瀬戸際での妥協による債務不履行回避にもかかわらず、米大手格付け会社のS&P(スタンダード・アンド・プアーズ)による長期国債の格下げなど、米国の財政問題が引き続き大きな論点になっている。秋からは今回の妥協に基づいた財政再建策の編成作業が控えており、しばらくは財政問題をめぐる動きから目が離せなさそうだ。
そこで本稿では、今後の米国財政に関する議論を読み解く道具を提供するために、米国財政の分析に欠かせない「ベースライン」という概念を、最近のトピックを使いながら二回に分けて紹介していきたい。第一回の今回は、まずベースラインの基本的な概念を紹介した上で、その軽視が招いた混乱の事例として米国債の格下げ問題を取り上げる。
ベースラインとは何か
米国の財政政策の大きさは、多くの場合にベースラインとの対比で表現される。米国財政の世界でいうベースラインとは、これからの財政を分析する際に基準となる財政の見通しを指す。大雑把な言い方をすれば、「新たな政策が講じられないという前提で予測される財政の水準」がベースラインである。
財政赤字の削減策を例に説明しよう。
米国で「来年度の財政赤字を1,000億ドル削減する」といった場合、必ずしも「来年度の財政赤字を今年度よりも1,000億ドル少なくする」ことを意味するわけではない。「来年度の財政赤字を新たな政策が講じられなかったとした場合の予測値(ベースライン)よりも1,000億ドル少なくする」というのが正しい理解である。仮に今年度の財政赤字が1,000億ドル、来年度の見通し(ベースライン)が3,000億ドルならば、来年度の赤字をゼロ(1,000億ドル-1,000億ドル)にするのではなく、2,000億ドル(3,000億ドル-1,000億ドル)にしようというわけだ。結果的に来年度の財政赤字は今年度よりも増えるが、それでも米国では「1,000億ドルの財政赤字削減策が実施された」と表現される。もちろん、来年度の財政赤字のベースラインが1,000億ドルであれば、「今年度の財政赤字よりも1,000億ドル減らす」のと同じ結果になるが、これは偶然の一致に過ぎない。
「リンゴとリンゴ」の比較
ベースラインの理解が重要なのは、この点についての見解が一致していないと、政策が財政に与える影響(たとえば財政赤字削減策の規模)についての見解にも、ズレが生じてしまうからである。良く聞かれる言い回しを使えば、米国財政の世界では「リンゴとリンゴを比べる(apple to apple)」のが鉄則だ。ベースラインの違いを無視して「リンゴとオレンジ」を比べるようでは、議論の混乱を招きかねない。
たとえばここで、バラク・オバマ政権と議会共和党が「財政赤字を4兆ドル削減する」と謳ったとしよう。両者の結果として残る財政赤字の規模は同じだろうか?
正解は「この情報だけではわからない」である。双方が主張する削減額の規模は、あくまでもベースラインとの対比だ。これだけでは「それぞれが予測する財政赤字(ベースライン)から4兆ドル削減する案」であるということしかわからない。仮にオバマ政権が予測する財政赤字のベースラインが共和党よりも10兆ドル大きければ、削減策実施後の財政赤字の規模もオバマ政権案の方が10兆ドル大きくなる。
ベースラインは様々な理由で変わる。税収見通しなどの前提となる経済見通しをどう設定するのか。「新たな政策を講じなかった場合」とは具体的にどのような状況を意味するのか。さらにいえば、向こう何年分の見通しを基本にベースラインを論ずるのか。こうした要素をきちんと整理することが、ベースラインの理解につながる。
米軍撤退は「赤字削減策」か?
