第25回「介護現場の声を聴く!」 | 研究プログラム | 東京財団政策研究所

東京財団政策研究所

詳細検索

東京財団政策研究所

第25回「介護現場の声を聴く!」

September 29, 2011

第25回のインタビューでは、訪問介護や通所介護などのサービスを全国規模で展開している「株式会社やさしい手」社長の香取幹さん、特別養護老人ホームや通所介護事業所を運営する社会福祉法人光照園「特別養護老人ホーム江戸川光照苑」苑長の水野敬生さんに対し、東日本大震災の影響や人材確保の苦労などを聴いた。

インタビューの概要

<インタビュイー>
香取幹さん=株式会社「やさしい手」社長
水野敬生さん=社会福祉法人光照園「特別養護老人ホーム江戸川光照苑」苑長

<インタビュアー>
石川和男(東京財団上席研究員)

※このインタビューは2011年9月26日に収録されたものです。 http://www.ustream.tv/embed/recorded/17517504

要 旨

エレベーターが止まって食事を運べず

第25回のインタビューは3月11日に発生した東日本大震災の影響から始まった。

水野さんが苑長を務める「光照苑」は地上3階建て、地下1階。特養のスペースとデイサービスの事業所が向き合うように建っており、両棟は渡り廊下で繋がっている。丁度、地震が起きた時に会議中だったというが、エレベーターは全てストップ。発生の時間帯がデイサービス利用者の帰宅時間に近く、「家族が帰って来られない状況が想定されたので、特養の従業員がデイサービス(棟)に行って階段で誘導した。車で(自宅まで)お連れし、自宅に帰れない方は施設で待機した」という。

その後、今度は特養の夕食時間になったが、光照苑は各フロアに食堂、地下に厨房を備えており、普段はエレベーターで食事を運んでいるとのこと。しかし、その時間帯までエレベーターが復旧しなかったため、水野さんは「今度はデイの職員が特養(の棟)に来て、人海戦術で(食事を)運んだ」と振り返った。

さらに、苦労したのが利用者への連絡。その時に役立ったのが施設の公衆電話だった。水野さんは「居宅介護事業所、地域包括支援センターの利用者に安否確認もしないといけない。震災直後すぐに始めた。独居の方、高齢者のみの世帯の方を優先して電話したが、(電話が)段々と繋がらなくなった。公衆電話は意外と通じていたので、施設の公衆電話から電話して翌日まで掛かった」と話した。

このほか、ガソリンの確保にも腐心したようだ。水野さんは震災の翌日、24時間の店が半分ぐらい営業しておらず、翌々日になると営業店舗が減って来たため、「これはガソリンが危ないかもしれない」と判断。そこで、13日のうちに全車を満タンにするよう指示し、翌日から全くなくなったという。

反面、施設に関しては被害は見られなかった。水野さんによると、国による特養の設置基準が厳格で、「特養は頑丈にできており、建設基準が厳しい」とのこと。このため、中越地震や阪神大震災など過去の地震でも多少のヒビが入った程度で、特養だけは被害が見られなかったという。

さらに、震災の関係では水野さん自身も6月17日に宮城県の特養を訪問したとのこと。訪ねた施設では被災者を受け入れるため、50人の施設に100人近くを収容しており、水野さんは「空いているデイサービスのスペースに野戦病院のようにベッドが並んで、経管栄養の方が並んでいた」と感想を吐露。そこで、m「『職員さんに大変ですね』と声を掛けると、皆さん気が張っている。職員の家族も避難しており、手伝ってくれて、みんなで介護している環境だった。家も流されているので、これから大変」と述べた。

このほか、水野さんの施設では地震に備えた防災訓練を実施しており、中越地震など過去の災害に際しては、東京都を通じて職員を派遣しているため、「独居や介護者がいなくなった高齢者を特養として受け入れる訓練をやっている」と語った。

同時に、今回の震災では静養室など空いている部屋を使って被災した高齢者を受け入れた場合、通常ならば減額される介護報酬の措置を適用しない特例を実施したため、「(受け入れに)手を上げたけど、結果的に来なかった」とのこと。その一方で、3人の職員を1週間ずつ被災地に派遣し、宮城県気仙沼市の避難所に避難している要介護高齢者のケアに当たらせた。水野さんによると、6月に水道が復旧するまで大変だったため、職員は1日だけ市内の銭湯に行ける状態が続いていたという。

