評者:宮城大蔵(上智大学准教授)
鳩山民主党政権の掲げる「対等で緊密な日米関係」とはいかなるものか、試行錯誤がつづく昨今であるが、対米関係のあるべき姿が論じられる際、戦後日本でときに憧憬の念をもって語られてきたのが英米関係である。
その英米関係の実像を、第二次世界大戦直後から1960年代のベトナム戦争に至るインドシナ紛争を舞台に解き明かそうというのが本書である。一方で当該時期の英米は、アジアにおいて決して域外国ではなく、種々の軍事機構や植民地の存在を通してアジア国際政治で中心的な位置を占めた。本書は英米関係の一断面とともに、英米を軸とした戦後アジア国際政治史についての優れた著作となっている。
本書の構成と概要
まずは本書の構成について、そして各章の内容について概観することにしたい。
序 章 本書の目的と構成
第1章 戦後インドシナ関与の原点
第2章 ラオス内戦
第3章 ジュネーブ会議とラオス中立化
第4章 南ベトナムへの関与
第5章 インドシナ問題とマレーシア紛争の連関
第6章 ベトナム和平工作の展開
第7章 ベトナム和平工作の挫折
終 章 戦後インドシナ紛争と英米同盟
イギリスの歴代政府は、アメリカとの「特別な関係」を対外政策の基軸に据え、アメリカの最良の同盟国を自任してきた。第二次世界大戦後を見ても、朝鮮戦争や湾岸戦争、イラク戦争など、イギリスはアメリカが行う主要な戦争のほとんどすべてを共に戦ってきた。
その最大の例外がベトナム戦争である。「アメリカに真っ先に必要とされる同盟国」であることで、他の西側諸国との差別化を図ってきたイギリスにとって、これはほぼ唯一の例外であった。一体そこに何があったのか。水本氏は以下の三つのアプローチによって、このテーマに新境地を開こうと試みる。
第一に、従来個別に取り上げられてきた第一次インドシナ紛争(第二次世界大戦後、植民地の再興を目指したフランスが、ホー・チ・ミン率いるベトナム側に敗退した)、ラオス内戦、ベトナム戦争を一体のものとしてとらえること、第二に分析の対象をとかく関心が集中しがちなベトナムだけではなく、ラオス、カンボジアを含めた旧仏領インドシナ全域に広げること、そして第三にこの間のイギリスの政策を、対米関係だけでなくコモンウェルス(英連邦)諸国との関係にも留意して考察することである。この三点によってインドシナ紛争をめぐるイギリス政府の政策意図、そして結果としてのアメリカとの緊張が、より適切に解明されると水本氏は考えるのである。
第1章では、イギリスが「基本的に国益のない場所」であるインドシナになぜ関与するようになったのかが扱われる。インドシナにおける植民地再興を試みたフランスを、英・アトリー政権は支援したが、そこには二つの要因があった。第一にアジアにおけるフランスの植民地帝国が崩壊すれば、アジアにおける英帝国、特に当時、共産主義勢力の蜂起で情勢が悪化していたマラヤに悪影響が及ぶことが懸念された。第二に西欧諸国の植民地復帰に冷ややかな目を向けていたアメリカからの批判が、フランスなきあとイギリスに集中することが憂慮されたのである。
つづくチャーチル政権は、仏敗退後のインドシナに対するアメリカの軍事介入に反対する。中ソ側との全面対決が第三次世界大戦や核戦争に至ることを危惧したのである。結局このときの紛争は、ジュネーブ会議(1954年)によって南北ベトナムを分断して休戦となるが、ここでイギリスはソ連とともに共同議長を務める。イギリスの関心はやはりマラヤ防衛にあり、ベトナム共産化の防止に躍起のアメリカとは温度差が生じることになる。
その一方でイギリスは、南ベトナムを支える軍事機構として創設されたSEATO(東南アジア条約機構)に参加するが、ここでもアジアにおける植民地維持や英連邦の安定に重きを置くイギリスの姿勢は、アメリカとしばしば摩擦を生むのである。
