鶴岡路人
主任研究員
イギリス時間2020年12月31日午後11時(ブリュッセル時間2021年1月1日午前0時)、イギリスの欧州連合(EU)離脱に伴う移行期間が終了し、ここにBrexitのプロセスは完了した。離脱後の両者の関係を規定する協定は、交渉が難航し、妥結にいたったのは12月24日、クリスマスイブの午後だった。結果として関係者のクリスマス休暇は完全に消えたが、日本を含めた世界はこの知らせに安堵した。国際情勢における不確定要素が一つ回避されたからである。
最終的に締結されたEUとイギリスの貿易・協力協定(Trade and Cooperation Agreement: TCA)の中身や、2021年1月以降のEU・イギリス関係の現状、そして今後の展望に関する論点は無数に存在するが、以下では4つのポイントに絞り、全体像を把握する手助けとしたい。
(1)EUとの交渉においてイギリス側では「主権」を取り戻すことが自己目的化し、経済的には高い代償を払うことになり、(2)その最大の結果の一つが貿易障壁の再建であった。(3)同時に北アイルランドはEU側に押しやられることになった。しかし、根本部分を変えることは当面難しくても、(4)今回合意されたEU・イギリス関係がそのまま永続するわけではなく、関係は今後、両者の変化に伴って変化し続ける。順にみていこう。
1 自己目的化した「主権」の取り戻し
EUとの交渉でイギリス側が何よりも重視したのは、「主権」を取り戻すことだった。この観点では、EU司法裁判所の管轄権を認めないことや、EUへの多額の拠出金を終わらせることなども求められたが、最も重要なのは、経済規制でEUに縛られないことだった。EU側は「公正な競争条件(level playing field: LPF)」を確保する観点で、EU規制からの逸脱(divergence)、特に引き下げを警戒し、当初はEUの規制の変化にイギリス側も合わせるべきだとの主張を行っていた。しかし、それを受け入れては、EUを離脱した意味がないというのが、イギリス側の反応だった。当然であろう。
この問題は結局、双方が譲歩し、どちらかに規制・規則の変更が生じ、市場の均衡を乱すような場合には、再均衡措置(rebalancing measure)がとられることで合意された。EUとイギリスの「いずれの」変更でも発動し得る点と、制裁といった言葉が省かれたことにより、TCA妥結への道が開かれた。
ただし、イギリスが実際にどのような分野でEU規制からの逸脱を欲しているのかは不明である。環境や労働者保護、食品安全性などでの基準切り下げがEU側からは警戒されてきたものの、イギリス国内では、EU離脱派・残留派ともに、そうした方向への支持は低いのが実情である[1]。保守党の一部には、極端な規制緩和派がいるが、政府全体としては、手にした自由で何をするか、「これから考える」のが実態であろう。
メイ政権で、経済的損失を少なくするためのより穏健な「ソフト離脱」を模索したハモンド元財務相は、「(EUから)逸脱するための名目上の権利を、実際にはどうせ使わないのに、高い経済的コストを払って手にした[2]」と批判している。本来手段であるはずの「主権を取り戻す」は、完全に自己目的化し、しかも、EUとの交渉における最重要・最優先の目的になってしまったのである。
それでも、ジョンソン政権は、主権を取り戻したと主張できる内容になったからこそ合意を受け入れることができたことを忘れてはならない。12月30日のイギリス議会下院での審議で野党労働党のスターマー党首が述べたように、「薄っぺらな合意でも『合意なき』よりはよい[3]」のであり、TCAは多数が受け入れ可能な妥協点だった。
2 貿易障壁の人為的な再建としてのBrexit
そうした状況の犠牲となったのが、イギリスとEUとの間の貿易である。2021年1月1日以降、さっそく問題が各地で発生している。TCA合意を受けてジョンソン首相は、「関税なし、数量制限なし」を強調し、「非関税障壁もない[4]」と主張したが、これは明らかに虚偽の主張であった。
というのも、たとえ関税が課されなかったとしても、そもそも通常の国境のチェックポイントは、関税徴収のためのみに存在するのではない。食品の衛生基準を含む動植物検疫はもちろんのこと、工業製品に関する適合性検査、原産地規則など、検査事項は数多い。実際に全ての積み荷をその都度検査するわけではないが、多数の書類が必要になる。EUの単一市場、関税同盟からの離脱とは、端的にいって、貿易に対する障壁の再建だった。
問題は、今回のTCAは極めて厳しい「ハード離脱」であったにも関わらず、ジョンソン首相をはじめとする政治指導者はそれをなかば隠し、その結果、国民の多くがその現実に気づいていなかったことである[5]。そのため、1月以降に発生している問題の多くが「想定外」の混乱であるかのように受け止められている。しかし、そのほとんどは、イギリス自身の選択の結果として、完全に想定されていたものであった。
