上席研究員、現代アメリカプロジェクトリーダー、東京大学教授
久保文明
クリントン再定義
さて、クリントンの非好感度の克服という点で、大会はいくつかの工夫を凝らしていた。
一人娘のチェルシーがクリントンを紹介し、彼女の母としての側面を強調したし、ビル・クリントンが登場したものの、「政策オタク」(”policy wonk”)の彼にしては珍しく政策についてほとんど触れず、夫婦の出会いとその足跡を語った。
クリントン自らの演説、チェルシーによる紹介、あるいは上映されたビデオなどで語られたのは、たとえば中小企業を起こした父のことであり、あるいは苦労し続けであった母のことであった。彼女は14歳で孤児になってしまったが、ヒラリーはその母親から教わったことを強調した。それは「正しいことを実現し続けるために頑張り続けろ」ということであった。
このような振り付けは、議論の方向としては妥当であろう。単に経験を強調するだけでは、現職の守りの選挙のようになってしまう。クリントンは、子どもの権利のために、あるいは女性の地位向上のために戦ってきた人生の象徴として選挙戦を位置づけ、理想的には2008年のオバマの選挙戦のような疑似社会運動にまで転化させることを目標にすべきであろう。ただし、これは容易なことではない。
これに対して、トランプ攻撃は容易であり、効果的である。これをトランプ自身による絶えざる失言・暴言が補強してくれている。あえて言えば、トランプの選挙戦そのものが、とくに民主党大会の頃から、失言・暴言によって自滅・自壊しかかっているようにさえ見える。クリントン陣営がこれに助けられているのは明らかである。
一般論として言えば、クリントン陣営には、トランプに対して政策論争を挑むべきか、あるいは人格攻撃で行くべきかとの選択肢がある。ただ、今回に関しては、どちらで行っても、クリントンに分がありそうである。8月後半に公表されたハフィントン・ポストの集計による世論調査の分析において、有権者が重視するすべての争点に関してクリントンが優位に立っていた。ただし、経済政策とテロ対策については、トランプよりクリントンを信用する有権者の方が多いものの、その差は僅かである。
http://www.huffingtonpost.com/entry/voters-dont-trust-trump_us_57bb5784e4b00d9c3a19451f?section=&
民主党の楽観論の陥穽
ところで、本年の共和党大会でトランプが行った演説は、アメリカの現状について著しく悲観的なものであった。それに対して、クリントンやオバマ大統領ら民主党の登壇者は、アメリカについての楽観論を展開し、またアメリカの偉大さも強調した。
ある意味で、8年近く与党であった民主党が、その成果を強調し、国の現状を肯定的に語るのは当然である。ただし、長年、共和党の方がアメリカの例外性や偉大さについて自信と楽観論を持って語り、民主党の方がアメリカの問題を批判的に告発するというパターンの方が普通であった。この点で、今回の民主党大会はやや異例であったといえよう。
共和党大会は最初から最後までUSAコールが鳴り響いていたが、興味深いことに、民主党大会でもUSAコールが起きた。おそらく大会3日目あたりに、やや控えめな形で、途切れがちながらもUSAコールが観察され始めたように思われる。最終日には、それは会場全体のものとなった。
ただし、クリントンにとって、危険も潜んでいる。冒頭で指摘したように、国民の59%から68%が、「アメリカは間違った方向に進んでいる」と感じているからである。
すなわち、国民の多くがアメリカの現状を悲観的に捉えている。そのようなときに、クリントンがやたら楽観論を振りかざせば、それは事実として国民感情から遊離したものとなり、またイメージとしても庶民生活の実情を知らない政治家とみなされてしまうであろう。
なお、クリントン自身、基本的には楽観論とアメリカの偉大さを称賛し、トランプの悲観論を徹底的に批判しつつ、アメリカの経済と民主主義があるべき形で機能していないことも認めた。それは賃金であり、学費の問題であり、また選挙資金の問題である。クリントンは最高裁判所の判事の重要性を指摘し、さらに。憲法を改正して、企業と組合による政治献金への規制を緩めた2010年の「Citizens United v. Federal Election Commission」判決を無効にせよと主張した。
民主党のアイデンティティはどちらに?
