バラク・オバマが第44代アメリカ合衆国大統領として、去る2009年1月20日に就任した。本稿では前稿に引き続き、オバマ大統領の就任演説を総括してみたい。
【オバマ演説の隠れた凄さ―新たな宗教文化の意識】
さて、就任演説の隠れた注目点はオバマのアメリカの多様性とリンクさせた新しい宗教観だった。他の注目ポイントの間に隠れて、あまり大きく話題とはならなかったが以下のくだりの意義は大きい。
「我々の継ぎ接ぎ細工の遺産は、強さであり弱さではない。我々は、キリスト教徒やイスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンズー教徒、そして、そうした神を信じない人による国家だ。我々は、あらゆる言語や文化で形作られ、地球の各地から集まってきている。For we know that our patchwork heritage is a strength, not a weakness. We are a nation of Christians and Muslims, Jews and Hindus - and non-believers. We are shaped by every language and culture, drawn from every end of this Earth」
USA TODAYのキャシー・リン・グロスマンが指摘しているように(1/20/2009)、アメリカ大統領が就任演説のような公共性の高い場で、non-believersに明示的に言及したのは、初めてのことだ。ピューリタンが建国したキリスト教中心の伝統を持つアメリカでは「市民宗教」という概念で、聖書による宣誓も神への言及も自然なものとして受け止められてきた。しかし、信心深い人々とは別に存在する世俗性の高い人々は、大統領の公的な発言の次元内では、存在するが存在していないような存在、として扱われてきたことも事実だった。
オバマのnon-believersへの言及は、世俗性も含めた上でのアメリカの宗教観の多様性を「公」に認める発言である。アフリカ系には信心深い人たちが多いこともあってか、報道ベースでは広まらなかったのだが、西海岸やマンハッタン、シカゴなどの世俗派の政治関係者の知人からの筆者への「反応」は早かった。「世俗派を認めてくれた。すべてのアメリカ人がボーンアゲイン福音派ではない。しかも就任演説で語った。この人は本当にすごい大統領だ。涙が出た。また歴史を作った」という好反応ばかりだった。
もちろん、これに付随して各宗教から「どうしてうちの宗教を入れてくれなかったのか」という疑問も当然あるだろう。仏教が入っていないことへの指摘もある。しかし、これについては二つの点を考慮すべきだろう。一つは、これは宗教人口統計学に基づく演説ではないことである。必ずしも、アメリカの宗教別人口比率に沿って均等に発言することは目的ではない。よりシンボリックなメッセージとしての意義なり力点がある。
オバマはアメリカのエスニックな多様性を「世界各地」との地続きで考えている。アメリカのエスニックな多様性の強さは、アメリカの中に「世界の縮図」を移民ルーツから地続きで持ち得ていることにある。オバマの視野はきわめて広い。そして、現代のアメリカ大統領就任演説は、アメリカ国民だけでなく世界に語る意味合いもある。冷戦期にはアメリカ大統領の言葉が自由世界を代弁した。
「オバマは世界の紛争や宗教問題も視野に入れている。ヒンズー教がここに入っている」と語るのは、自身はカトリック教徒であるワシントンの宗教シンクタンクの研究員だ。解決すべき同時代の問題の根源との隣接部分に宗教を見届け、それをアメリカの「内なる文化の多様性」と「外の世界」とのつながりとして語ってしまう。オバマのこの演説部分の深遠さは、一度聴いただけではわからない。「チベット問題その他の重大問題を考慮しても、仏教が国際的な問題の根源ではないということはできないが、宗教対立そのものが火種になっている例として考えるとやや次元が違う」とも語る。そもそもすべての宗教を列挙することができないなかで、どのような演説に仕上げるかは注目すべき点だった。「オバマは、アメリカの政治家が常にそうするように、アメリカの多様性を評価した。しかし、何か外の世界の問題にアメリカを接続させるような余韻も示唆した」と民主党議会スタッフは語る。