加えて、合意が遅れたために、新たな制度の構築と、輸出業者、物流業者の側での対応が間に合わなかったのである。結果として、スコットランドの海産物のEUへの輸出が滞るなどの混乱が、年明けすぐに発生した。
経済規模的により大きな影響を受けているのが北アイルランドである。EU・イギリス間の離脱協定の議定書により、北アイルランドは、モノに関する限りEU単一市場と関税同盟に事実上残留した形になっている[6]。北アイルランド和平の柱である南北アイルランド(北アイルランドとアイルランド共和国)国交の自由な往来を保証するためである。その結果、英本土(グレート・ブリテン島)と北アイルランドの間のアイリッシュ海には、イギリス国内でありながらチェックポイントが設けられた。この手続きへの対応が、大手業者ですら間に合わず、北アイルランドでは、スーパーマーケットで生鮮食料品が不足するなどの事態が発生した。
問題をさらに複雑化させているのが、――これも予め分かっていたことであり、決して想定外ではないが――TCAによる原産地規則の規定である。EUからイギリスに輸入されたものを、そのままEUに「再輸出」する場合には、英産品とは認められず、原則として関税がかかる。多くの業者は、EUから輸入した商品をイギリス経由で北アイルランド、さらにはアイルランドに供給している。こうしたサプライチェーン自体が、変更を迫られることになる。
イギリスとの交渉をEU側で取り仕切ったバルニエ氏は、これらはイギリス側が望んだことであり、「新常態[7]」だと突き放している。完全に正論という他ない。EUの単一市場と関税同盟を離脱し、さまざまなEU基準からも逸脱することを決めた以上、貿易には壁が立ちはだかる。繰り返しになるが、こうした「ハードBrexit」を望んだのはイギリスの側である。
1月に入ってからの混乱の責任を問う声の矛先は、これまでのところ、ジョンソン政権に向かっている。例えば、スコットランドの水産関係者は政府に補償を求めている。一方で、オランダ国境でイギリス人運転手が、所持していたハムやチーズ入りのサンドウィッチを没収されるなどの事例も報じられている[8]。これも、各種規則の適正な運用に過ぎないものの、こうした話題が続いた場合、イギリス世論が、EUは「やり過ぎだ」「イギリスに対して嫌がらせをしている」というEU批判に転じる可能性は常に存在している。それこそ、ジョンソン政権が狙っているものでもあろう。
政治問題化の火種は常に存在するが、現実問題としては、通関、検疫などの書類やその申請システムの効率化は、いずれにしても急務であり、これはEUとイギリスの双方の利益に資するものである。当面はそれが大きな課題になるだろう。加えて、EUとの間で再輸出などに関する手続きの簡略化が可能になるかは、第三国になってしまったイギリスの働きかけよりも、EU加盟国であるアイルランドの働きかけの方が効果が大きい。アイルランドの出方が注目される。
3 EU側に押しやられる北アイルランド
今回のBrexit完了を受け、「連合王国(Union)離れ」がより確実に進むのは北アイルランドであろう。スコットランド独立問題よりも喫緊の問題である。
イギリス国内であるにも関わらず、上記の再輸出問題が北アイルランドで発生しているのは、北アイルランドが英本土からいわば切り離された形で、EU経済圏に事実上入っているからである。法的にはEU単一市場・関税同盟の一部ではなく、イギリスの一部だが、実態上、北アイルランドはEUに残留したような形になった。経済的なアイデンティティに関して、イギリスからの乖離とアイルランドへの接近という傾向が強まることは確実である。
次の焦点は、経済面でのアイデンティティが、政治面に広がるか否かである。もちろん、1998年にようやく和平合意が成立した北アイルランド紛争の歴史は軽視できない。それでも、今日、北アイルランド住民の半数ほどがアイルランド共和国のパスポートを保持している現実がある。彼らは――そしてそれ以外の北アイルランド住民も、アイルランドのパスポートを申請し取得すれば――今後とも、EUにおける人の自由移動の恩恵を享受できる立場にある。
関連して、イギリスが離脱を決定したEU規模での学生や教員・研究者の交換プログラムであるERASMUS+(エラスムス・プラス)に関しては、アイルランド政府が、北アイルランドの学生の参加分の費用負担をする方向と伝えられる[9]。広くヨーロッパで活躍する北アイルランド人がさらに増えることになる。
同時に、世代交代が進むにつれ、イギリスとの連合を重視するユニオニスト勢力も縮小傾向にある。そうしたなかで、アイルランド統一への流れが強まることは、十分に予測できるだろう。最終的には、北アイルランドとアイルランドの双方での住民投票・国民投票が必要になる。これは短期的アジェンダではなく、紆余曲折も予想される。しかし、そうした将来の可能性への備えを始めることが急務になっている[10]。
