鶴岡路人 研究員
武力行使論から化学兵器廃棄へ
アサド政権と各種反政府勢力との間で内戦状態に陥ったシリアにおいて、2013年8月21日の攻撃で化学兵器が大規模に使用され、多数の市民が死亡した事件は、国際的アジェンダとしてのシリア危機の位置づけを大きく変えることになった。約一年前にオバマ米大統領が自ら設定した「レッド・ライン」が踏み越えられてしまったのである。
それまでにもシリア国内で化学兵器が使用されたとされる事例は多数あったものの、その使用規模が今回は大きく異なっていた。これを受けて、英仏を中心に、アサド政権への懲罰的な武力行使を求める声が高まり、8月末にかけて、米英仏等による武力行使が一気に現実味を増した。
しかし、8月29日に英国議会下院が、武力行使への英国の参加承認につながる政府提出動議を否決し、武力行使への英国の参加の道が途絶えた。それを受け、今度はオバマ大統領が、米国でも武力行使に連邦議会の承認を求める方針を発表した。さらには、米欧主導の武力行使に強く反対するロシアが仲介に乗り出す形で、9月14日に、シリアの化学兵器破棄に関する米露合意が成立し、武力行使が当面回避された格好になったことは周知のとおりである。2014年前半中の化学兵器廃棄のスケジュールが示され、国連安保理決議も成立した。しかし、実際に問題が解決されることになるかは、現時点では不透明である。
ここまでの欧州の受け止め方を、若干単純化して時系列で整理すれば、(1)化学兵器の大規模な使用に衝撃を受け、(2)何らかの強い対応が必要だとの声が(少なくとも英仏の政府レベルでは)高まったものの、(3)武力行使への世論の支持は集まらず、(4)議会や政府が躊躇している間に、米露合意が成立し、武力行使に伴うリスクを回避できたという意味で一安心ではあったが、(5)化学兵器の使用を罰することができなかったことへの問題意識は残り、(6)同時に、ロシアの役割のみならず米国の対応に翻弄された徒労感が加わった、ということになろう。
これを国際政治のより大きな流れの中で考えてみた場合、いま問われているのは、1990年代以降の、世界各地での国際紛争、地域紛争等への、米欧諸国による軍事介入の時代が終焉したのか否かである。
紙一重の結果としての不介入
そもそも、米欧による介入の時代が終わったのではとの問が提起される背景には、それが国際社会にとって懸念すべき事態だとの前提があるのだろう。イラク戦争に代表される米国の介入主義への批判に鑑みれば、今日、米国の不介入主義が懸念されるとは、何とも皮肉である。とはいえ、米国が断固とした行動をとれないことへの懸念が高まる背景には、今日の国際社会が、依然として、場合によっては武力の行使を伴うリーダーシップを必要としており、その役割を果たすことが最も期待されているのが米国であるとの現実がある。そして米国とともに行動する可能性の最も高いのが欧州諸国である。
それでは、本当に米国、さらには欧州諸国による介入主義は消滅したのであろうか。今回の危機を時系列的に考えてみると、非常に小さな要素だけでも異なっていれば、まったく違う結論、すなわち、早期の武力行使に至っていた可能性の高かった事実が浮かびあがる。
まずは英国である。8月29日に英国議会下院は、英国が対シリアの武力行使に参加することに道を開く政府提出動議を否決した。これは動かし難い結果であるが、実際の議場での議論でも、原則論としての武力行使反対の意見が多数を占めたわけではなかった。行動する責任を雄弁に訴える議員も少なくなかったのである。人道的使命感や、国際規範維持の必要性を訴える発言は、国際社会における英国の役割を背負う気迫に満ちたものでもあった。
また、票決に関しても、与党保守党から30名の議員が反対票を投じたが、このうち、10数名でも反対ではなく棄権に回っただけで、政府動議は可決されていたのである。政権与党として、党所属の国会議員を、政府の方針に従わせられるか否かは、外交・安全保障問題である以前に、党首の党運営、党内リーダーシップの問題であろう。加えて、今回反対に回った議員の一定数は、シリア問題如何にかかわらず、キャメロン首相に日常的に反旗を翻す、いわば確信犯的な党内抵抗勢力である。
このように考えれば、英議会の議決に今回反映された英国政治の意思として、どこまで強固に、軍事力の行使に反対なのか、そして特に、今回のような判断が他のケースにおいても繰り返されるかは不明確であることが分かる。少なくとも、議会での議論は、介入反対一色とはほど遠かったうえ、投票結果が判明するまで、各種メディアも政府動議は僅差ではあっても可決されると予測していた。最大野党の労働党が反対にまわったのも、強固な既定路線だったわけではなく、党内力学の結果であった。労働党が、政府動議への対案として自らの動議を議会に提出したことも、意外感をもって受け止められたのである。
