幹部が、オバマ派とヒラリー派で、内部で真二つに割れてしまったことにある。また、白人州のアイオワで「脱人種」候補として勝ち上がって来たオバマを、いったい「黒人の味方」として理解してよいのか、いったい「何者」なのか、黒人メディアが扱いに困っていた様子もうかがえる。オバマの人種をめぐる「二重性」は、本選に向けてどう作用するのだろうか。黒人票がどこまで民主党内で、最終局面において結束しつくせるだろうか。また、社会保守派がオバマを人種的にどう判断するだろうか。「二重性」は好意的に迎えられるだろうか。それとも反発を生むだろうか。人種観念をめぐっては、共和党のみならず、南部、中西部の保守的な民主党票にも流動的判断が残っており、最後まで投票率を左右する不安定要素になるという専門家の指摘は少なくない。

黒人指導者層が異口同音に主張することに、「初の黒人大統領」と「初の女性大統領」は、少なくともアメリカでは「達成感」の重みが違うという点がある。もちろん、女性が米軍のトップに司令官として立つことも難しいことであり、ヒラリー・クリントン以前に本格的に実現に近づいた候補者はこれまで存在しなかった。しかし、アメリカ特有の黒人をめぐる歴史の重みは深い。歴史的に苦境におかれていた黒人が、そのアメリカの大統領になる意味は、アメリカの内的な歴史をめぐる清算の象徴でもあり、世界に「アメリカの真の度量」を示す意味ももつ。だからこそ、ケニア人を父に持つハーフで、しかも黒人社会で育ってないハワイ出身のオバマは、厳密な意味では「アメリカ史における最初の黒人大統領」ではない、という見方も黒人指導者から向けられていたのである。しかしオバマを支持するシカゴ南部ハイドパークの住人達は口々にこう反論する。「オバマはアメリカ黒人の息子ではないかもしれない。でも、最初の黒人のファーストファミリー候補であることは間違いがない。ミシェルの夫だから」。

ミシェルとのペアで、オバマは「黒人初」のシンボルとして認められた。この一点において、ミシェルは従来のファーストレディ候補とまったく違う存在である。候補者がアメリカ社会で象徴する「価値」、支持層から寄せられる深い信頼にあまりにも根底的に関与している。お飾りではない。ヒラリーなしでビルが大統領になれたかどうかに様々な議論があったが、基本的にはこれまでのどの夫人も候補者のイメージを増減させることはあっても、候補者の「存在そのもの」に与えた影響は限定的だった。しかし、オバマの場合は、ミシェルなしでは現在の地位には決して辿り着いていない。その意味で、ミシェルをめぐる研究は、ミシェルがオバマに及ぼした影響を省察するという場合においてのみ(現在進行形のキャラクター評論ではなく)、これまでのどの大統領選夫人候補とも違う深い意味をもつ(ミシェル夫人研究は詳細は別号に譲る)。

オバマとアイデンティティ問題

アフリカへの望郷の念や父親への愛情が強いオバマの背景には、外見上黒人として周囲に認知されて育ったことが大いに影響している。外見は黒人なのに、内面的に「マルチカルチャラル」であるという葛藤がオバマの自分探しの根源にあった。オバマの母親は、オバマに「アメリカの黒人」としてのアイデンティティを持たせる教育を施していた。幼少期からマーティン・ルーサー・キング牧師の公民権運動についての本を読ませた。公民権運動はアメリカの黒人の連帯感の柱である。その後、大学に入るために移り住んだカリフォルニアでは、オバマは黒人社会が抱える諸問題の現実に直面していない。黒人学生は「カリフォルニア・ブラック」と呼ばれるミドルクラスやアッパーミドルクラスしかいない、リベラルアーツ大学に入学したオバマは、富裕な郊外の黒人との付き合いしかなかった。

明らかにオバマは最初に人種を超越した政治家である。しかし他方で、アメリカ人である以上、旧来的な人種やエスニックなカテゴリーのどこかに基盤を持たないと、アメリカ人として脆弱な存在感しか持ち得ないことを、最初に証明した政治家でもある。オバマがめざしたのは、アウトサイダーとインサイダーの双方を代弁する存在だった。「脱人種」を目指しながら、他方で一から「アメリカの黒人になる努力をする」という、時間軸に逆行することをした。それは、多民族社会アメリカにあっては、「差異」は認め合うものであり、混ざり合い無色透明になるものではない、というアメリカのアイデンティティ・ポリティクスの現実を受け入れることでもあった。

