理事長
星 岳雄
トランプ米政権の発足から2カ月が過ぎた。経済政策に関して一つ明確になったのは国際経済政策だろう。環太平洋経済連携協定(TPP)など多国間での国際経済活動に関する包括的なルールを構築するために指導的な役割を果たそうとする政策から、2国間で米国が有利になるような国際経済交渉を戦略的に進める政策へと移行した。
保護貿易政策の一つとして取り上げられるのが国境調整税だ。もともと共和党が推していた政策で、トランプ大統領自身は複雑すぎるとして当初難色を示していたが、最近ではホワイトハウスも支持し始めたようだ。輸入品に課税する一方、輸出品は課税対象にならないので、輸出を促進し、輸入を抑える重商主義的な政策とされる。もし米国がそうした政策をとるなら、他国もそれに対抗して保護貿易的な政策をとり、世界貿易は収縮のスパイラルに陥ってしまう。これは由々しきことだ。
筆者もそう考えていたが、国境調整税の中身を検討すると、本質は貿易政策ではなく、根本的な税制改革の一部であり、その観点からとらえる必要があることが分かる。本稿では国境調整税の仕組みを簡単な例を使いながら考える。東京財団の 税・社会保障調査会 の森信茂樹・中央大教授、田近栄治・成城大特任教授、佐藤主光・一橋大教授による一連の論考が契機となった。
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そもそも国境調整税は正確には「仕向け地主義キャッシュフロー課税」の一部だ。名前の通り、こうした課税の仕方には2つの特徴がある。
一つは「仕向け地主義」だ。財が消費される場所(国)で課税対象が決まることで、生産の場所で課税対象が決まる「源泉地主義」と区別される。日本の消費税も含めて付加価値税は仕向け地主義の税制の分かりやすい一例だ。実際、付加価値税に関しては国境調整が行われている。輸出は課税されず、輸入は課税される。そうした仕向け地主義を法人税に適用しようとするのが現在の米国での議論だ。
もう一つは「キャッシュフロー課税」だ。実際に手元に入る売り上げから実際に支払われた費用を引いたキャッシュフローに課税する。例えば現在の法人税では設備投資の際に、その減耗分だけを何年かにわたり控除するが、キャッシュフロー課税では投資した年に投資額をすべて控除できるようになる。これは投資を促進する効果を持つが、本稿では仕向け地主義の国境調整の方に議論を集中する。
国境調整の意味を理解するため、次のような3段階の生産過程を垂直に統合した企業の例を考える。法人税率は20%で、最終消費財はすべて国内で消費されると仮定する。
①材料部門は労働を投入して500万ドルの価値の原材料を作り出す。300万ドルを労働者に支払い、200万ドルの利益が生まれる。
②中間財部門は原材料を500万ドルで仕入れて加工し、800万ドルの中間財を生産する。180万ドルを労働者に払い、利益は120万ドルだ。
③消費財部門は中間財を800万ドルで仕入れて加工し生産物を消費者に1千万ドルで売る。100万ドルを労働者に払い、利益は100万ドルになる。
この例を使って、国境調整を含まない米国の現行税制では企業が生産過程の一部を法人税率の低い外国に移転するインセンティブ(誘因)があることを示せる。
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まず3つの生産過程すべてが国内で行われる場合には、法人税率は20%なので、企業全体の税引き後利益は(200万+120万+100万)×0・8=336万ドルになる。
企業が中間財部門を海外に移転すれば、原材料部門は原材料を海外法人の中間財部門に輸出し、消費財部門は中間財を海外法人から輸入する。これを示したのが表の最初の4列で、4列目が各部門の税引き前の利益だ。法人税率が海外の方が安ければ、企業は海外に移転するインセンティブを持つ。例えば海外の法人税率が10%なら、中間財生産を海外に移すことで企業全体の税引き後利益は(200万+100万)×0・8+120万×0・9=348万ドルに増える。
表 国境調整の影響
つまり現在の米国の法人税は多国籍企業に、法人税率の低い国に生産を移すインセンティブを与えているという意味でゆがみがあるといえる。
国境調整を導入すると、このゆがみを是正できる。表の最後の列は国境調整の値を示す。原材料部門はすべてを輸出するので国境調整はマイナス500万ドルに、消費財部門の仕入れは輸入なので国境調整は800万ドルになる。この国境調整に税率20%をかけたものが国境調整額(以下の数式の第2項)になる。中間財生産の海外移転時の税引き後利益は(200万+100万)×0・8―(800万―500万)×0・2+120万×0・9=288万ドルで、国内にとどまる場合を下回る。
国境調整が多国籍企業の海外移転を防ぐという結論は、海外移転の魅力の根元に左右されない。法人税率の低さを利用する海外移転も、賃金の安さを利用する海外移転も、国境調整があれば起きない。
例えば中間財生産で、国内生産ならば180万ドル分の労働が必要だが、海外生産ならば労働投入が130万ドルで済む場合を考える。ここでは簡単化のために、すべて中間財部門の利益を押し上げると仮定する。中間財部門の利益は表の場合よりも50万ドル増えて170万ドルになる。
国境調整がない場合、海外の法人税率が国内と一緒だったとしても、生産費が低い地域に中間財生産を移すことで全体の利益を増やせるので、企業は海外移転を決める。
しかし国境調整があると、税引き後の利益は(200万+100万)×0・8―(800万―500万)×0・2+170万×0・8=316万ドルにしかならない。国内にとどまる場合の税引き後利益(336万ドル)より低くなるので、企業は海外移転しない。
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こうした一見効率的にみえる海外移転も妨げられてしまうのは、海外の法人税の制度が源泉地主義をとっているからだ。もし海外の法人税も仕向け地主義に変更され国境調整が行われるなら、中間財部門の売上高はすべて輸出で、仕入れはすべて輸入なので、その税引き後所得は170万×0・8―(500万―800万)×0・2=196万ドルとなり、企業全体の税引き後所得は376万ドルになる。
つまり法人税を仕向け地主義に変えると、海外の政府にもまた仕向け地主義に変更するインセンティブが生じる。米国で法人税の仕向け地主義への変更を主張する論者は、他国が付加価値税を課して国境調整を行っているのに、米国の法人税には国境調整がないので、米国が国際競争上不利になっていると指摘する。
国境調整税の本質は貿易政策ではない。源泉地主義課税から仕向け地主義課税への移行という世界的な流れの中で、米国の国際競争力を保とうとする税制改革の一部だ。
医療保険制度改革法(オバマケア)代替法案を撤回せざるを得なかったことに象徴されるように、トランプ政権の政策実行能力は大いに疑問視される。国境調整が導入されるか否かも確かではない。しかし仕向け地主義への世界的な方向性が変わらない限り、国境調整などの法人税の改革は繰り返し議題にのぼるだろう。日本には消費税という仕向け地主義の税が既に存在するが、法人税の国境調整はない。米国が国境調整を導入するとき、日本の税制度は現状のままでよいのか、今のうちに見直しておくべきだろう。
(2017年3月30日付『日本経済新聞』「経済教室」より転載)
◆英語版はこちら "What a Border Adjustment Tax Will and Will Not Do"