米国のサブプライムローン問題に端を発した米国の金融危機は世界的な広がりを見せ、今年9月15日のリーマンブラザーズ破綻をきっかけに、1929年の大恐慌以来の世界の金融危機にまで発展した。現在、世界の主要経済国の政府は、金融安定化のための協調的な行動をとっており、10月10日にはG7(7カ国財務相・中央銀行総裁会議)が「緊急かつ例外的な行動を必要としている」と位置づけ、金融システムと市場の安定への「あらゆる利用可能な手段を活用する」ことで合意した。さらに11月15日にも、米国で緊急金融サミット(G7)が予定されている。
このような金融・経済における世界の激震は、ユーラシアの地政学にも、大きな影響を与えていることが、今月のユーラシアの各地域レポートから窺われる。ポイントは、今回の金融危機の震源地である米国の世界への信用と指導力が大きく低下したことだ。これまでは圧倒的な軍事力の優位性を持ち、世界の地政学的な安定の基盤となっていきた米国も、中東や南西アジアでの混乱に加え、金融・経済面での弱さを露呈したことは、米国一極支配の終焉と世界が多極化に向かうという方向性を全世界に印象付けた。
米ロ関係は改善方向に
筆者(渡部研究員)の米国分析レポート では、金融危機をきっかけに、多国間協調的な外交を志向するオバマ候補が優位に立ち、大統領選を制する流れをつくりだしたことを指摘している。指導力の低下した米国は、ロシアや中国を含む、主要経済国との協調的な行動が不可欠で、次期政権ではブッシュ政権初期の単独行動主義からの決別は必至である。また父親がケニア人のイスラム教徒で、フセインというミドルネームを持つ、オバマ新大統領が、イラクからの米軍の撤退などをきっかけに、中東における米国のネガティブなイメージを払拭し、イスラム圏との関係改善に動いていく期待も紹介した。しかも、オバマ候補は、「イランの核問題の解決には、ロシアや中国の協力が必要」との認識を持っているため、ロシアや中国との協力関係も継続していくと指摘されている。ただし、財政的な制約から、米国の世界でのリーダーシップには、大きな制限があることは、大きな懸念材料といえる。
これに対応して、 畔蒜研究員のロシア分析レポート でも、世界の金融危機を境に、8月のグルジア紛争をきっかけにした「米ロ冷戦の復活」という論評がロシア内で影を潜めたことが指摘されている。EUもロシアとの包括的パートナーシップ協定の締結交渉再開を視野にいれ、米国も対ロ関係改善にシグナルを送っている。畔蒜氏は、米国新政権は、イラク、アフガン、イランというブッシュ政権の負の遺産をそのまま引き継いだ上に、国際秩序のパラダイムシフトの可能性をはらむ金融危機を抱えている状況でロシアとの地政学ゲームに関わっている状況ではないと指摘。10月16日に、ロシアを訪問したバーマン米下院外交委員会委員長は「米国とロシアは、グルジア他の問題を巡る立場の違いにもかかわらず、グローバルな脅威に立ち向かうべく、協力しなければならない」という声明を発している。金融危機の影響で石油価格が急落したことで、将来の経済成長に陰りがみえてきたロシアも同様で、米ロ関係は、グルジア紛争以前に締結された「米ロ戦略的枠組み」に沿って、安定化の方向に向かっていくだろうと畔蒜氏は指摘している。
経済不安がもたらす中東社会への負の影響
佐々木主任研究員の中東レポート では、石油価格の値上がりによる産油国のバブルの発生と金融危機による経済成長の冷却化により引き起こされる中東諸国の社会不安に懸念が表明されている。