そして、その後の米国の対応について、オバマ政権の優柔不断ぶりを批判する声が、内外で高まっているのは事実である。英国議会の議決の2日後の8月31日にオバマ大統領は、米国として武力行使すべきと決定したと述べつつ、そのために連邦議会の承認を求めるとした。しかし、そもそも英国が夏休みを中断してまで8月29日に議会を招集した背景には、その週末(8月31日、9月1日)に開始の想定で、米主導で武力行使の準備が進められていたとの事情がある。実際それまでに、必要な軍の配置は完了していた。英国としては、武力行使開始前に議会の承認を得る政治的必要があったため、急遽、議会を招集せざるを得なかったのである。この決定にあたって、英国政府は、相当に確度の高い情報を米国から得ており、そのスケジュールに沿って行動したと考えるのが常識的であろう。
ここから先は「もし」の議論になるが、仮に、8月29日に英国議会が武力行使への英国の参加を承認していたら――しかも、当初の政府側想定のように、第2回の動議を必要としない形で可決されていたら――、おそらく武力行使は予定通りに米国主導で、それに英国及びフランス等が参加する形で、早ければその週末にも行われていたのであろう。オバマ大統領が、連邦議会の承認を得るという行動に出ることも、おそらくなかったであろう。しかも、フランスのオランド大統領は、英国議会の議決やオバマ政権の決定を受けてもなお、懲罰的な武力行使の必要性を声高に主張し続けたのである。オバマ大統領自身、結局は武力行使に後ろ向きで、躊躇したのは事実であろう。しかし、特に民主主義国家の指導者にとって、武力行使は常に苦渋の選択である。
結局のところ、実際に武力行使が行われた可能性と、実際に起こったことの差は紙一重であった。そのため、米欧の介入主義が死に絶えたとの最終的判断を下すことは、時期尚早なのではないか。
選択的介入の現実
それと関連して、そもそも米欧(西側)による介入は、今回に限らず、選択的なものにしかなり得ないとの現実がある。つまり、化学兵器が大規模に使用された重大な事態である「にもかかわらず」介入を控えたのではなく、シリアの内戦「だったからこそ」、介入を見送ったと理解する方が、よりバランスがとれているようにみえる。つまり、冷徹な現実として、シリアには、武力行使に踏み切るほどの利害がないと判断されたのである。
介入の対象とならない、いわば見捨てられた人道危機は、世界中でこれまでにも多数存在してきた。ルワンダで発生した虐殺はその最たる例である。シリアの内戦においても、すでに11万人から12万人が命を落としていると推定されている。軍事介入に関する今回の議論は化学兵器の大規模な使用が引き金になったわけだが、人道主義の立場を貫くのであれば、化学兵器の使用以前から、10万人以上が犠牲になっている紛争を放置すべきではない。化学兵器が廃棄されればそれで問題が解決するわけでもない。数だけで考えれば、シリアの内戦では、化学兵器以外による犠牲者が圧倒的に多いのである。
今回、英国議会下院の議論を含めて、国際社会において最も重視されたのは、化学兵器禁止という世界的な規範を維持しなければならない、そのために今回シリアで起きたようなことは認められないとの議論であった。そして、軍事力行使の目的は、今後アサド政権が再び化学兵器を使用することのないようにするための、能力の破壊と抑止に限定されていた。米国も英国も、地上軍の派遣は明確に否定していた。ケリー米国務長官にいたっては、ロンドンでの記者会見で「信じられないほど小規模(unbelievably small)」な軍事作戦だと強調していたのである。この表現は、関係者の間で語り草になっている。
「国際規範のために立ち上がる」といえば、何とも崇高な響きがあるものの、武力行使に伴うリスクや人的、財政的負担という現実に鑑みれば、各国の国内政治において、自動的な支持が得られるわけではない。今回、シリアに関しては、安保理決議がないなかで、例えば英国において、法的根拠としては、人道的介入が援用されたものの、自衛権の行使等に比べて脆弱な根拠であったことは明らかである。実際、10月5日に米国は、テロリスト拘束のために、リビアとソマリアでそれぞれ特殊部隊による作戦を実施している。シリアへの攻撃には躊躇したとしても、対テロを含めた自衛の観点からより重要性と緊急性の高いものに関しては、特殊部隊の派遣を含めて、今後とも行動を続けるというのが、米国の変わらぬ方針なのであろう。