【「神を信じない人も」―多様性のアメリカの強さ】
第二に、non-believersをどう理解するかだ。前出シンクタンク研究員は「英語でこの文脈でいうnon-believersというのは、ユダヤ、キリスト、イスラム的な<ゴッド>を信仰しない人という意味であり、何にも信仰をまったく持たない無宗教者という意味ではない。不可知論者でもなければ、神学としての無神論者とも少し違う」と語るが、これは筆者も同感だ。従って(ユダヤ・キリスト的な)「神を信じない人」という訳が、意味的には妥当だと考える。しかし、読者にわかりやすいように「無神論者」と訳すことも、報道においては決して誤訳ではないだろう。ただ、「無宗教者」とすれば意味的には誤訳の範囲に入ってくるかもしれない。仏教徒は、ある意味では「神を信じない人」に入るからだ。「キリスト教的な神」を信仰しない宗教信仰者だ。
このように、本問題で気をつけておきたいのは、狭い意味での「神」を信じることを「宗教行為」だと分類するとすれば、仏教をそうした狭い意味での「宗教」と捉えない見方もアメリカにはあり、そのために無意識のうちに些細な誤解が相互に生まれることだ。仏教が入ってないことが「軽視」ではないことを理解するには、二段構えの解釈が求められよう。実際「ニューエイジ」の延長として、キリスト教的世界観とは違う生き様を「哲学」として求め、その一環として仏教に真摯に興味を持つアメリカ人は少なくなく(ヨガやベジタリアンのようなものに興味を持つことも広い意味では同じ系譜にある)、日本での葬儀から何から習慣に根付く仏教観とは「入り口」で異なる部分もある。
仏教が明示されなかったことの問題提起は大いに共有できるものの、キリスト教社会としての建前があるアメリカで、オバマが「神を信じない人(別の何かの信仰、哲学、無信仰を実践している人)」としてのnon-believersに、就任演説という最も公式の場で明示的に言及したことはきわめて画期的であり、筆者はむしろここに注目することで、オバマ演説を大いに評価したい。アメリカの政治と宗教において興味深い、そしてオバマのような多様性そのものを体現する大統領にこそ可能だった一里塚といえる。
【国民に責任と犠牲を求める「共同作業」精神の構築】
就任演説の全体を特徴付けたのは、国民の責任や犠牲の強調である。「政府にはやれること、やらなければならないことをやるが、結局はアメリカがよって立つところは国民の信念と決意だ。For as much as government can do and must do, it is ultimately the faith and determination of the American people upon which this nation relies.」という呼びかけに、大歓声が起こった。
オバマはこれを「新しい責任の時代 A new era of responsibility」と呼び、アメリカを再建するのは指導者だけの力ではなく、国民一人一人の自覚と協力であることを訴えた。「これが市民の代償であり約束なのだ。This is the price and the promise of citizenship.」というくだりの、citizenshipがキーワードだった。
アメリカは未曾有の国難にある。リーマン・ブラザーズが破綻し、デトロイトの自動車産業「ビッグ・スリー」が救済を求め、アメリカ経済の威信が大きく傷ついた。前政権が残した二つの戦争がイラクとアフガニスタンで進行中だ。どんな大統領が就任しようとも、魔法使いではない。一朝一夕の解決は不可能だ。一歩一歩できることをやっていくというなかで、むしろこの国難期にアメリカ人が求めたのは、苦しい生活に見舞われる時期だからこそ、堪え難き堪える勇気と元気を与えてくれる、「精神的リーダー」だったといえる。
投げ出したくなる程苦しいときに大切なのは「一緒にこの苦しいときを乗り越えよう、もう少し一緒に堪えよう」と励ましの力を与えてくる、共感性ある精神救済の意味での救世主である。不況や紛争をテクニカルに手品のように一夜で解決してくれる、全知全能の天才を求めて大統領を選んでいるわけではない。それはオバマ流にいえば、国民の協力あってこそ、となるだろう。
