R-2021-089
※本稿は、2022年3月9日に開催されたウェビナー「歴史から考えるポピュリズム―戦間期ヨーロッパの経験から」で報告した内容の一部である。
・ファシズムとポピュリズムの関係 ・オーストリア・ファシズムとは ・ファシズム前夜の政治状況 ・右派ポピュリズム:ナチス ・左派ポピュリズム:社会民主党 ・独裁のはじまり ・オーストリア・ファシズムの国制 ・合邦と民意の行方 |
ファシズムとポピュリズムの関係
世界情勢が混沌とするなか、現代世界と自由民主主義の危機の時代であった戦間期を比較する議論が盛んにおこなわれている。各地で躍進を遂げるポピュリズムを戦間期のファシズムと関連づけて論じる研究書や論稿もいくつか著されている。なかでもファシズム研究者のロバート・パクストンが2021年1月6日の米連邦議会議事堂襲撃事件を受けて、ドナルド・トランプ前米大統領をファシストと批判したことは話題を集めた。また『ポピュリズムとは何か』の著者ヤン=ヴェルナー・ミュラーは「ナチズムとイタリア・ファシズムはポピュリスト運動として理解できる」と述べ、むしろファシズムを戦間期のポピュリズムの一種として論じる可能性を示唆する。もちろん、すべてのポピュリズムがファシズムに分類されるわけではないが、ポピュリズムが一定の限界を超えるとファシズム化しうること、またファシズムにはポピュリズム的な要素が混在していることは明らかといえよう。
それでは1930年代のオーストリア・ファシズムには、ナチズムやイタリア・ファシズムのような「ポピュリズム」的要素を見て取ることはできるのだろうか。本稿では、オーストリア・ファシズムの政治思想を研究している立場から、この点を主題に論じる。結論を先取りすれば――タイトルで「非ポピュリズム的」と示したように――オーストリア・ファシズム体制はポピュリズム的というよりも、むしろポピュリズムに「対抗」する形で成立したといえるのである。
オーストリア・ファシズムとは
まず1930年代のオーストリアの政治状況を確認しておこう。オーストリア・ファシズムとは一般にエンゲルベルト・ドルフス政権(1932-34年)と、ドルフスがナチスに暗殺されたあとを引き継いだクルト・フォン・シュシュニク政権(1934-38年)を指す。
ドルフスは1933年3月に議会を閉鎖し、政府命令による統治を開始する。そして1934年4月末に共和国憲法を新憲法(1934年憲法)へと「改正」し、普通選挙を廃した独特の「シュテンデ国家」を建設していく。シュテンデとはローマ教皇の回勅に基づくカトリック的な理念で、職能的中間団体を重視するものであった。この国家は1938年3月にナチス・ドイツによって合邦されるまで存続した。
ファシズム前夜の政治状況
戦間期のオーストリアでは、基本的にキリスト教社会党と社会民主党の二大政党が強力で、どの選挙でも両党で70%以上の得票率を占めていた。1932年5月にドルフス政権が成立した段階では、与党がキリスト教社会党(66)、農村同盟(9)、護国団(8)であり、野党が社会民主党(72)、大ドイツ党(10)、そしてナチス(0)だった(カッコ内の数字は国民議会の議席数。1930年総選挙に基づく)。
1932年当時、数のうえでの議会の第一党は社会民主党であり、ドルフスのキリスト教社会党は農村同盟、護国団と連立を組むことによりわずか1票差で与党の地位にある状況だった。このきわめて不安定な政治状況を打破するために、ドルフスは独裁政治へと舵を切っていくことになる。
ポピュリズムの定義の一つにしばしば「反エリート主義」が挙げられる。しかし、オーストリアの場合はエリートの側にある既存の与党がファシズム化したのであり、在野の運動が政権を獲得したイタリアやドイツとは大きく異なる。そしてポピュリズムという観点から1930年代のオーストリアを検討するならば、その担い手は与党の側よりもむしろ野党の側に見ることができる。しかもそこにはナチスによる「右派ポピュリズム」的主張と、社会民主党による「左派ポピュリズム」的主張が存在した。
右派ポピュリズム:ナチス
ナチスのイデオロギーは民族的なナショナリズムであり、ポピュリズムの想定する「単一の人民」とは民族(Volk)を指す。ナチスは「一つの民族・一つのライヒ(国家)・一人のフューラー(指導者)」をスローガンに、ドイツとオーストリアの合邦を主張した。また二大政党が有力な国民議会を「組合幹部と聖職者」の支配と呼び、キリスト教社会党と社会民主党を並べて旧エリートとして批判した。
ドイツにおいて、ナチスは1932年の総選挙で第一党になり、1933年1月にアドルフ・ヒトラーが首相に就任したわけだが、同じようにオーストリアでもナチスは選挙を通じ勢力を広げていった。1932年4月の地方選挙では(当時国民議会では議席を持っていなかったものの)ウィーン市議会、ザルツブルク市議会、ニーダーエスタライヒ州議会などで第3党の地位を固め、1933年4月のインスブルック市議選では改選議席で第1党になっている。極右的なポピュリズムが選挙を通じて勢力を拡大するという、現代においてもよく問題になる現象がオーストリアではこの段階で生じていた。
