2008年の米政治報道で一般化した「ハイドパーク」とは
「コロンビア、ハーヴァード、ハイドパーク」。2008年5月25日に放送されたABC NEWS「This Week」で、保守系政治評論家のジョージ・ウィルが「オバマのエリート性はこの三つに象徴される」という趣旨で述べた表現だ。コロンビアとハーヴァードまではわかる。「ハイドパーク」とはいったい何か。シカゴ南部のシカゴ大学のある地域名のことで「公園」のことではない。全国メディアでパンディトがこのような発言をして、それがアメリカの視聴者に違和感なく通じるという現状に、今回の大統領選におけるオバマ現象のシカゴとのつながりの一端がうかがえる。
筆者がかつてハイドパークに住んでいた1990年代末には、「ハイドパーク」は中西部の都市史に詳しい人にしか知られていない、およそ全国区で放送に耐えうる地名ではなかった。オバマの代名詞の一つになっているシカゴ南部ハイドパークとはいかなる土地なのか。今号では、冒頭のジョージ・ウィルの言葉を出発点に、オバマのもうひとつの横顔を探ってみたい。
オバマが居を構えるハイドパークについての記述は、アメリカ国内でも誤解に満ちた報道が少なくなかった。理由は主として二つある。一つは「シカゴ大学学報(The University of Chicago Magazine)」のリディアリン・ギブソンが述べているように、オバマ自身が奇妙なまでに、シカゴ大学の12年間と自宅のあるハイドパークについては多くを語らないからである。自伝にも記述は少ない。オバマのハワイとインドネシアの過去については、ちょっとしたオバマ通なら今や誰でも知っている。しかし、アメリカ人でオバマのボランティアに参加するほどの熱心なファンでも、オバマがシカゴ大学の専任講師をしており、教授陣との濃密な関係の深さから、オバマの知的な「核」がシカゴにあることを知る人は少ない。
大統領選キャンペーンは「ハーヴァード・ローレビューのオバマ」というイメージを守ることで進行した。そのためオバマのシカゴ時代が「謎めいたもの」として閉じ込められていた。しかし、一冊目の自伝『マイ・ドリーム』を執筆した場所もシカゴ大学のレイアード・ベル・ロー・クアドラングルだったし、執筆のインスピレーションもハイドパーク生活で得たものだった。事実、オバマ政治を育てた重要人物はシカゴ大学関係者だらけである。ロースクール1951年卒業のオバマの指南役アブナー・ミクバ教授を筆頭に、オバマ陣営の選挙戦略を取り仕切るチーフ・ストラテジストのデイビィッド・アクセルロードは1979年にシカゴ大学(政治学専攻)を卒業している。
のちに「反米的」と誤解をうける過激発言からスキャンダルになるも、初期のオバマに精神的影響を与え、ミシェルとの挙式も担当した恩人のジェレミー・ライト牧師も、やはりシカゴ大学神学部の1975年卒業組である。オバマ、アクセルロード、ライト牧師をつなぐ接点が「シカゴ大学」にあることは、アメリカの政治関係者の間でも地元シカゴの事情通でないと意外と知られていない。ハイドパークは他の大学町に比べても極端に小さなコミュニティであり、ここで一度でも寮生活をしたり居を構えればその連帯感はきわめて強い。
近年稀に見る大規模な選挙取材の弊害も
第二にヒラリー・クリントンとの激しい予備選での指名争いの長期化は、否応無しにアメリカのメディアの取材の体力を奪った。アイオワ、ニューハンプシャー、スーパーチュズデーと続き6月までもつれこんだ民主党の予備選、そして共和党の予備選を同時並行で追いかける異例の年。アメリカの近年の選挙報道史においても珍しい、未曾有の労力が米メディアに求められた。
そうしたなかで一番犠牲になった報道領域は、候補者の人物掘り下げだった。候補者の一言一句、候補者の「涙」一滴が、大きなニュースとなる予備選過程にあって、キャラバンを一時離脱して候補者の故郷やアイデンティティ形成に重要な役割をはたした土地を徹底リサーチする調査報道は少なかった。とりわけオバマのような出自の独特な候補者が登場している選挙において、候補者自身の自伝に依存する報道が、主流新聞や主流雑誌に見られた。取材労力の配分をハイドパーク分析に一切避けないまま、本選にもつれこんだのである。
アメリカのメディアで一部ハイドパークに言及する報道が出始めたのは、2008年5月に入ってからのことだった。「ニューヨーク・タイムズ」紙(5月11日)が「サウスサイドで形成された現実的な政治 」と題する特集記事を組んだのが皮切りだ。それまであまり語られなかったオバマのシカゴ南部の歴史を丁寧に掘り下げたものだったが、 このなかで「左翼的なハイドパーク」という記述がシカゴ大学の教授陣で問題視されたことがある。「ニューヨーク・タイムズ」のようなクオリティ・ペーパーの初歩的な「誤解」は、ハイドパーク取材になかなか手が回らない現実を浮き彫りにしていた。