今回の選挙は、共和党のトランプの支持基盤がブルーカラー、あるいは低学歴の白人層であるため、彼らの票をめぐって民主党と激しい争奪戦となる。そこでの焦点は、果たしてそもそも勤労者の政党である民主党は、白人労働者票を守れるかどうかである。
その点での懸念として指摘すれば、今回の党大会で、たしかに最終日にサービス産業従業員国際組合(Service Employees International Union: SEIU)あるいは全米教員連盟(American Federation of Teachers)、あるいは全国教育協会(National Education Association)など教員組合の代表は登場していたが、多数の演説において、あるいは登壇者の選択でより強調されていたのは、ジェンダーの平等であり、LGBTの権利擁護であり、また環境の保護であった。これは今の民主党の姿を照射している。(ちなみに、以下のサイトでは民主党全国大会での登壇者のリストが掲載されている: http://www.vox.com/2016/7/25/12258368/democratic-convention-2016-dnc-speakers-schedule-platform )。
人種、民族、宗教、性の平等を確認する発言とともに、「あなたが誰を愛そうとも、平等に扱われる」という言葉が、本年の民主党大会では何回となく繰り返された。いうまでもなく、これは同性愛者の権利を指している。民主党が人種的にも、性的指向の点でも、ますます寛容な政党になっていることが明確になった。
ただし、トランプと票を取り合うことになる白人ブルーカラー層対策という点ではどうであろうか。大会では、彼らを文字通り代表する政治家や団体の長と思われる人物の演説はなかったように感じた。民主党は、最低賃金引き上げ、大学学費無料、TPP反対といった政策だけで、十分に彼らを引き付けることができるであろうか。これは同時に、民主党のありかた、そのアイデンティティについての問いでもある。
大会の運営と効果、およびその後の展開
共和党大会と比較すると、無意味に長い演説はなく、全体として規律ある運営であった。会場の隅隅まで、一つの演説の最中に場合によると3種類のサイン(プラカード)を届ける態勢は見事であった。オバマ、ミシェル・オバマ、ビル・クリントン、チェルシー・クリントの演説や紹介も効果的であった。
党大会後に発表されたCNNの世論調査によると、クリントンは大会前と比較すると7%の支持率上昇を達成した。その結果、候補者二人に絞った調査ではクリントン対トランプは52%対43%となり、共和党大会前の大きなリードに戻った。候補者4人の調査では、クリントン45%、トランプ37%、ジョンソン9%、スタイン5%である。
トランプは共和党大会で6%の支持率上昇を勝ち取った。したがって、本年はどちらも党大会の出来栄え、とくに候補者の支持率上昇効果という点では、首尾よくこなしたといえよう。
ただし、トランプはすでに民主党大会開催中から失言を連発し、8月中、支持率を下げ続けた。共和党内の戦いでは失言は響かなかったが、本選挙は全く別の選挙であることをあらためて知らせしめる展開であった。その結果、一度は逆転した支持率で、クリントンに8%程度の差をつけられまでになった。
トランプにとって厳しいのは、今後11月8日の投票日まで、全国党大会に匹敵する大きなイベント、すなわち逆転のチャンスがほとんど存在しないことである。あえて言えば、3回予定されている候補者が直接対決する討論会であるが、まともな、あるいは通常の政策論争となれば、トランプの分が悪いであろう。少なくとも大逆転は容易でない。まして、州ごとの分析では、クリントンの優位が一層際立つ。
しかし、9月初めには二人の支持率の差はリアルクリアポリティックスの集計で4ポイント程度まで接近してきた。トランプによる大きな失言はしばらく無く、それに対してクリントンの電子メール問題やクリントン財団による献金問題がメディアを賑わせてきた。党大会後一時下がった彼女の非好感度も再び上がりつつある。
可能性が大きそうなのが、投票日までじわじわとトランプが追い上げつつ、自らの失言で支持率を下げるという連鎖の繰り返しである。むろん、そこに予測できない事件が絡む可能性もある。あるいはメキシコ大統領との電撃会談のような、予想できない行動にトランプが打って出るかもしれない。
今後の発言に当たって、トランプが自己規律と自制を十分に発揮できれば、接戦に持ち込むことも不可能ではなかろう。ただし、実はこれがトランプにとってもっとも難しいことかもしれない。
[追記] 9月6日に発表されたCNN/ORCの世論調査は、トランプ45%、クリントン43%, ゲアリー・ジョンソン7%, ジル・スタイン2%という結果であった( http://us.cnn.com/2016/09/06/_politics-zone-injection/trump-vs-clinton-presidential-polls-election-2016/index.html )。僅かであるがトランプが再びリードしている。ロサンゼルス・タイムズ、ラスムセン・レポートなども僅差を報告している。ますます、トランプの自己規律・自制の要素が重要になってきているといえよう。