オバマは演説では、エスニック集団への配慮を怠らない。精神論として「人種を乗り越えよう」と唱えたところで、人種対立やエスニック集団の問題はなくならない。アメリカの選挙現場の認識として、人種やエスニシティは文化であり、大切なアイデンティティでもあるという前提がある。少なくとも民主党では、無色透明にすることはゴールではないと考える。「エスニックなアイデンティティを忘れよう」と呼びかけることは、「自己の文化を放棄しろ」と言うに等しい。オバマは「アメリカの黒人」としての存在を確立したからこそ、大統領選挙で「何系であるかに拘泥しない新しいアメリカ」をめざすスピーチが可能になった。どの集団にも属さないままでは「脱人種スピーチ」に説得性が出ないのである。前出のメンデルは、それはオバマの政治的計算ではなく、精神的安定を求める「自然な欲求」だったとみる。「人種的な錯綜に終始悩まされていたこの男は、アメリカの黒人男性という存在に、最終的に精神的安心を得たのだ」と指摘する。

完全にどのアイデンティティ集団にも根を張らず、すべてを超越する存在で在り続けることは、アメリカでは現実的には相当に苦しい。オバマの「脱人種」的なスピーチの数々は、自身が抱える人種アイデンティティの希求があまりに強いため、それとの反作用で生み出されたとみる専門家は多い。かつて、ハーヴァード・ロースクールで、オバマは次のように述べた。「ブラック(黒人)と呼ばれようが、アフリカ系アメリカ人と呼ばれようが、シカゴやニューヨークで日常を暮らし、勤勉に働く上では大した違いはない。(ロースクールの)三年間で学ぶ事を次の段階でどう活かしていくかが重要なのだ」。これだけを聞けば、オバマお得意の「脱人種」スピーチに聞こえる。しかし、その裏側には、黒人としてのアイデンティティに揺らぎを感じ悩んできた少年期、青年期の反作用として、常に「自分の人種をことさら気にすることはないのだ」とオバマが自分自身に言い聞かせているかのようにも聞こえる。

オバマの処女本をめぐり

オバマは2008年時点までに、二冊の自伝を書いているが、一冊目をめぐるエピソードは興味深い。オバマの根源的な核は、大統領選挙を睨んでの政策提言色の強い二冊目より、ケニアの父親への想いと「自分探し」の少年期、青年期を綴った『Dreams from My Father: A Story of Race And Inheritance(邦題:マイドリーム―バラク・オバマ自伝)』にこそ示されている。政治家になることを決意する前に書かれたもので、政治的意図のない純自伝に徹している。1995年にランダムハウスの系列社から出版されたとき、オバマはわずか34歳だった。アメリカでも、「自伝」を書く年齢としては異例に若い。ロースクールの権威ある学術ジャーナル『ハーヴァード・ロー・レビュー』編集長の肩書きが助けとなり、出版の機会にありついた。しかし、無名のオバマの本は売れなかった。

アメリカではつい最近まで、この本は政治コーナーではなく、アフリカ研究のコーナーにひっそりと並べられていた。政治家の自伝ではなかったので、政治コーナーの本として認められなかったのだ。アフリカ人を父親に持つ、ある黒人青年の「自分探し」のエッセイとして、アフリカ研究の一種と考えられて分類されていたのだ。この事実は興味深い。オバマは、著述家としては、自分探しによる「アフリカ研究」から出発した人物である。オバマが民主党大会で有名になる2004年まで、ウェブの書店では4、5ドルで売りに出されており、まさに二束三文といってよい状態だった。大型の書店からも姿を消していた。増刷されることが決まったのは、ボストンの名演説で「民主党のオバマ」になってからのことだ。日本語訳も出ることとなったのは、ずっとあとの大統領候補としての「アメリカのオバマ」になってからである。

それだけ、本のコンテンツそのものは地味なものであったことがうかがえる。邦訳も大統領候補であるという事実がなければ、まず邦訳は実現しなかったであろう。個人的な望郷の想いと悩みが綴られている。ほとんど無名に近い状態でなぜ自伝を書くことを思い立ったのか。それはオバマの生い立ちに起因している。ここで面白いのは、オバマとビル・クリントンを比較する専門家が少なくないことだ。両者の共通点に、幼少期の生い立ちが、「会ってしまうと好きになってしまう」といわれる対人的魅力に象徴される政治コミュニケーション能力を磨かせたという点がある。シカゴのオバマ周辺がいうように、オバマが時節「自分は孤児のような感覚だった」と振返る生い立ちは、継父の家庭内暴力のなかで育ったクリントンと同じように孤独感を植え付け、他人に好かれるにはどうすればよいかという技術を自然に見つけさせた。書くことは自分探しであると同時に、他人に認められたいというほとばしる思いの結晶でもあった。