当時のナチス系議員の演説などを読むと、彼らはドイツにおけるヒトラーの独裁が「民意に基づく」ものであるのに対し、オーストリアにおけるドルフスの独裁は「民意を避けた」ものであると主張している。ドイツでの政権獲得の勢いに乗り選挙に勝利する自信があるので、ナチスは政府に対しひたすら解散総選挙を求めていった。
左派ポピュリズム:社会民主党
社会民主党は当時のオーストリア議会において数のうえでは第一党であり、オットー・バウアーやカール・レンナーなどの有力な指導者を抱え、一大勢力を誇っていた。同党が想定する人民とは当然労働者階級を意味し、またナチス政権の成立までは一貫してドイツとの合邦を主張していたので、それは全ドイツの労働者階級を指していた。同党はドルフス政権をナチスの「褐色のファシズム」と区別して「教権ファシズム」と呼び、それが特権エリートである「聖職者と貴族」の独裁に過ぎないと批判を加えた。
社会民主党の政府批判を左派ポピュリズムと関連づけて論じるうえで重要なのが、1932年の国際連盟からの借款(ローザンヌ借款)問題である。世界恐慌後、経済状況が極端に悪化したオーストリアはローザンヌ借款を受け入れることになるのだが、社会民主党はその批准に強く反対した。借款の条件に通貨の安定・国家予算の均衡・財政改革などが含まれていたため、それが財政的な主権の制約や社会保障費の削減につながると考えたからである。
この点について、オーストリアの研究者ヴァレンティン・シュヴァルツによる興味深い論稿「オーストリアがギリシャだったとき」がある。彼は2009年以降のギリシャ経済危機を1930年代のオーストリアと重ね合わせて論じている。ギリシャ経済危機のときには、ギリシャ政府はいわゆるトロイカ(欧州連合・欧州中央銀行・国際通貨基金)からの財政支援の条件として厳しい緊縮財政を求められ、それに反発する形で左派ポピュリズムが広がりアレクシス・ツィプラス政権の誕生につながった。シュヴァルツは現代ギリシャにおける緊縮財政批判と1930年代のオーストリアにおける借款批判の類似性を指摘する。実際、この借款はオーストリア国民の間でも不人気であり、社会民主党は来るべき総選挙での勝利を予想して政府に解散を求めた。
独裁のはじまり
右派・左派両陣営から鋭く批判され解散総選挙を迫られるなか、ドルフスは「解散」カードを切ることはできなかった。ドイツ・ナショナリズムの広がりと借款への反発により、選挙が実施されればキリスト教社会党の敗北は必至な情勢だったからである。そこでドルフスは1933年3月に議会の混乱に乗じる形で議会を閉鎖し、独裁政治を始めていくことになる。
このようにオーストリア・ファシズムは、ポピュリズム的に民意に乗じて成立したのではなく、民意に「対抗する」形で成立したといえる。1934年憲法の制定も「憲法改正」の形をとったので、本来なら憲法の規定上国民投票が必要だったが、ドルフスはこれも回避している。
オーストリア・ファシズムの国制
それではドルフスは、ナチスや社会民主党とは異なる、どのような国家のありかたを提示したのだろうか。新憲法の前文において、新たな国制は「シュテンデ原理に基づく、キリスト教的・ドイツ的連邦国家」と位置付けられ、「シュテンデ」がその中心的に据えられた。
オーストリア・ファシズムにおいては、普通選挙に基づく国民議会は廃止され、4つの予備協議機関と1つの議決機関に再編された。各予備協議機関で法案を議論したのちに、議決機関で採決する形である。予備協議機関のうち、国家評議会は大統領による指名制で、州評議会は州政府の代表が議員だったので、「シュテンデ」的と呼べるのは業種別の職能シュテンデ団体の代表からなる連邦経済評議会と、宗教・教育・学術など各種文化団体の代表からなる連邦文化評議会だった。つまりオーストリア・ファシズムは、ポピュリズム的な単一の人民に基づく支配というよりは、各種中間団体の利害関係者を通じて国民意志を把握する体制だったのである。
また1934年憲法では、大統領選挙も国民による直接選挙制ではなく、地方自治体の長による間接選挙制をとった。この仕組みもいわば大統領選挙がポピュリズム化しないために設けられたもので、その起草に当たっては当時オーストリアに滞在していた元ドイツ首相のヨーゼフ・ヴィルトのアドバイスも影響を与えたといわれている。ドイツではヒトラーが1932年の大統領選挙に立候補し支持を広げたが、こうしたいわばヴァイマル共和国の失敗を教訓にした規定だったのである。
合邦と民意の行方
このようにオーストリア・ファシズムは直接的な民意の発出を好まない、非ポピュリズム的な国制だった。皮肉なことに、その唯一の例外はシュシュニクが1938年3月に――ナチス・ドイツによる合邦の危機のもとで――企図したオーストリア独立維持を問う国民投票であった。これはヒトラーの逆鱗に触れ、逆にドイツの武力侵攻を招く。そして翌4月に今度はナチス・ドイツの占領下でドイツとの合邦の是非を問う国民投票が行われ、圧倒的多数の支持で合邦は承認され、オーストリア独自のファシズム政権は姿を消すことになるのである。