「8年の遅延」と国務長官任務に邁進した「禊」?
ヒラリーとその熱心な支持者にとって、2008年の大統領選は最大のトラウマである。成功し続けてきたヒラリーのキャリアでも、数少ない明示的な「敗北」であった(ホワイトハウスでの医療保険改革の頓挫など以外では)。オバマとの指名争いでの敗北を方向付けたのは、初戦のアイオワだった。ヒラリーは3位という屈辱を味わった。本来ならば「初の女性大統領」というジェンダーを武器にできる選挙戦だったにもかかわらず、相手が「初のアフリカ系」という存在で、「初物」の魅力も相対化されてしまった。しかも、ブッシュ政権の支持率低下と戦死者報道の増大で、イラク戦争の賛否が大きな争点になった。当初からイラク戦争に反対していたオバマが台頭し、イラク戦争決議に議会で賛成していたヒラリーには逆風だった。選挙戦は「初の女性」か「初のアフリカ系」かのマイノリティ同士の戦いになるはずが、イラク戦争への過去の態度で判定される意外な展開となった。そのせいで、女性票を支配的に獲得することもできなかった。
今回、筆者が1年ぶりにアイオワ入りして感じたのは、2007年当時のあの反戦リベラル派の反発が消えていたことだ。ヒラリーは2014年に出版した「Hard Choices」(邦題『困難な選択』日本経済新聞社)において、イラク戦争の決議案への賛成が間違いだったことを率直に認め、説明責任を済ませた上でキャンペーンを始動した。「イラク戦争のことが問題だと考える人はどのみちサンダースを支持する。(過去のイラク戦争の件で)ヒラリーは何も失っていない」という見方が根強い。
たしかに、2008年のキャンペーンでは、ヒラリーはイラク戦争をめぐる決断に明確な答えを示さなかった。それはキャンペーンの問題でもあった。ヒラリーのブランディングをめぐる陣営側近内の意見対立が、政策のアピールの仕方にも波及した。ジョシュア・グリーンが指摘しているように(Bloomberg Businessweek April 20-26)、初の女性大統領への懸念を払拭するために、マーガレット・サッチャーをモデルに「パワー・キャンディデート」(力の候補者)の像を優先するマーク・ペンらと、女性らしいソフトな側面を強調したいハロルド・イッキーズやマンディ・グランワルドらの路線が食い違っていた。ペンの方針からはイラク戦争について余計な配慮は不要だったのだろう。「ジェンダー候補」という認識でいたため、その欠点を補うこと(軍のトップとしての男らしさの担保)に躍起になりすぎたのかもしれない。しかし、上述したように、実際には2008年の選挙戦はジェンダーをめぐる戦いではなかった。
2016年は様々な面で環境が違う。候補者が国務長官の経験を経た今となっては、女性初の最高司令官になる上での小手先の「パワー・キャンディデート」のイメージ作りは不要だ。また、国務長官を引き受けたことは、イラク戦争の後始末への行動を伴う責任の取り方という好意的な見方も可能だ。すなわち、国務長官としてのハードワークが、結果として「禊」となったとの声が党内にもある。
「8年間、大統領になるのを待たされた。それはもう十分なパニッシュメント(罰)だと考えている人が多くいる」とアイオワ州の活動家は語る。彼は2008年にはオバマを支持していた「オバマ・ボーター」である。今回はヒラリーを支持しているという。「オバマ・ボーター」は現在、ヒラリーとバーニー・サンダースの間で割れている。もちろん、原理的な反戦リベラル派はサンダースを強固に支持している。サンダースの集会に行けば、「戦争が答えではない」のプラカードが掲げられている。しかし、アメリカの戦争への賛否は、草の根の有権者レベルで、現時点では大きな争点にはなっていないし、オバマ政権のイランとの交渉を支持する立場に民主党候補の間で大きな違いはない。ヒラリーのイラク戦争決議のことは、サンダースが演説で間接的にちくりとやる程度だ(「私はイラク戦争に反対した」と必ず言う)。