オバマの人格形成―「望郷」と「実態」

オバマのアイデンティティをめぐっては「望郷」と「実態」の二つの要素が絡み合っている。「望郷」とは父親への想いからくるケニアとアフリカとの精神的なつながり。「実態」とは、実際に育った具体的環境である。「望郷」が「父」のシンボルなら、「実態」は「母」のシンボルだ。夫人のミシェルは、オバマ解明の上で「実態」、つまり母親の影響のほうが実際には重きをなしていると述べているが、そのなかでもハワイ時代が重要であるというのがミシェルの意見だ。

オバマの母親とインドネシア人の父親との間にできた異父兄弟の妹のマヤ、そしてオバマの祖母はハワイに暮らしている。オバマの母親のアン・ダンハムはカンザス州ウィチカで大恐慌時代を過ごした。アンの父親は家具セールスマンで、カンザス以外にもカリフォルニア州バークレイ、ワシントン州シアトル、テキサス州などを転々と引っ越している。オバマの知性は母親譲りでもある。アンは読書好きであった。高校時代にシカゴ大学に入学を認められたが、親元を遠く離れて入学するにあたり、父親の許しが得られず辞退した。のちにオバマ夫妻の拠点となるシカゴ大学との縁は、オバマの母親に遡る。

オバマにアフリカへの関心を与えたのは父親だったが、それは精神的な「望郷」の次元にしかすぎず、「実態」として重要なのは母親の影響だった。アンは筋金入りの「リベラル」であり、当時の白人の一般的人種観念よりはるかに進歩的だった。アジア太平洋文化の色濃いハワイ大学で文化人類学を学んでいたことからも、そのリベラルさは窺えるが、アフリカ人留学生と結婚するなどということは故郷中西部カンザスの白人社会では当時は想像できない行為であった。オバマの父親バラク・フセイン・オバマは、アフリカの近代化のためにアメリカに送り込まれたアフリカ人留学生の第一の波にあたる。ハワイ大学のロシア語のクラスで出会い恋に落ちた。二人は1961年に、のちのアメリカ大統領候補となるバラク・オバマ二世を授かった。父親がハワイを去った原因は夫婦の不仲ではなかった。ハーヴァード大学の奨学金を得たため、一人だけでハワイを立ち去ったのである。妻子を連れて行こうとはしなかった。アメリカの家族概念とは異なる考えがそこにはあったとされる。オバマは父親を決して恨んでいない。

オバマと大学トランスファー制度

オバマの弱点の一つは「エリート」というラベルである。予備選でブルーカラー労働者票の獲得に苦労し、当初は黒人票の獲得が困難ではないかと懸念された背景にあったのは、オバマが2004年の大統領候補ジョン・ケリーと同じようなハーヴァード大学院卒に象徴される「東部エスタブリッシュメント」なのではないかという評判だった。しかし、実際にオバマの経歴をみると、「エリート」で片付けられないユニークさがある。ニューヨークのコロンビア大学を卒業しているが、入学したのはコロンビア大学ではない。カリフォルニアのオキシデンタル・カレッジという学生数わずか2000人にも満たない小さなリベラルアーツ系のカレッジに入学し、そこで2年間を過ごしている。

周知のように、アメリカには浪人制度はなく、とりあえず現役で入れる大学に入る。入学大学が一生を決めるわけではないシステムが担保されているからだ。「トランスファー」である。二年だけ勉強して、より上位の大学に移る。日本でいう大学内の転部や他大からの編入に近いが、日本ではこれが一部の大学で、しかもごく少数しか実施されていないのに対し、アメリカではトランスファーはきわめて日常的な制度だ。新しい大学を一から受け直すこととも、卒業後の学士入学とも違う。三年時から別の上位の大学に完全編入するのである。したがって、アメリカでは大学一年の入学大学と、四年時の卒業大学(学位取得大学)が一致しないケースは少なくない。

このアメリカ特有の高等教育のシステムが、オバマの学歴を理解する鍵である。オバマはこの「トランスファー」組だからである。コロンビア大学には3年生と4年生の2年間しか籍を置いていない。オバマがハーヴァード・ロースクールについては多くを語るのに、コロンビア時代については控えめな発言しかしないのは、編入によって2年間しか在籍していなかったからでもある。しかし、注意しなければならないのは、能力的には「トランスファー」を認められることは、一年次から在籍している学生以上に優秀な証でもあることだ。オバマはオキシデンタル・カレッジに全額奨学金で入学している。オバマがコロンビアについて多くを語らないのは、「トランスファー」に引け目を感じているからではなく、純粋に在籍年数が少ないからでもある。学業以外にジャーナルの編集など課外活動でも活躍したハーヴァード・ロースクール時代の3年間のような愛着は少ない。