だからこそ、目先の成果ではなく本質的成果に、粘り強い協力を求める「現実」演説をした。それには「第三者の目」もより必要だったし、キャンペーンの勢いによるChange演説とは違うものが求められた。この苦しい時期をなんとか精神的に統合して、国民が弱音を吐かないように引っ張って欲しいという、ある種の「社会的戦時大統領」の勇ましさがオバマに付与されたかに感じられた。
【美辞麗句よりシンプルさ】
演説に派手なレトリックや、詩的な美辞麗句を求めた向きには、物足りないという意見もあったかもしれない。また、ChangeやHopeを多用した勢い溢れる「キャンペーン演説」を期待したオバマのファンもいただろう。しかし、アメリカの政治批評家の多くは面白い判定を下した。要すれば、ニューヨーク・タイムズのディビッド・ブルックスの言葉を借りれば、グレートスピーチではないが、聴衆との共鳴の勝利という判定である。演説の評価においても、演説の美しさ云々とは違う、旧来の基準を一部超越する判定がオバマ評価には求められている。
演説の虚飾を排した、ストレートな物言いは、オバマが意図したところだ。まさにアクション(行動の時)のスピーチだった。ニューヨーク選出上院議員のチャック・シューマーは言う。「いくらでも美辞麗句で飾り付けられた。しかし、普通の人に平易なコトバで語ることを選んだ。これが彼の強さ。」(Charlie Rose, 1/21/2009)
シューマーが言うように、誰もがオバマなら、いくらでもカッコいい含蓄ある演説にできたし、できる能力があると知っている。しかし、オバマとスピーチライターはあえてシンプルさとわかりやすさを選んだのである。センテンスは短く、リズミカルに。Our challenges may be new. The instruments with which we meet them may be new.など思わず、口ずさみたくなる、シンプルなリズム感だ。かつて若き日のクリントンの演説を支えた、ジョージ・ステファノポロスは、オバマの就任演説を「率直でインスパアされる言い回しcandid and inspiring」と絶賛した。
「オバマ大統領が落ち着きのあるシリアスなトーンを見せたのは、オバマ氏のことを単なるカリスマ性のあるパフォーマーだとするステレオタイプを払拭する意味もあったと考えられる。オバマ大統領にはまだ8年も雄弁になる時間はある」(シカゴ大学カミングス歴史学部長)という指摘もあるように、そもそもオバマをスピーチ話術の達人だという持ち上げ方をするのは、ある意味では失礼なステレオタイプとの見方もある。今回、表面的な雄弁さをむしろ徹底排除したことによって、オバマ演説の本質的魅力は、現在進行形「進化」を今回の演説で遂げたといえる。
ところで、大統領史家のドリス・カーンズ・グッドウィンは、「人々が<シチズン>になったときにこそ、国が動く。その意味でアメリカは今、移行的な重要な局面にある」として、オバマの演説が国民の責任を鼓舞して、甘やかさなかったことを高く評価した。また、グッドウィンは「ニューハンプシャーでのヒラリーとの激戦がオバマに変化を与え、オバマをいっそう成長させた」と見るが、これは筆者も同感だ。オバマはキャンペーンの過程でどんどん成長した。
ボランティアの育成や地方支部の地上戦部隊が本選でスムーズに機能したのも、皮肉にもヒラリーとの接戦が最後までもつれこんだからでもある。早々に勝敗が決まっていれば、全州レベルで本選に向けた「予行演習」としての地上戦は行われなかった。演説に強いオバマは、ヒラリーとの激戦のなかで、次第に討論にも強さを見せていく。候補者レベルと、キャンペーンの組織レベルの双方でヒラリーとの激戦によって育ち、鍛えられた運動でもあった。その意味で、就任式を介してのヒラリーとオバマの支援者層での和解には「ヒラリーとの相互作用」としてオバマ運動がより強くなっていく共存関係も浮き彫りにされる。
【名言勝負より大切な「舞台装置」】