そもそもヒラリーは何度もチャンスを見送ってきた。最初のチャンスは2004 年だったが、ニュー ヨーク州民に「大統領への布石」ではなく、ニューヨーク州に尽くすことを約束して2000年に当選していたことから、1期目は議会での実績作りに専念した(オバマは連邦上院議員1期目の間に再選を待たずに立候補した。そのためヒラリーは選挙民に忠実過ぎた、慎重過ぎたと悔しがる声もあった)。そして迎えた本命の2008 年、オバマという無名の新星によって、対立の構図をイラク戦争への賛否と「エスタブ リッシュメント」VS「アウトサイダー」に書き換えられてしまった。また、2012 年 には副大統領候補としての「幻の再挑戦」のチャンスがあった。2010 年中間選挙以降に、バイデン副大統領とクリントン国務長官の交代案がにわかに浮上したことがあったからだ。これはバイデン残留で実現しなかった。そして、満を持しての2016 年である。「もう誰にも邪魔させない」というのが、熱心な支持者の合い言葉である。
アイオワ民主党とクリントン夫妻の因縁
2008年大統領選における争点上の風向きの不運に加え、ヒラリーは、いやクリントン夫妻はそもそもアイオワを苦手としていた。1992年の大統領選では、ビル・クリントン陣営は初戦アイオワで本気で組織作りをせず、2戦目のニューハンプシャーに注力する戦略を採用した。それはアイオワ選出で、地元では絶対的な人気を誇るハーキン上院議員がこの年の大統領選に出馬したからだ。ハーキンにはとても勝ち目がないので、アイオワをスキップした。ところがこの1992年のビルの陣営の「合理的」判断が、16年後の2008年のヒラリーの選挙に悪影響を及ぼす(ちなみに、1996年のビルの再選選挙では党内で対抗馬が出なかったので、やはりアイオワで組織作りを必要としなかった)。
1990年代からクリントンの選挙チーム幹部にアイオワに詳しい人材が育たないまま、アイオワの活動家にも「クリントン陣営に関係した」という人が増えないまま(草の根組織が未成熟のまま)、ヒラリーは2008年にアイオワに放り込まれるはめになった。本来は夫が元大統領であることは利点のはずだったが、アイオワに限ってはそうではなかった。勝率を合理的に判断して自分たちの州(アイオワ)をスキップしたという1992年の印象が、アイオワ民主党とクリントン夫妻の微妙な関係の始まりであったからだ。地元アイオワ民主党支持者の感情は複雑だった。2000年大統領選でクリントンが応援でアイオワ入りする機会が多ければ巻き返しもあり得たが、当時の候補者アル・ゴアは、副大統領でありながら、スキャンダルの渦中にあった大統領を遠ざける選挙戦を行った。そして2008年のヒラリー陣営も、指名獲得に絶対の自信があったため、草の根組織育成よりも「空中戦」中心のキャンペーンを展開した。
「初戦」「党員集会」という特殊性
アイオワは大統領選挙において特殊な州である。指名獲得プロセスで初戦ということで、ここでの勝敗が後続州の有権者の「勝ち馬」に乗る投票行動に多大な影響を与える。マスメディアがアイオワを大々的に報じるからだ。また、アイオワは党員集会方式を採用している。アイオワ州民主党のルールでは、党員集会は秘密投票ではない(共和党は別方式)。つまり、体育館や公民館のような会場で、自分が誰を支持するかを表明し、手を挙げて集計をしてもらう。ここでは秘密投票とは違う力学が働く。地域住民の目の前で、教会や職場の仲間もいる中で、自分が誰を支持するか政治的な立場をとるということは、かなり覚悟のいることである。集会(投票)に参加してもらうには情熱的な支持が必要で、そのための「説得」にはテレビ広告でのイメージ戦略では弱すぎる。戸別訪問やイベントでの対話、草の根の組織作りが欠かせないのだ。