佐々木氏は、湾岸の産油国における社会的な矛盾を具体的に指摘している。UAE(アラブ首長国連邦)等の産油国の湾岸諸国では、人口100万程度の少ない人口に不釣合いな巨額な石油やガスの収入があるため、商業、社会サービス、工業部門や政府の仕事にまで外国人の雇用が一般化している。そのため、エネルギー価格の高騰とドルの下落によるインフレ現象が、ドルと実質的に為替レートが連動している湾岸諸国通貨で給与を受け取っている外国人出稼ぎ労働者の生活を困窮させ、不満の増大が社会不安の一因になっている。サウジアラビアは、湾岸諸国の中では例外的に2000万人程の人口を抱えるが、同時に、外国人が携わる単純労働に従事できない(したくない)自国民の雇用が狭められ、失業した自国民が現状の不満からイスラム原理主義の活動に関心を持つようになっている。
そして、すでに不安定な社会状況の上に金融危機が襲ったことで、矛盾を抱えた社会にさらなる問題を生み出していくと、佐々木氏は指摘する。非産油国の他のアラブ諸国も含め、金融危機による雇用の減少は社会への不満を増大させ、過激なイスラム運動への支持者が増加し、残虐な過激主義者に違和感を持つものも穏健なイスラム主義への傾斜を強め、世俗的な考え方を持つ人口を低下させているようだ。
アフガニスタンとイラクで継続する戦闘、イランの核開発といった地政学上の火種をすでに十分すぎるほど抱えている中東・イスラム圏にとって、社会不安をもたらす金融危機の影響は、地域のリスクをさらに高めることになろう。
米国の一極支配の終焉を見据えるインドと危機が続くパキスタン
益田研究員による南西アジア分析レポート では、金融市場が政府の厳しい規制の対象になっていることから、直接に大きな影響を受けないが、米国の大手金融機関を顧客にしている国内のIT企業等が痛手を被る可能性や、世界の景気の原則により、これまで高い成長を続けてきたインド経済にブレーキがかかることが避けられないことが指摘されている。ただし経済専門家の見方としては、インド経済は減速するとはいえ、7-8パーセントの経済成長は期待できるという比較的楽観的な見方が多いようだ。(高金利と高インフレは継続すると予想されているが)
益田氏は、米印原子力協力協定について、インドの経済の拡大への寄与だけでなく、米欧との関係が強化され、EU、日本、ロシアなどの対インド投資にも一段と弾みがつくと指摘している。特に経済面よりも地政学的な意味で、この協定は意味がある。これにより、インドは正式に世界の核保有国として認知され、原子力燃料の供給も保障されるからだ。
そして、協定が米国とインドの長期的な戦略関係に大きく寄与することは確かであり、益田氏は、「ブッシュ政権にとっては数少ない外交的な成功」と指摘している。、 ロシア分析レポート で、畔蒜氏が指摘しているとおり、米ロの原子力協定も進展が期待され、日本も巻き込んだ、今後の世界の原子力ビジネスをめぐる活発な再編は、ユーラシア情勢の重要な要素となっていくことは間違いないだろう。
森尻研究員のインド分析レポート は、10月22日の麻生首相とシン首相の会談で合意したインド海軍と海上自衛隊との相互交流などの安全保障上の連携強化の意義を、対中けん制といった短絡的な要素ではなく、米国の南アジアと中東での一極支配の崩壊を敏感に受け止めた結果の判断だと評価している。それゆえに、日本が米印原子力協力協定についての協力を、NPT(核非拡散条約)非加盟を理由に断ったことも、インド国内では織り込み済みのこととされ、「むしろ今回の日印首脳会談の目的は戦略的パートナーシップ、特に防衛戦略の緊密化にある」というインドの主要紙「ザ・ヒンドゥ」の10月20日付の記事を紹介する。
森尻氏が指摘するインドの米国一極支配後に向けた布石の一つは、総工費7400万ドルと見込まれるイランからの天然ガス新パイプライン建設の要請がある。10月の27、28日には、パキスタンの首都イスラマバードで、アフガン、パキスタン大会が開催されている。第一回会議は、2007年8年にブッシュ大統領の提案によって開かれたが、今回は両国の少数派の強い意向によって成立している。そして、この会議にあわせたかのように、ブッシュ政権は、はじめてアフガニスタンにおける反米勢力の中心のタリバンと対話するという表明をしている。このようなことは、第一期ブッシュ政権には考えられなかった事態であり、米国の一極支配の終焉と柔軟な外交政策への転換を物語る。すでに南アジアのゲームのルールは大きく変貌しているようだ。
