評者:宮城大蔵(上智大学外国語学部准教授)
本書の語り手である桐島正也は、日本=インドネシア関係に携わる人々の間では、深田祐介の小説『神鷲商人』の主人公のモデルとして「知る人ぞ知る」存在である。この小説で主人公の商社マンは、インドネシアへの戦争賠償に絡んで激しい商戦が行われていた1950年代末、インドネシア建国の父・スカルノ大統領の夫人となる日本人女性に付き添って海を渡る。いうまでもなくモデルはデヴィ夫人である。深田の小説は、スカルノ失脚を招いたクーデター、9.30事件(1965年)をクライマックスに、波乱に富んだインドネシア現代史と日本の関係を描くが、その内容は一部の設定を除き、ほぼ事実に沿ったものだと言えよう。
深田祐介が学友であったことをきっかけに、桐島の希有な体験が小説になったのだが、実際の桐島は、その後もインドネシアにとどまり、今日に至るまで半世紀にわたって現地で手広く事業を展開する実業家である。その経験を日本=インドネシア関係史の貴重な側面だと考える倉沢愛子・慶応大教授が聞き取り、取りまとめたのが本書である。
三菱の共同創業者の孫として、裕福な家庭に生まれ育った桐島は、終戦の混乱時に相続によって資産の大半を失った後、さまざまな仕事に携わるうちに賠償ビジネスを手がける東日貿易に入り、スカルノの求めに応じてインドネシアに渡るデヴィに付き添って渡航した。旧宗主国オランダの影響が色濃く残り、至るところに「インドネシア語を使おう」という標語があふれていた当時のインドネシアであった。
東日貿易の賠償ビジネスをジャカルタで統括する桐島は一方で、いまだ公の存在ではなかったデヴィと夫婦を装ってスカルノに同行するなどスカルノの「宮廷」に深く入り込んだ。「『人間的な人』ということに尽きる。お金にまったく関心がない一方、芸術に深い関心を持っていた」というのが、身近に接した桐島のスカルノに対する印象であった。
そのスカルノも9.30事件をきっかけに失脚し、紆余曲折を経てデヴィは欧州に渡った。
しかし桐島はインドネシアに残る決意をする。カツラ用に頭髪を集めたり新聞発行の手伝いをしたりと模索の時期を経て、新たに手がけた広告業が本格化した。1960年代末から活発化した日本企業の進出が追い風となった。1974年の反日暴動も、桐島のビジネスにはさしたる逆風とはならなかったという。ホンダ、三菱、博報堂など、次々に進出してくる日本企業といかにパートナー関係を築いたかも興味深い記述である。やがて勢いに乗ってシンガポールにも進出した桐島であったが、勝手が違う環境に撤退を余儀なくされる。インドネシアに回帰した桐島は、ゴルフ場経営にも乗り出すが、会員の7割は日本人であった。
このような桐島の回想は、あまり類例のない歴史の語りだと言えよう。政治史や経済史といった「大きな歴史」とは異なるのはもちろんであるが、個人史として記録されるのは多くの場合、政府や企業等各種の組織でそれなりの地位を築いた人物についてであることが多い。ほぼ一貫して個人として独立して活動し、それゆえ半世紀にわたってインドネシアに滞在しつづけた桐島の半生は、その時々のアジアの変容と日本の関わりを肌身で感じ取り、映し出す鏡である。
半世紀にわたる桐島の活動で、一番の苦境は実は現在だという。日本の旺盛なアジア進出を追い風としてきた桐島の事業だが、アジア通貨危機での打撃に加えて、同業者との競争も激しくなり、日本企業よりも韓国など新興国企業に勢いがあるきらいもある。
かつて桐島は知人のインドネシア人にこう言われたという。「日本人は、例えればインドネシアという川の底にある砂利だ。それに対し、中国人は苔、白人は岩だ。嵐が来れば、小砂利は全部なくなる。しかし岩と苔は、残る」。桐島はインドネシアでの半世紀を、「ささやかでも小砂利以上の存在になろうと努めてきたつもりである」と振り返るのである。
本書と前後して刊行されたデヴィ夫人の回顧録(『デヴィ・スカルノ回想録』草思社、2010年)を併せ読むのも、戦後アジアと日本のドラマを追体験する上で興味深いはずである。
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