財政赤字削減策の規模を測る際にも、ベースラインの理解は欠かせない。片方が「削減策の効果」として計上している政策の影響を、他方が「ベースライン」に織り込んでいる場合が考えられるからである。
具体的な例で説明しよう。
債務上限の引上げを巡る交渉が大詰めを迎えていた今年7月、上院民主党のハリー・リード院内総務が財政赤字削減案を提案した。ここで問題となったのが、イラク・アフガニスタンにおける戦費の扱いだ。リード院内総務は、米軍撤退による戦費の減少を「削減案の効果」に計上していた。これに対して共和党は、「撤退はオバマ政権の既定路線であり、その効果を新たな赤字削減策とみるのはおかしい」と反発した。戦費は「新たな政策を講じなくても減少する」ものであり、「ベースラインに組み込むべきだ」というわけである。
リード院内総務の立場からは、戦費の減少を財政赤字削減案からベースラインに移してしまえば、それだけ削減策の規模は小さくなる。
数字を使って説明しよう。
仮に今年度の米国の戦費が1,500億ドルであるとする。「戦況に左右される戦費は事前に予測できない」との理由で、来年度の予測(ベースライン)をとりあえず同額の1,500億ドルと置いたとしよう。米軍の撤退によって来年度の戦費が500億ドルになりそうな場合、米軍撤退を赤字削減策とみれば、これは「1,000億ドルの削減策」と形容できる。しかし、撤退方針を既定路線と考えるのであれば、そもそも来年度の戦費の予測(ベースライン)が500億ドルとなるべきであり、赤字削減効果は生じない。いずれにしても戦費自体の水準は変わらない(500億ドル)のに、その変化をベースラインに入れるかどうかで、赤字削減策の規模が変わってしまうわけだ。
ベースラインの捉え方は、時に無視できない違いを生む。米国では「10年間で4兆ドル」が望ましい財政赤字削減策の目安となってきた。CRFB(Committee for a Responsible Federal Budget)によれば、米軍の撤退が進まなかった場合と比較すると、撤退による向こう10年間の戦費削減額は1兆ドルを超える。結果的に最終的な妥協では、戦費の減少は財政赤字削減策の効果として計上されなかった。
米国債の格下げとベースライン
ベースラインへの配慮の欠如が混乱を招いた好例が、今般のS&Pによる米国債の格下げである。当初S&Pは、今回の妥協にもかかわらず米国の財政状況が悪い点を、格下げを決める大きな根拠に挙げていた。ところが格下げの事前通知を受けた財務省が異論を挟んだために、同社は誤りを認めてベースラインとなる財政赤字の見通しを引き下げた上で、格下げの正式発表に踏み切っている。
これに財務省が噛み付いた。正式発表に先立つS&Pの見通し修正では、向こう10年間の財政赤字の見通し(ベースライン)が2兆ドル引き下げられている。これは、今回の妥協による赤字削減額(最低でも2.1兆ドル)とほぼ同じ規模に相当する。この結果、そもそも格下げを決断した修正前の同社のベースラインと比べると、削減策実施後の財政赤字は4兆ドル小さくなった。偶然ではあるが、この4兆ドルという規模は、望ましい財政赤字削減策の目安とも一致する。
既に述べたように、S&Pがそもそも格下げの大きな根拠としていたのは、財政事情の悪さである。しかし、こうしたベースラインの修正は、同社が財政赤字の水準を(間違って)大きくみていた可能性を示唆する。これだけ当初の見通しよりも財政赤字が小さくなったにもかかわらず、なぜ同社は格下げを断行したのか。言い換えれば、今回の格下げは「財政赤字の大きさがどうであれ格下げに踏み切る」という「結論先にありき」の判断だったのではないか、というのが財務省の反論である。
いうまでもなく、当初からベースラインとなる財政見通しの水準がきちんと理解されていれば、こうした混乱は避けられたはずである。S&Pが「リンゴとオレンジの違い」にギリギリまで気を配らなかったことが、財務省の厳しい反発を招いた格好だ *1 。