そもそもアメリカの政治家の演説は、名言、デリバリーの技巧、詩的な朗読会だけで評価されるものではない。オバマはアメリカの政治を具体的に動かしていくために、その国民的、超党派的、国際的支持を得るために、演説をどのような「舞台装置」に据えれば説得的かを、トータルデザインで考える才がある。そこまで見据える力がオバマのチームにはあった。オバマはただのスピーチの達人ではなく、どのような共有空間や文脈に演説を位置づけることで、最も政治を大きく動かせるかを知る達人である。
デンバーの党大会での異例の屋外での指名受諾と花火のフィナーレ、かつての党大会暴動の傷を癒す意味でのリンカンのイリノイ州シカゴでの勝利演説、リンカンにならった鉄道でのワシントン入り、ボランティアと草の根の若者を迎え入れたワシントンの舞踏会、ゴスペルのリズム感が絶妙のアフリカ系のソウル歌手アリーサ・フランクリンの宣誓式への歌唱起用。「200万人」の聴衆との共鳴。演説の中身以外のところから、全体像を見てみるとオバマ演説の「空間性」が立体的に見えてこよう。
オバマの宣誓式を見守った周囲にも「チェンジ」の象徴性は「多様性」として表れていた。初のモルモン教の上院多数党院内総務(ハリー・リード)、初の女性下院議長にしてイタリア系(ナンシー・ペローシ)、初のカトリック教徒副大統領(ジョセフ・バイデン)、初の女性の大統領就任式委員長で総合司会(ダイアン・ファインスタイン:初のカリフォルニア州選出女性上院議員、初の女性サンフランシスコ市長にしてユダヤ系でもある)。
【アメリカ再建を目指す「責任」への招待】
オバマの「演説をとりまく舞台装置」の妙は、演説原稿そのものだけではない。大きな「物語」に巻き込んで、その「物語」の主人公として国民を扱い鼓舞していくやり方は、オバマのきわめて特徴的な強さであり、今後の政権運営を見て行く上でも大いに参考になる。その視点に立ち返れば、今回の就任演説はもとより、演説をとりまく「就任式と就任式をめぐる出来事」の深遠さは明らかだろう。オバマは「アメリカ再建」の物語に国民を招き入れ、「責任」を感じてもらうことを目的としていた。
このオバマの「堅実」な訴え方には、保守メディアも口をつぐむほどだった。FOX Newsのビル・オーレイリーは「正当派の大統領を目指しているということがわかった」として敬意を示し、保守ラジオのジョン・ギブソンは、攻撃材料が見つからずに、コールインで一般リスナーに非難点をみつけさせようとしたが、「演説にはケチのつけようがない。インスパイアされた」という共和党リスナーが続出。たまに批判があれば「どうしてムスリムのような人に理解を示すのか」というギブソンも拒絶感を示す程の陳腐な感情論ばかりで建設的批判にならなかった。
ラーム・エマニュエル首席補佐官は「経験のある重量級が政権に集まったことが重要。大統領と政権のユニークさを示している」として、100日を決する試金石について「一つだけのテストがあるわけではない。中東問題もあるし、世界はアメリカの指導力を求めている。大統領は方向性は明確」(Charlie Rose, 1/16/2009)として、メディアが注目する旧来の「100日」採点で、一部の問題だけで新政権を評価すること自体への見直しも呼びかけている。ちなみにエマニュエル補佐官は、式典後の昼食会でマケイン夫妻と同席し、和解ムードにも率先して役割を果たしている。
オバマ夫妻は伝統に従って舞踏会をできるだけ梯子した。ミッドアトランティック舞踏会では、夜11時20分ごろにようやく夫妻が登場。冒頭「きょうこのときから、みなさん各自がチェンジしてください」と、呼びかけた。世界が変わっているのだから、私たちも変わらなければならない、そんなフレーズが常に就任式に訪れたすべての参加者、そして全米のアメリカの国民の脳裏に浸透したとすれば成功だろう。祝勝ムードの中にも一定の緊張感が漂う、現在のアメリカの状況をそのまま象徴する意味でも、きわめて秀逸な、そして初のアフリカ系大統領誕生の歴史的大統領就任式であった。現実のオバマ政権運営とその評価はまさにこれからであるが、この就任の歴史的意義そのものはとてつもなく大きい。
以上
■ 渡辺将人: 東京財団現代アメリカ研究プロジェクトメンバー、米ジョージワシントン大学客員研究員