記事は、貧困街の黒人ゲットーのなかに、シカゴ大学を有するハイドパークは、大学町のリベラルさから周囲から浮き上がっているという趣旨で、ここまでは正しいのだが「左翼的(レフティスト)」なコミュニティという言葉を使用した。「リベラル」ならまだしも「レフト」とは何事かと保守系の教授陣の評判は最悪だった。ハイドパークは決して政治的にリベラルなコミュニティではないからだ。「ニューヨーク・タイムズ」は大学関係者の居住率の高さを言いたかったのだろう。
また、ハイドパークとシカゴ大学の区別がつかないメディアも続出し、「タイム」誌(US版)の5月19日号に、「ハイドパーク」というキャプションで、なぜかシカゴ大学内のカフェテリアで食事をする学生の写真が載った。これもシカゴの政治関係者の間で「これは学食じゃないか。何で近隣の街の外観にしなかったのだ。タイム誌ともあろう雑誌が、キャプションと不整合だ」との反応を呼び起こした。いずれも根本的な誤報ではないが、勘違いすれすれの理解がアメリカを代表するメディアにすら蔓延し、結果として「ハイドパーク」という名前だけ冒頭のジョージ・ウィルのようなパンディットによって広められ、その理解についてはあまり深まらなかった。
黒人ゲットーと知的空間の境界線
ハイドパークがシカゴ南部のなかで「特別な土地」であるのは「ニューヨーク・タイムズ」の指摘の通りだ。1853年にニューヨークの法律家であるポール・コーネルが、南部の51丁目から55丁目までの300エーカーの土地を購入したことがすべての始まりである。この頃、まだこの地域はシカゴ市の境界外だった。1882年にケーブルカーが敷設されると発展が加速する。1955年にCTAバスが開通するまで、トローリーカーがハイドパークの交通の要だった。1890年のシカゴ大学の設立は決定的となった。その後、シカゴのユダヤ系集住地として、またミシガン湖沿いの絶好のロケーションからリゾートホテルの立ち並ぶ避暑地ビジネスの中心として発展してきた。
ハイドパークの転換点は、1940年代以降の人口動態の変化だった。都市部とインナーシティからの、南部全域への黒人の移住の波がハイドパークにも押し寄せた。ハイドパーク史家のマックス・グリネルは、よりよい生活を求めて大量のアフリカ系アメリカ人がハイドパークに流れ込んだのは、当時のシカゴ「ブラックベルト」のアフリカ系アメリカ人が、屋内に水道配管もない、劣悪な住環境にあったためで、移住のインセンティブは納得できるものだと指摘している。
人口動態の変化はかつてのハイドパークを変えてしまった。凝った建築の石造りの家は、さらに郊外に出て行く白人居住者に放棄され、二束三文で売りに出された。建築は素晴らしいのに住む住人の手入れが悪く、ハイドパークの豪邸は老朽化が激しい。かつてのリゾートホテルは、観光客の激減でホテル営業を中止。大半は現在、シカゴ大学の学生が住むアパートとして存続している。シカゴ大学は移転しなかった。そのため、大学キャンパスが浮き島のように残される形で、周囲は黒人ゲットーにドーナツ状に包囲される「不思議なコミュニティ」が生み出された。これが現在のハイドパークである。キャンパスを一歩跨いで5分も歩けば、向こう側には全米最低レベルの貧困と、全米最悪レベルの治安環境が待ち構えている。筆者もシカゴ南部生活で、ときには週に数回聞く銃声にも慣れ、近隣でホールドアップやレイプは当たり前だった。
これまでニューヨーク、ロサンゼルス、ワシントンDCの一番危険とされる所を訪れたことがあるが、いずれもこれといって危険を感じたことがない。シカゴ南部に慣れてしまった人が異口同音に言うのは、昼間から銃声が聞こえないようでは、危険なうちに入らないという認識で、筆者も同感だ。駅のホームに5分以上一人で立っていれば命の保証はないという感覚だったし、最近では大学からアパートに帰宅途中の博士課程の留学生が、現地の少年ギャングに金目当てで殺される事件も起きたため、大学警察を呼び出す非常ボタンのポールが遅ればせながらキャンパス付近に立てられた。逆にいえば、そのポールが立ってない外側まで出れば「自己責任」ということである。
特徴的なのは周囲の貧困コミュニティの大学への敵意である。教授陣には郊外やダウンタウンから車で通い、日常生活ではハイドパーク付近に関わらない人も多い。ところが、オバマ講師はハイドパークに居を構えた。そこは大学の知的空間と、周囲の黒人ゲットーの「境界線」だった。知的空間と貧困街が隣り合わせに存在していたことが、コミュニティのオバマと、シカゴ大学のオバマという「二つのオバマ」を併存させることを実現させたのだ。「シカゴ南部のオバマ」には、このどちらが欠けてもいけなかった。イリノイ州議会のスプリングフィールドでのオバマは、白人議員とも歩調があわせられる、人種を横断する社交性を発揮した。ゴルフやポーカーに参加しては、白人議員にも溶け込んでいった。これは黒人だけでかたまって行動する気質のあった、旧来の黒人政治家にはない行動パターンであった。