地政学リスクで気になるのは、インド内のイスラム過激派によるテロが頻発していることだ。そして、インド治安当局がテロの背後にパキスタンの存在をちらつかせ始めていることで、ムシャラフ前パキスタン大統領時代に改善した印パ関係への悪影響を、益田研究員は懸念している。しかも 益田氏の9月の分析レポート で指摘されているように、イスラム教過激派が活発に活動するパキスタンの政情は依然として不安定である。それに加えて、今回の金融危機により国家の債務履行(デフォールト)の危機が懸念されている。森尻氏は、10月22日にはパキスタンはIMFに緊急融資の要請をし、インドがその実現に協力すると表明し、ドイツもパキスタンへの支援は緊急を要するものだという声明を題していることを指摘する。パキスタン経済の破たんはインド経済に大きな悪影響をもたらすという懸念を共有しているからだ。
現時点で、世界が懸命に支えてはいるが、金融危機がもたらす負の影響が地政学リスクに直接影響する国家があるとすれば、それはとりもなおさずパキスタンということになろう。
日中が支えるドル機軸体制
東アジア分析レポート において関山研究員は、東アジア諸国は金融不安から直接的な影響を受けているというよりも、世界的な資源エネルギーや食糧価格の高騰で内需が弱含んでいたところに、米国の景気後退の間接的な影響が襲うという構図で事態を俯瞰している。したがって、米国の景気後退はこれから本格化するため、むしろ東アジアへの実体経済に与える影響は、今後本格化するとの予測がなされている。
底の見えない世界経済にあって中国がその下支えの期待を担っていると関山氏は指摘するが、中国経済の内需は底堅く、今年後半から来年にかけてもおおよそ9%の成長を維持していくと予想される。同時に、金融危機の影響もあり、短期的な投機資金が国外に流出していることで、株価や不動産価格が暴落しており、消費や投資への減退につながるという経済への悪影響へのリスクも存在している。
関山氏が重要視するのは、世界の金融の安定化のために、中国と日本が、ドル機軸態勢維持に向け両国が努力し、11月15日の米国での緊急金融サミット(G7)に向けて協調することで一致した意義である。中国国内の消費や投資への意欲は依然として力強く、世界経済の牽引車として期待が高く、日本は、約15兆ドルの個人金融資産を有し、豊富な資金力によって世界の経済金融の安定化に貢献することが期待されているからだ。
また日本は米国債の最大保有国で5934億ドル(2008年7月末現在)を保有し、中国は第二位の保有国で5187億ドル(日本と同時期)を保有しており、日中は米国の金融や通過の信認に大きな影響を及ぼすことになる。
米国のオバマ新政権は、ブッシュ政権の初期にみられた日米同盟で中国に対峙していくという立場ではなく、むしろ日米中の多国間の協力体制で、北朝鮮などの地域の地政学リスクを管理(マネージ)しようと考える傾向にある。世界的な金融危機は、中国との経済協力の重要性を増し、ますますそのような傾向を高めていくことになろう。
ユーラシアへの地政学への金融危機の影響を俯瞰すれば、中東地域をはじめとして地域における経済や社会の不安定さを加速させ、紛争やテロの温床をつくりだすような負の影響がでてくると同時に、深刻な危機感を共有した主要国の指導者層が多国間の協調を模索し、多国間の協調外交の機運が高まるという正の部分も見られる。それは米国の一極支配構造の終焉の裏返しでもある。しかし、金融危機やそれに続く景気後退の対処に失敗した場合の地政学的なリスクは大きく、ユーラシア情勢も依然として緊張の中にあることは忘れてはいけないだろう。
以上