第2章は1960年代初頭のラオス内戦についてである。アメリカは南ベトナムの維持に懸命であったが、隣接するラオスを通じて共産主義勢力が浸透することに頭を抱えていた。そこでラオスに反共政権を樹立しようと試みるが、事態はラオス内戦へと至る。ラオスに軍事介入しようとするケネディ政権に対して、マクミラン英首相は、共産側が停戦に応じないときはアメリカとともに軍事介入すると告げる。スエズ戦争(1956年)でアメリカと深い断裂を生じたイギリスにとって、「アメリカ人と離れるのは悲劇的」であり、「我々は過去の(米との)分裂で十分苦しんだ」。だがマクミランの真意は、ともに軍事介入の用意があることを示した上で、ぎりぎりまで交渉を尽くせと米側に説くことにあったと水本氏は言う。「対峙するのではなく、味方に立ちながら健全路線に引きとめるのが(米との)賢明な付き合い方」なのであった。結局、休戦協定の成立でアメリカの軍事介入は見送られた。
第3章は休戦後のラオス中立化をめぐるジュネーブ会議についてだが、ここでイギリスは再びソ連と共同議長をつとめることになる。会談はしばしば停滞し、アメリカでは軍事介入論が再燃するが、議長国であり、財政的にも困難を抱えるイギリスは共同介入には消極的であった。しかし消極論を米側に伝えることはしなかった。米の介入に明確に反対をするフランスと差異化を図ることが意識されていたのである。
第4章では、マクミラン政権はベトナムへの軍事介入に積極的であったとするPeter Buschの先行研究について批判的検討が行われる。水本氏によれば、イギリスにとっては国益のないベトナムよりもマラヤなど英連邦が重要だったのであり、その意味でベトナム以上に重要だったのがラオス中立化であった。マラヤはタイと国境を接しており、そのタイにとってはラオスの行方が安全保障上きわめて重要であった。英自身によるベトナムへの軍事介入はラオスを不安定化させるだけであり、考慮外であった。当時のイギリスの利害を、ベトナムだけではなく英連邦との関係やインドシナ全域に広げてみれば、自ずと上記のような結論が導き出されると水本氏は述べるのである。
第5章はマレーシア紛争との連関である。イギリスがアジアで最も関心を寄せるマラヤだが、1963年以降、情勢が緊迫し始める。マラヤ、シンガポールなどを統合して創設されたマレーシア連邦に対して、これを「新植民地主義の策謀」とみなす隣国・インドネシアのスカルノが「マレーシア粉砕」を掲げて軍事紛争化するのである(マレーシア紛争)。
インドシナを一体として問題解決すべきだと考えるイギリスは、アメリカの「南ベトナム中心主義」に不満であったが、インドネシアとの対決が深刻化する中、マレーシア紛争でのアメリカの支持を取り付けることが重要になる。こうして1964年のヒューム=ジョンソンの英米首脳会談では、ベトナムとマレーシアで英米が相互支持を打ち出すことになった。
第6章ではウィルソン政権のベトナム和平工作が扱われる。1965年にアメリカが北爆を開始する中、ウィルソン政権は戦時下の対米同盟管理という課題に直面する。ジョンソン政権は英側に”show the flag”が重要だとして英軍派遣を求めるが、ジュネーブ会議議長国であり、またマレーシア紛争を戦うことで東南アジア防衛の責任をすでに果たしていると考えるウィルソン首相は応じず、一方で英連邦の枠組みを用いたベトナム戦争の調停を模索する。しかし米側は具体的貢献なしに調停者を演じようとするウィルソンに苛立ちを深める。
第7章もひきつづきウィルソン首相の和平工作である。ウィルソンはジュネーブ会議共同議長国であるソ連と連携して和平にあたろうと活発に動く。だがイギリス案は米側に放置され、さらにアメリカは、イギリスには伏せたままソ連経由で北ベトナムと接触していたことが明らかになる。滑稽な役回りを演じたウィルソンの怒りは激しかったが、ジョンソンが意に介することはなかった。英政府の仲介は国内向けの点数稼ぎであり、「一旅団でも(ベトナムに)駐留していればイギリス政府の態度は違ったはずだ」と述べるジョンソンにとって、ウィルソンの行動は「目障り」でしかなかったのである。
終章では本書の議論のまとめとして、戦後の歴代英政権は、?植民地防衛、?英連邦諸国との関係、?対米関係の三つを考慮して対外政策を立案・遂行したが、中でも重要なのは?であり、??は?の対米関係によって左右されたと分析される。