一方、香取さんが口にしたのが社員の安全確保対策。香取さんによると、「訪問介護員がサービス提供中に津波に遭って1人亡くなった。震災直後は生きていたが、その後は非常に寒くなって、その前に救助が来なくて亡くなった」という。

さらに、震災当日は帰宅困難者対策に取り掛かり、その後も「1~2週間ぐらい対策本部を立てて、従業員の安否確認と事業所の状況把握で対策を進めた」「被災事業所では本社の人材を1カ月以上、数人の人間が張り付いた」という。その上で、東北の事業所が津波被害を受けて完全に機能停止したため、香取さんの会社では救援活動を1~2週間実施するとともに、「物資やガソリン供給でも色んな取り組みを行った」と振り返った。

同時に、やはり苦労したのがガソリン。香取さんによると、普段の訪問介護サービスは概ね自転車が多いらしいが、それでも都内では使用している車両数が非常に多いため、車のガソリン調達が問題となった。このため、香取さんは「都内で車がたくさん回っているので、空いているガソリンスタンドの情報を各車両が投げ合って調達した」と述べた。さらに、被災地のガソリン調達に関しても、「仙台市内ではガスが動いていない中で、デイサービスの訪問入浴者を灯油と一緒に送り込んで事業所の運営維持に努めた」と語った。

被災者の受け入れに関する業界の体制に関しては、「在宅で非常に多くの都内に移住して来た。訪問介護でサービスを提供した」「訪問介護の業界団体があり、阪神、中越、今回は介護職員を派遣した。別途、東京都も取り組みがある。大規模会社が多いので、社内で被災店舗の支援をやっている」と解説した。

今月22日に首都圏を直撃した台風15号の影響も話題になった。水野さんの施設では、朝の段階で直撃の危険があったので、高齢者を迎えに行く時に「天候の具合によっては早く返しますが、大丈夫ですか?」と確認していたとのこと。このため、「早く帰って来たら困る」という家族には残って頂く一方、危ない場合だけ帰って頂いたり、早期帰宅を希望した人は早く返したりしたという。

香取さんも「サービス提供が不可能な部分については、利用者の状況によっては場合によっては中止する方法を取った」と応じた。


「強い母親にねじ伏せられて…」

介護業界に入った動機や契機、自らが所属する法人の紹介も話題となった。

水野さんの所属する社会福祉法人は1988年11月、現在の通所介護事業所を併設した老人ホームを東京都北区王子に設立。その後、苑長を務める江戸川光照苑は1996年7月、江戸川区北小岩に発足した。

水野さんによると、約65万人が住む江戸川区は高齢化率が都内で最も低い反面、施設の立地する場所については、「北小岩から始まって埋め立てたので、元々の人達が住んでいる。北小岩だけ見ると、23%と高齢化率は高い」と話した。

介護職を志した元々の動機としては、児童福祉系の学科を卒業した関係で、当初は非行少年や情緒障害を受け入れる施設に入所したかったとのこと。しかし、卒業した当時は施設数が少なく、就職口がなかった一方、多摩地区に多く立地していた特養が23区に徐々に増加したため、特養に就職したという。「男性の介護員が探さないといないぐらい殆ど女性の職場。16人の介護職員で唯一の男性職員だった」と、水野さんは当時の職場の雰囲気を紹介してくれた。

香取さんの会社は1993年創業で、介護の世界では「老舗」に当たる。前身は看護婦紹介所としてスタートし、市町村からの請負で介護事業を展開し始めた。その後、今年6月に改正された介護保険法に盛り込まれた「24時間巡回型訪問看護・介護」の原型に当たるサービスとして、24時間訪問介護サービスを市区町村の受託事業として1996年から開始。2000年4月の介護保険導入に際しては、18市町村で訪問ヘルプサービス(現在の訪問介護サービス)を受託事業として実施しており、香取さんは「介護保険がスタートして大規模資本の方々に(利用者ベースで)アッと言う間に抜かれてしまった。現在の利用者は1万8000人。訪問介護の最大手と比べると、概ね6分の1。1999年時点では最大の会社だった」と自己紹介した。