選択的介入ということであれば、その基準が焦点になるが、これは客観的なものにはなり得ない。常に可変なのである。そして、介入にコストが伴う以上、介入する側は、(人道的側面を含めて)自国の利害の観点で判断する以外にないのである。「保護する責任」にしても、その「責任」を履行するか否かは各国――しかも国内状況――次第なのであり、責任をとらせる強制力は存在しない。これは、シリア危機の前も後も変わらぬ国際社会の現実、リアリズムである。
不可避的介入の現実
他方で、米欧諸国は、どの紛争に介入し、どれには介入しないかという判断を、どこまで主体的に行えるのかという問題もある。例えばアフガニスタンでの作戦も、自ら好んで実施しているとはいい難い。リビアへの介入にしても、作戦開始の直前まで、まさかあのような形で各国やNATOが関与することになるとは考えられていなかったのである。NATOにおいては、第二のアフガニスタンはないとの見方が広がっているが、これは、あくまでも、「アフガニスタンのような作戦は二度と実施したくない」という願望を示すものであって、類似の問題が発生した場合に、実際にNATOが関与を免れるか否かは別問題である。この差異には注意が必要である。
特に、(1)(シリアでは欠けていた)国連安保理決議が存在し、(2)介入対象国の市民や主要勢力からの要請があり、(3)地域の国際的枠組み(例えばリビアの場合はアラブ連盟)や周辺諸国からの要請があり、(4)安全保障上及び人道上の大義・利害に合致し、(5)目的が明確で軍事能力に照らして実施可能な規模の作戦が想定され、(6)米欧の他にそれを実施できる能力を有する諸国・機関がない場合に、米欧諸国が介入を回避し続けるのは、容易ではない。ただし、(5)に関しては、大規模な地上軍の派遣の敷居が高まっているのは事実であり、リビアのような空爆主体の作戦が選ばれるようになっている。
アフガニスタンとリビアは、当初は意図しなかったはずの介入、ないし意図したのとは異なる規模の作戦に、米欧諸国(やNATO)が関与することになった事例であり、今後そのような事態が繰り返されないと、確信をもって述べることはできないのである。将来の介入の場所と形態は予測できない、というのがこれまでの経験から得られた教訓なのではないか。
軍事介入への敷居の上昇
それでも、米欧諸国による軍事介入への敷居が上昇傾向にあるのは事実であろう。その原因の第一は、「アフガニスタン疲れ」である。上述のように、二度と同じようなものに関与したくないとの感情が、一般国民のみならず各国政府部内にも広がっている。第二に、この傾向に拍車をかけているのが、各国の厳しい財政状況である。国防予算が削られるなか、新たな介入、しかも遠隔地での作戦に、財政面から消極的な声が増大している。今回の米国の姿勢に関しても、国防予算の強制削減措置が続くなかで、財政面での考慮が作用したのではないかとの声がある。実際それが、相対的にどの程度の決定要因だったかは別にしても、そのように認識されたという現実は動かし難い。
第三は、イラクにおける失敗の教訓である。8月29日の英議会下院の議論で顕著だったのは、イラクと同じ失敗を繰り返してはならないとの強い思いであった。現象面でいえば、それはまず、情報機関の分析、およびそれに基づく政府の判断への信頼性の低下である。イラクが大量破壊兵器を開発・保持しているとの誤った情報がイラク戦争の開戦につながったことへの反動である。今回は化学兵器の使用が反政府勢力によるものではなく、アサド政権側によるものであったことの、より強固な確証が求められた。加えて、武力行使をした場合の周辺諸国への影響を事前に精査すること、さらには、最終的な政治目標、そしてそこに至る政治プロセスを明確にすることの必要性が強調された。
また、国連安保理決議の重要性も、イラクの教訓の一部といえる。ロシアと中国が拒否権を有していることに鑑みれば、米欧ともに、安保理決議なしの行動を全否定するわけにはいかない。しかし、対中、対ロ関係以前の問題として、米欧諸国の国内、特に各国議会において、軍事介入への支持を取り付けるにあたって、安保理決議の有無が、これまで以上に重要になってきていることは否定できない。
これらを総合すれば、米欧諸国による対外的な軍事介入への敷居は上昇しているものの、それが将来の介入を不可能にするほどまでに上昇したかは未確定であり、介入主義の終焉を宣告するのは時期尚早という結論になる。これからも、選択的には介入するであろうし、好まなくとも介入せざるを得ない紛争が発生する可能性も否定できない。介入と不介入、結果がどちらになるかは、さまざまな要素が作用するなか、紙一重で決まる。シリア危機への対応は興味深い事例だが、それだけでは、米欧による介入主義の行方を断定することはできない。だからこそ、今後もこれらの問題から目が離せないのである。