また、こうした方式でのオープンな投票行動は、自分が「誰を好んでいるか」以上に、「コミュニティに自分が誰を好んでいる人と見られたいか」という意識が働く。コミュニティ単位の動向調査と活動家を巻き込んだリテールのキャンペーンが欠かせない所以である。こうしたアイオワの独特の空気と党員集会の力学を知り尽くし、初期資源のすべてをアイオワ1州だけに注いだのがオバマ陣営だった。アイオワ経験の豊富な戦略家を優先的に上級スタッフに雇った。「アイオワで負ければオバマは終わり。しかし、アイオワで勝てれば道が開ける」とオバマ陣営幹部は決めていた。まさにヒラリー陣営と正反対だった。オバマのアイオワ勝利は「ほとんど白人しか住んでいない州でアフリカ系が勝利した」というメッセージになった。過去の泡沫アフリカ系候補とは違う「勝ち目のある」候補だという印象を後続州の有権者に与え、雪だるま式にムーブメントを拡大したのだ。逆にヒラリーは沈まないはずの「無敵戦艦」であると信じていた有権者に、もしかしたら危ないかもしれない、という微妙なメッセージを与えた。初戦とはそれほどまでに、深刻な心理効果を全米に与える。
そしてあれから7年。再出馬の今回、支持率上は独走状態だが、だからといってアイオワを軽視できない。「アイオワで大切なのは党員集会の当日ではない。その前年。つまり今だ」とアイオワ民主党幹部は語る。初戦のため延々と続くキャンペーン報道のアイオワ比重は絶大だし、支持者の反応や会場の盛り上がりが、そのまま州をまたいでソーシャルメディアに反映する時代だ。来年2月の党員集会でも、期待上はサンダースら後続を大きく引き離して「圧勝」して当然で、そうでなければ「異変」と報道されてしまうフロントランナーなりの苦悩もある。そこでヒラリー陣営は2008年の戦略を根本的に見直し、アイオワでの組織作りを重視した。アイオワとの本格的「和解」を目指したのだ。ヒラリーはアイオワで本格的なキャンペーンをしないだろうと考えていたアイオワ民主党幹部や活動家にとって、これは嬉しいサプライズだった。
アイオワ州民は「政治的に甘やかされている」とよく言われる。1年、半年も前から初戦という理由でアイオワだけに選挙戦が集中するので、候補者との距離が近いことが日常になっているからだ。「カーターが自宅のカウチで昼寝をしていった」とか、「うちの店でオバマが食べていった」とか、そういう経験に慣れすぎている。民主党ジョンソン郡委員は「実際に全員の候補者と会うまでは、誰に入れるか決めない、というのがアイオワ人だ」と説明する。候補者の使い回しの同じスピーチを「スタンプ・スピーチ」というが、アイオワではイベントに参加して候補者に質問をする機会に恵まれているので、有権者まで「自分のいつもの質問」(pet question)を持っている。こうした事情を考慮し、ヒラリーは2016年に向けたキャンペーンのキックオフをアイオワで行い、しかも小規模イベントを活用したのだ。スピーチをしに来たのではなく、あなたのクエスチョンを受けるために来たのだ、というメッセージである。
つまり、漠然と「親しみやすさ」を重視しているというよりも、2008年のキャンペーンを根本から反省する姿勢を打ち出したのである。党員集会方式のための「説得」が必要なアイオワに、巨大イベントは似合わない。アイオワで本気でキャンペーンをするならば、自動的に小規模イベントになる。ハーキン元上院議員と同議員の組織を味方につけ、お隣のイリノイ州育ちの「中西部のルーツ」を強調するヒラリーは、アイオワに受け入れられたのだろうか。この夏、各地を走り回ったヒラリーの演説に象徴されていたのは、女性(ジェンダー)と経済(中間層対策)をブレンドした新路線であった。別稿で検討したい。
渡辺将人 北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院准教授