その上でインドシナ紛争をめぐる英米関係から見える「同盟論」として、同盟の長期的な営みには、大局的な見地から見て、一時的な不和に耐える覚悟が不可欠だと水本氏は指摘する。しばしば軍事的手段に魅了されるアメリカの振る舞いは、ときに世界を不安定化させるものであり、「最良の同盟国」としてそのリスクを低減させるには、ただ批判するのではなく、アメリカの懐に飛び込んで、その「隣席」から影響力を行使するべきだというのがイギリスの「対米同盟観」であった。アメリカの単独主義を修正しようとするこのような試みが、今日に至る西側同盟の存続を可能にしたのだと本書は結論づけるのである。
本書の評価
「英米関係」、あるいは「インドシナ紛争」といったタイトル、副題にとどまらない豊かな内容を持つのが本書である。本書のアプローチは、ベトナムだけではなくインドシナ全域、そしてイギリスの対米関係だけでなく対コモンウェルス政策を視野に入れるということであるが、その結果、対象とする問題はラオス・カンボジア、そしてマラヤ、インド、パキスタンといった英連邦諸国へときわめて多岐にわたることになる。結果として本書は、米英関係にとどまらない戦後アジアについての一大国際関係史となった。通常、これだけ多岐にわたるアクターが登場し、それぞれの文脈で複雑な動きを繰り広げるとなると、その様相を過不足なく描くのはきわめて困難である。ところが本書では、全編にわたってきわめて行き届いた叙述とバランスのとれた分析が崩れることがない。
名称だけはよく登場するが実際の動態がよく分からないSEATOのような軍事機構について、英米それぞれの思惑、タイやパキスタンのようにSEATOを自国の利益に引き付けて利用を試みるアジアの加盟国、さらにそれらSEATOのアジア加盟国の動きを気にかけるインドやカンボジアなど近隣諸国と、幾重にも連なる各国の思惑と行動が、見事に浮き彫りにされている。
アジア現代史の傑出した著作のひとつに、サイゴン陥落後のインドシナを描いたナヤン・チャンダ『ブラザー・エネミー ―サイゴン陥落後のインドシナ』(めこん、1999)があるが、これと本書を併せ読むことで、読者は大陸部東南アジアを中心とした戦後アジアの国際政治について、広範かつ明瞭な見取り図を手にすることができるであろう。
その一方で、「アメリカの単独主義が世界に与えるリスクを軽減するために、一時的な不和にも耐え、懐にも飛び込む」と結論づけられる英米同盟論としては、評者にはやや説得力に欠ける点もあるように感じられた。本書の叙述から浮かび上がってくるイギリス像は、アジアの英帝国を保持するため、アメリカとの距離の調整に苦心を重ねる老大国であり、かつての「米英ソ」三大国としての自意識と、凋落する一方の現実との落差を突き付けられる姿である。その落差はウィルソンの仲介工作に至っては悲喜劇の様相を帯びる。また英米同盟論として考えるならば、英米同盟全般においてインドシナ紛争が占めた位置や、イギリスがアメリカと袂を分かつことで苦境に立たされたスエズ戦争の影響といった点についても、記述がないわけではないが、さらに多くを知りたくなる。
結局本書における英米関係の齟齬と緊張の底流にあったのは、当該時期のアジアについての秩序構想の差異ということであろう。アメリカにとってはベトナムの共産化阻止こそが、この地域の最重要課題であった。これに対してイギリスにとって重要だったのはマラヤをはじめとする帝国防衛であり、また中立志向の強いインドをはじめ英連邦諸国とも調和するような地域秩序が好ましかった。そこに「反共・南ベトナム中心」というアメリカ主導の冷戦体制とは異なる、もうひとつのアジア秩序の可能性が存在したと見る向きもあろう。それは知的刺激に富むものではあっても、1970年代の「スエズ以東からの撤退」に至るイギリス退場の潮流にあっては、どれほど実現の可能性があったか疑問が拭えないものではあるのだが。
同盟の背後にある地域秩序構想の差異というテーマは、今日の日本にとっても示唆的である。鳩山民主党政権が「緊密で対等な日米関係」を掲げるのであれば、もうひとつの看板である「アジア共同体」と併せて、どのようなアジアの未来像を志向しているのかという疑問に答えなくてはなるまい。日本はそれだけ地域秩序の行方に責任を持つ存在だからである。英米関係を広く戦後アジア国際政治に位置づけて解き明かした本書は、同盟を単なる二国間関係ではなく地域秩序の中で考えるという、今日の日本外交に最も必要なチャレンジに、強くかつ豊穣な知的刺激を与えるものなのである。