スコットランドが独立した場合には、独立国家としてEUに加盟申請を行う必要があり、その場合は、イギリス(イングランド)との間にハードな国境が出現せざるを得なくなるなど、容易には解決し得ない問題が出現する。それに比べれば、北アイルランドの場合は、独立ではなく、アイルランドとの統一であり、他のEU加盟国が承認する限りにおいて、自動的にEU加盟国(の一部)になる。連合王国離脱に関して、北アイルランドの方がハードルが格段に低い所以である。この、いわば「パンドラの箱」を開いてしまったのも、今回のBrexitである。
4 今後も変化し続けるEU・イギリス関係
こうしたスタートを切ったEU・イギリス関係だが、これがそのままの形で長期にわたって継続するとは限らない点を忘れてはならない。TCAは両者の関係の最終形態ではない。最初の枠組みに過ぎない。
今回合意されたTCAは、現在の政治的・経済的状況の下で唯一可能だったものだが、今後さまざまな課題が浮上し、それらに対応するなかで、両者の関係も変容するはずである。TCAの協定文自体が再交渉される可能性は当面ないとしても、分野ごとに新たな合意が締結されることはあるだろう。さらにTCA自体にも5年ごとに履行状況をレビューする規定が挿入されている他、金融規制に関する同等性評価など、TCAと並行してEU・イギリス関係を構成していく分野も存在している。金融以外のサービス分野、さらにはデータやデジタルといった新たな分野において、どのような関係を構築するかの課題も残されたままである。このことは、EUと英国の間で、今後もさまざまな交渉が継続することを意味している。
これを、「Brexitは終わらない」と表現することも可能であろう。本来存在していなかった課題に引き続き取り組まなければならないという観点では、まさにBrexitの亡霊である。しかし、EUからの離脱と離脱後の関係構築の基盤の構築がひとまず完了した以上、これからの課題はBrexitではなく、EUとイギリスによる、両者にとって有益な新たな関係の構築である。その過程では、関係を再び強化する局面、分野も浮上するだろう。
新たな関係強化がどこまで進むかは、イギリス側の姿勢に規定される部分が大きい。というのも、より統合度合いの高い経済関係と「主権」の維持の間には、トレードオフの関係が存在し、TCAはイギリス側の事情に合わせる格好で限定的な内容にとどまったからである。
いずれにしても、今後も地理的に隣人であり続けるのがEUとイギリスであり、関係が自然に疎遠になっていくことはない。イギリスの貿易におけるEUの比重が低下したところで、イギリスが最も影響を受けるのはEUである。EUにとっても、イギリスが最も近しいパートナーである事実は変わらない。Brexitをめぐる敵対的な言説や感情が沈静化し、双方がより冷静になったとき、真に新たな関係構築がまた始まるのだろう。
[1] 例えば、National Centre for Social Research, British Social Attitudes 37, London, 2020 を参照。
[2] “How will Boris Johnson use Britain’s hard won ‘freedom’ from Brussels?” Financial Times, 1 January 2021.
[3] “Brexit: MPs overwhelmingly back post-Brexit deal with EU,” BBC, 30 December 2020.
[4] Gov.UK, “Prime Minister's statement on EU negotiations,” 24 December 2020.
[5] Charles Grant, “Ten Reflections on a Sovereign-First Brexit,” Insight, Centre for European Reform, 28 December 2020.
[6] 詳しくは、鶴岡路人『EU離脱――イギリスとヨーロッパの地殻変動』(ちくま新書、2020年)、第5章参照。
[7] “Barnier warns post-Brexit border friction is the new normal,” Financial Times, 14 January 2021.
[8] “Dutch officials seize ham sandwiches of drivers arriving from UK,” The Guardian, 11 January 2021.
[9] “Govt to fund Erasmus+ scheme for Northern Ireland students,” RTÉ, 26 December 2020.
[10] Brendan O'Leary, “A referendum on Irish unity is coming, whether we like it or not,” The Irish Times, 11 January 2021.
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