「10年間で4兆ドル」とされる望ましい財政赤字削減策の規模も、基準となるベースラインを明確にしなければ、その実体はあやふやなままである。当然のことながら、これから本格化する財政赤字削減策の編成でも、ベースラインの理解は重要な意味合いを持つ。こうした点については、次回の拙稿で触れていきたい。
補論
ところで、S&Pによる2兆ドルの修正には、単なるベースラインの選択を超えた論点がある。
S&Pの説明は、「赤字削減策の効果を見込んだ裁量的経費の水準を計算する際に(財務省などと)異なったベースラインを使った結果、修正前の見通しでは10年間の歳出額が2兆ドル大きくなっていた」というものだ。
しかし実際には、S&Pが今回の財政赤字削減策の仕組みを理解していれば、ベースラインの選択がどうであれ、裁量的経費の見通しが変わってしまうはずはなかった。今回の妥協に基づく財政赤字削減策を定めた2011年財政管理法では、向こう10年間の裁量的経費に上限を設けている。法律がベースラインからの削減額を定めているわけではない以上、削減策が実施された後の歳出の水準を測るに当たって、ベースラインの選択は何ら影響を与えない。ベースラインの選択にかかわらず、向こう10年間の裁量的経費の水準は自ずと決まってくるからだ。
数字を使いながら説明しよう。
財政管理法が向こう10年間の裁量的経費の上限を12兆ドルに定めていたとする。この場合、ベースラインが13兆ドルであろうと15兆ドルであろうと、結果としての裁量的経費の水準は12兆ドルにしかならない。変わるのは、ベースラインと削減策実施後の水準との差である赤字削減策の規模(前者であれば1兆ドル、後者ならば3兆ドル)だけである。
議会予算局(CBO)は、こうした法律の仕組みに則って、2011年財政管理法が定めた削減策の規模を算出している。具体的には、まず裁量的経費のベースラインを決め(13兆ドル)、これと法律が定めた歳出上限(12兆ドル)の差を削減効果(1兆ドル)としたわけだ。
ところがS&Pは、ベースラインの変更に伴って削減策実施後の財政赤字額を見直した。どうやら同社は、法律が定めた裁量的経費の上限を使わずに、上記の計算でCBOが試算した歳出削減効果(1兆ドル)をもとに、これをCBOが使ったのとは違うベースライン(15兆ドル)から差し引いて、削減策実施後の裁量的経費の水準(14兆ドル)を求めていた節がある *2 。既に述べたように、そもそものCBOの計算では削減策実施後の裁量的経費の水準は固定されており、ベースラインが2兆ドル増えれば自動的に歳出削減効果が2兆ドル増える。その仕組みがわかっていなかったのか、修正前にS&Pが試算していた削減策実施後の裁量的経費の水準(14兆ドル)は、法律が定めた上限(12兆ドル)を上回ってしまっていた模様である。これは法律の仕組みからいって有り得ない結果といわざるを得ない。
本論で指摘したように、ベースラインを揃えていさえすれば、こうした混乱は避けられた。しかし「リンゴとリンゴ」を比べる前に、そもそもの法律の仕組みを理解することこそが財政論議を読み解く第一歩であるという事実も、今回の格下げ騒動から得られる教訓といえそうだ。
*1 :今回の格下げ判断においてS&Pは、ベースライン算出(修正前)の段階で歳入見通しを大幅に下げている。これは、ベースラインを算出する前提を「2012年末に期限切れとなるブッシュ減税が全面的に延長される」と変更したからである。このため、修正によって裁量的経費を下方修正した後でも、S&Pが予測する財政赤字の水準(ベースライン)は格下げ判断前よりも高くなっている(すなわち、赤字削減策実施後の赤字の水準も以前の前提で計算した場合より高くなっており、格下げ判断を支援する材料になる)可能性がある。
*2 :または、違う裁量的経費のベースライン(15兆ドル)を前提とした財政赤字のベースラインから削減効果(1兆ドル)を差し引いて、削減策実施後の財政赤字額を用いていた可能性がある。
■安井明彦:東京財団「現代アメリカ」プロジェクト・メンバー、みずほ総合研究所ニューヨーク事務所長