オバマが象徴する「希望」を支える幅広い学生層

予備選プロセスで、報道レベルではあまり注目されなかったが、若年層の運動の現場の声を聞く限り、このオバマの生い立ちは若年層鼓舞に間接的に大いに役立っていた。プレップスクールからアイビーリーグ大学へ、という典型的な東部のエリートコースではなく、「トランスファー」で西部カリフォルニアの小さな大学から、苦学してコロンビアに編入したというストーリーは、オバマの努力家ぶりと庶民性を象徴した。小さな大学からトランスファーで有名大へ移った遍歴は、アメリカの中間層以下に「希望」を与える点で、オバマ人気にむしろ貢献した。学生のあいだでは、「トランスファー大統領候補」と呼ばれている。地元シカゴの小さなコミュニティカレッジの学生も、「自分もオバマみたいに奨学金でトランスファーしたい。だから今の大学でいい成績を取るように努力している」と目を輝かせて語る。オバマの若者票獲得のためのアウトリーチ実動隊として動く、シカゴ大学カレッジデモクラット他、全米の大学の民主党支部は「トランスファー大統領候補」のオバマを強調する。「プレッピーではない」「西部カレッジ発、東部アイビーリーグ行き」を合い言葉に活動する、オバマ支援の学生たちの根底には、「オバマ的学歴遍歴」への共感がある。2004年のケリーの若年層アウトリーチが、プレップスクール出身のアイビーリーグを中心とした東部エリート層の学生による「お行儀のよい」活動で、コミュニティカレッジや田舎の州立大学に通う、中産階級以下の庶民派の学生をほとんど巻き込めなかったこととは大きな差である。

かつて1992年に変革(チェンジ)を掲げて大統領選挙に勝利したビル・クリントンが、アーカンソー州で実の父親のいない家庭で育ったにもかかわらず、ジョージタウン大学を経てローズ奨学生としてイギリスに学んだ過程は、若い有権者や子供をもつ母親層に「夢」を与えた。クリントンの親しみと好感度を高めたのはいうまでもない。アメリカ人の中間層以下は、結果としての学歴の高さを評価しつつも、どこか自分の人生とも接点を持てる、一般人に親しみのある「ポピュリズム」性を欲しがる。教育の過程に何らかの「ハンディの克服」がストーリーとしてあることは、効果的な象徴なのである。ブルーカラー労働層を票田に抱える民主党候補としては、教育をめぐる複雑な生い立ちは今や必須ですらある。オバマはこの点で及第である。共和党がいかに、「エリート」の範疇にオバマをはめ込もうとしようと、マサチューセッツの上流階級のケリーとはまったく違う。「プレッピーではないのに、ハーヴァード・ロースクール卒」。これがオバマ陣営の防戦の砦でもある。「ハーヴァード・ロースクールを隠す必要はない。堂々とアピールし、そこに至る過程のオバマの苦労をキャンペンーンで語れ。オバマは伝統的エリートではない」とオバマ陣営の関係者は筆者に語った。

キャンペーンのメッセージの核心と人生経験がリンクすれば、説得力は倍増する。オバマの人生は、オバマのメッセージそのものであった。オバマには34歳にして自伝を書くことができるほど、「語るべき」複雑な生い立ちがあり、そのすべてがキャンペンーンに良好に作用した。アイルランド系という非ワスプという移民社会の序列における一定のハンディを背負いながらも、家庭環境で圧倒的に恵まれていたケネディ家の政治家たちと比べても、オバマは「育ち」からして一線を画している。「ケネディの再来」というメディアに流布する比喩を嫌うオバマニア(オバマの熱心な支援者をこう呼ぶ)は意外と多い。彼らにうっかり「オバマはケネディのようだね」などというと、「オバマとケネディは全然違う」と叱られてしまう。「ケネディに似ている」が褒め言葉にならない新しい出自をめぐる魅力がオバマにはあると、ハードコアの支持者は考えている。

裕福な東部エスタブリッシュメントの学生たちに、3年時からコロンビア大学で合流したオバマは、彼らに溶け込んで社交を優先するよりも、一人で黙々と勉学に勤しんだ。オバマ自身、コロンビア大学時代を「修道院の修行僧のようだった」と回顧する。ニューチェに哲学を学び、ハーマン・メルヴィル、トニ・モリソンなどのアメリカ文学に傾倒し、孤独な思索の日々を送った。オバマは作家を目指していたことがある。自伝以外にものちに引っ越したシカゴでは短編を書いていたことがある。オバマは学問の素質があった。シカゴ大学ロースクールのある教授によれば、大学は「オバマを正規の教授として迎え入れようとしたことがある」が、オバマは「テニュア」の誘いに乗らずに、シカゴで政治家の道を歩んだ。「トランスファー」人生のオバマは、内省的な日々を経て、来るべきシカゴの「政治時代」に備えた。


渡辺将人: 東京財団現代アメリカ研究プロジェクトメンバー、米コロンビア大学フェロー

    • 北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院准教授
    • 渡辺 将人
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