法律事務所に就職して安定した生活を得るようになったハーヴァードの同期とは違う、茨の政治人生を歩むことになったオバマは、同期を羨ましいと思ったことは当然ない。オバマにはその種の「エリート」主義は見られない。しかし、知識人としての知的欲求と、地域活動家としての自分の土着の活動、州議会での白人議員との付き合いのあいだに、ある種の亀裂とフラストレーションもあった。そうしたなかで、心を休める緩衝剤が、シカゴ大学で大学院生に法律を教える純粋な知的生活だったのである。教壇やカフェテリアでの同僚教授との議論は、コミュニティ活動に没入してきたシカゴ南部にあって「知的オアシス」であり、オバマの法律専門家として、そして知識人としての「自己確認」だった。
シカゴ大学講師としてのオバマ
そのオバマのシカゴ大学講師の経歴について、今回のキャンペーン過程でスキャンダルめいた報道がなされたことがある。講師としての実態に疑義をさしはさむ、オバマの「肩書き論争」である。予備選直前に勃発した。オバマ陣営は、いくつかの配布物に、オバマを「プロフェッサー(シカゴ大学元教授)」と書いていた。しかし、「実際にはシニア・レクチャラー(上級講師)だったではないか」という批判が出た。実態を検証したのは「ワシントンポスト」紙だった。結論はその中間にあった。たしかにオバマはシカゴでテニュアを獲得していなかった。その意味では「上級講師」にすぎなかった。しかし、大学院生を教える高度な専門経験を持つ講師であれば、敬意を示すために「プロフェッサー(小文字でprofessor)」と呼ぶ事は、少なくともシカゴ大学では日常的だった。シカゴ大学当局も「オバマ氏はa professorとして奉職していた」と調査に対して明言した。シカゴでは「事実上の教授扱い」だったのである。「事実上」である。疑惑は晴れた。
この肩書き問題がスキャンダルとして大きくならなかった最大の要因は、殺到したメディアの取材にシカゴ大学の同僚教授たちが口を揃えてオバマを擁護したからだ。「素晴らしい教授だった」「教授会としてはオバマ氏さえ望めばいつでも正規の教授に迎えるつもりだった」など、全国メディアだけでなく、地元紙の「シカゴサンタイムズ」などの取材に教授陣は異口同音に回答した。2007年12月頃からくすぶっていた「肩書き論争」はじきに沈静化した。別号で述べたように、シカゴ大学は必ずしも民主党色の強い大学ではない。ロースクールを含む社会科学系統には、経済学部、政治学部を中心に共和党支持者が多い保守性が顕著だ。そうしたシカゴ学派の学風にあって、民主党のオバマを、共和党支持者も含む教授陣が「立派な講師で、教授と同等だった」と擁護し、批判的なコメントはたとえ匿名でもほとんど出なかったことは、驚異的だった。
シカゴ大学のキャス・サスティーン教授(現ハーヴァード大学)は政治学部とロースクールの兼任教授で、かつての同僚のオバマと大学職員のミシェル夫人の双方と親しい大学当局者の一人だ。教授は次のように筆者に語っている。
「ミシェルも人望があつく大学内でたいへん気に入られていたが、オバマ氏は法律学の講師として完璧であり、学生にも教授陣にもとても愛されていた。オバマ氏が他の教授陣とくらべて例外的だったのは、彼の授業に政治的な偏りがまったくなかったことだ。憲法への情熱は深い。講師としても一流だった。私がオバマ氏と食事をしたときは、いつも話題は憲法をはじめとした法律全般と政治だった。下院選挙に落選した時期のオバマ氏の気持ちはわからない。ボビー・ラッシュ下院議員も素晴らしい人物であるが、オバマ氏は魅力的だし私は好きだった。オバマ氏は議員活動と大学講師を同時に両立していたが、このことに大学当局から懸念が示されたことはない。むしろ、私たち教授陣はオバマ氏をフルタイムの教授にするように希望したが、オバマ氏が結局、政治を選んだ」
予備選で噴出したスキャンダルの「火種」は、かえってオバマの法学者としての専門家の間での評価の高さと、超党派で同僚に愛される人格者ぶりを証明した。中傷として機能しないばかりか、オバマ陣営を利する「無料広告」になった。これを候補者の驚異的な運の良さと見る向きもあろうが、オバマの人徳の勝利であったといえる。オバマを中傷して「刺そう」と思えば、いくらでも匿名のコメントで悪く言う事はできたからだ。オバマに対するシカゴ大学内での尊敬は超党派だった。学生の評価でも上位にあったことは「シカゴサンタイムズ」紙の調査で明らかになっている。オバマのロースクールのクラスは、私たち社会科学系統(ソーシャルサイエンス・ディビィジョン)の大学院生全体の間で評判だった。華型の派手な講師ではなかったが、ロースクールにおける弁護士養成の短期的な視野に限定されない、脱「ロースクール」的な深い知的魅力に対する静かな人気だった。
以上
■ 渡辺将人: 東京財団現代アメリカ研究プロジェクトメンバー、米ジョージワシントン大学客員研究員