こうした会社の歴史の中で、香取さんは元々、全く違う道を歩んでいた。大学は工業系を卒業し、製造業の企業に技術系社員として入社。しかし、介護保険制度の創設が1997年に決まると、創業者となった母親から「働いて貰いたい」と頼まれたため、介護の世界に足を踏み入れたという。香取さんは「サラリーマンとして一生仕事するつもりだった。当時は20人の事業所だったので、強い母親にねじ伏せられた」と笑いながら振り返った。


リーマンショックで就職環境に変化

話題は介護業界への就職状況に移った。

従来の介護業界と言えば、女性の職員が大半だったが、その背景として水野さんは利用者に女性が多いことと、歴史的な背景を挙げた。

これまでのインタビューでも出ている通り、介護サービスの事業所・施設を利用している人の約8~9割が女性。このため、水野さんは「同姓介護という点で考えると、利用者は圧倒的な女性。人権ということを考えると、異性よりも同姓介護が理想」と話す。

歴史的な背景に関しては、「(1963年に)老人福祉法ができて特別養護老人ホームが『養老院』と言われていた時代から、介護職が『寮母』という名前だったらぐらい、子育てを終えた主婦が社会に出て来る雇用対策の一面もあった」と解説してくれた。

しかし、水野さんが「求人すると男性の求人が増えて来た」、香取さんが「男性介護職の認知が増えて来ている」と話してくれた通り、最近は男性の希望者が増加しているという。

とはいえ、介護業界の人材確保が景気に大きく左右されている。

水野さんは「2006年から急激に介護人材がいなくなった。危機的な状況だったことは間違いない」「極端に言うと、お金を出して求人を出そうが、ハローワークに出そうが、誰も応募も来ないという状態」と指摘。香取さんも「(2008年9月の)リーマンショック以来、介護職員の確保は一時的に良くなった」「非常に多くの方が介護ビジネスに身を置くことを前向きにとらえて頂いた時間帯があった」と話した上で、「他の業態が不景気となると、介護業界の人材獲得容易性が上がって来る。その前(=リーマンショック前)は本当に人材が不足していた」「相変わらず他の産業が力強く成長している状況ではないので、リーマンショック前ほど厳しくない。リーマンショック直後に比較すると、採用は難しくなっている」と述べた。

これに対し、水野さんは「介護業界に入って27年。バブルの頃も求人が来なかった。苦労した時代があった」と振り返りつつ、2009年度第1次補正予算で創設された「介護職員処遇改善交付金制度」の影響もあり、「(近年の)印象として就職は安定している。(福祉系学校の)学生数も応募が増えたと聞いている」と語った。

その反面、資格や経験という点では優秀な人材が少ないため、人材の奪い合いも見られるようだ。

香取さんは「サービス業においては人材(確保)も顧客と同様、『こういう会社だったら勤められる』という状況を作って行かないと、『あの会社は信用できないよね』と当社に来てくれなくなる部分がある」と強調。さらに、「『会社に勤めて頑張りたい』と思われるようなサービス、事実を如何に整理し、社内サービスとして提供できる体制を整えることが重要。人材獲得競争に勝てることが重要」と訴えた。

その上で、香取さんが「売り手市場のように見えるけど、資格の問題がある。中途採用も経験のあるなしで採用されたり、されなかったりする。独特の世界があるが故に、参入障壁が高い」と指摘すると、水野さんも「(高齢化で)介護業界のサービスそのもののニーズは増えている。介護事業者の数も増えている。そんなにパイが大きくない(優秀な)介護人材の取り合いがある」と話した。

【文責: 三原岳 東京財団研究員兼政策プロデューサー】
    • 元東京財団研究員
    • 三原 岳
    • 三原 岳

注目コンテンツ

BY THIS AUTHOR

この研究員のコンテンツ

0%

INQUIRIES

お問合せ

取材のお申込みやお問合せは
こちらのフォームより送信してください。

お問合せフォーム