鶴岡路人
主任研究員
日英両国政府は2020年10月23日に、日英包括的経済連携協定(CEPA:以下、日英EPA[1])に署名し、2021年1月1日の発効が実現する見通しとなった。長引くコロナ危機の影響により、オンラインでの署名なども検討されたようだが、英国のリズ・トラス国際貿易相が来日しての対面での署名式となった。トラス氏の来日自体、今回の協定にかける英ジョンソン政権の意気込みを示すものだった。
日本側では、英国とのEPAの承認が、10月26日に召集された臨時国会の重要アジェンダの一つになっている。実質的な交渉は安倍前政権下で行われ、9月の大筋合意に漕ぎつけたものの、菅政権下での最初に実現するEPAとなる。
そこで以下では、日英合意の内容を概観した上で、日英双方にとっての意味、そして、今回の日英EPAが有する、貿易面を超える戦略的意義を検討することにしたい。
・基本的には日EUのEPAに沿った日英合意 ・終始「冷めて」いた日本側 ・日本との協定の重要性が急上昇した英国側 ・日英EPAの戦略的意義 |
基本的には日EUのEPAに沿った日英合意
2019年2月から適用開始となった日EUの協定がEPA(経済連携協定)であるのに対して、今回合意された日英協定には、「包括的(comprehensive)」との形容詞が付き、略語もCEPAである。しかし、内容に大差はなく、日EU協定の内容の多くを受け継いだ、いわゆる置き換え協定(rollover agreement)だといえる。関税譲許などを含め一から全て交渉していたのでは、到底4カ月あまりの交渉で署名にたどり着くことはできなかった。
交渉の最終局面で英国側が強硬に要求したスティルトン・チーズの市場開放に関しても、結局、日EUのEPAで認められた関税割り当ての利用残が生じた場合に、英国産品にも同税率を適用する仕組みを設けるのみで決着している。日EUのEPA以上の譲歩を行わないとの日本側の基本方針が貫かれた結果であった。
ただし、日英の双方が強調するように、一部分野において日EU協定を越える内容になっている。関税に関しては、自動車や鉄道の一部部品にかかる関税の即時撤廃が合意された。また、原産地規則については、EU全体を日英EPA上の原産材料・生産の対象とする「拡張累積」の導入が合意された。サービス貿易や電子商取引に関しては、情報の越境移転の制限、コンピューター関連設備の設置要求、暗号情報の開示要求などを禁止する規定が設けられた他、ソース・コードの開示要求の禁止規定対象にアルゴリズムが追加されることになり、限定的とはいえ一定の前進がみられた[2]。
終始「冷めて」いた日本側
この交渉に臨む日本側は、当初から「冷めていた」のが実態である。というのも、日本はそもそも英国のEU離脱を望んでいなかった。そして英国がEUにとどまる限り、日英二国間のEPAなど必要なかった。しかも、日EUのEPAは2019年に適用が開始されたばかりであった。新たなFTA(自由貿易協定)交渉には多大な労力が必要であり、消極的だったことに驚きはない。
それでも、Brexitの経済的衝撃を少しでも和らげることは日本のためにも不可欠であり、EUと英国との間で定められた移行期間が終了する2020年末に間に合うように、新たな協定を目指すことになった。移行期間終了までは日EUのEPAが英国にも適用され続けることになっていたため、日英のEPA交渉は、基本的には、日EUのEPAに基づく現行の貿易条件を維持するためのものという性格だった。
ポジティブな側面があるとすれば、日本側には、EUとの交渉では実現しなかったものを達成するとの動機が存在した。自動車関税等に関して、EUとのEPAでは7年かけての段階的撤廃が規定されているが、即時撤廃を求める姿勢などが報道されてきた。国際貿易交渉におけるパワーが市場規模によって規定されるとすれば、EUよりは小さい日本も、より小さい英国に対しては優位に立てるはずだとの声もあった。
ただし、より条件のよい野心的な協定を目指すことと、移行期間終了に間に合わせることとの間にはトレードオフが存在した[3]。内容を拡充させるには時間がかかるからである。日本は、英国側が大きな譲歩をしないなかで、無理なく「間に合わせる」方を優先したのであろう。結果として、自動車関税の即時撤廃などは断念される形になった。ただし、現行の条件が悪化するわけではない。自動車についても、日EUのEPAと同様の規定により、2026年2月には関税撤廃が実現する。
なお、今回、時間の関係で積み残しとなった問題は、英国がCPTPP(環太平洋パートナーシップ)に参加する際の既存加盟国との二国間交渉時に取り上げるというのが、日本の理解である。その意味で、日英EPAとCPTPPという「二段階アプローチ」だったといえる。実際、原産地規則など、EUと英国との間のFTA交渉の結果如何では、日英間でさらなる調整が必要となる問題が発生し得る。
日本との協定の重要性が急上昇した英国側
英国にとっても日本との二国間協定は、特に目立つアジェンダだったわけではない。すでにEUによるEPAでカバーされていたため、日本との二国間協定は Brexit後の新たな飛躍のイメージには合致しなかった。当初英国側は、「合意なき離脱」の可能性を念頭に、日本に対し、日EUのEPAの条件を暫定的に維持するための継続協定(continuity agreement)の締結を求めた。
しかし結果として、日本はこの継続協定に応じなかった。 そのために、Brexitが実現した2020年2月以降に、新たなEPA交渉が必要になった。加えて2つの要因が日本とのEPAの重要性を引きあげた。
第1は、EUとのFTA交渉の難航である。ジョンソン政権は、「合意なき移行期間終了」を辞さないとの立場を繰り返し示すことでEUに圧力をかける戦術をとった。他国との交渉が順調に進んでいると示すことができれば、EUに対するメッセージとしても有用である。同時に、貿易関係におけるEUのシェアを引き下げ、「脱EU依存」を進めることも目指された。日英交渉はこの構図にフィットしたのである。
第2に、目玉とされた米国とのFTA交渉も停滞している。Brexitを支持するトランプ政権からは、当初極めて楽観的な見通しが語られていたが、現実には、食品の安全基準や医薬品市場の開放など、政治的・社会的にセンシティブな課題が山積みだった。ジョンソンとトランプという英米両国の指導者の個人的相性はよかったものの、こうした問題に関する立場の相違を乗り越えるのは容易ではなかった。
対EUと対米でともに躓いたジョンソン政権は、政権の能力と成果を国内に向けてもアピールする必要が生じた。日本との合意をまとめたトラス国際貿易相が、東京での署名式にあたり、「独立した英国では大型の貿易協定は結べないと言われてきたが、悲観的な見方は誤りだったことが証明された[4]」と高らかに宣言した背景には、そうした事情があった。また、国際貿易省のパンフレットは、「英国主導で形作られたこの協定は、英国経済向けに、EUの既存協定を超え、EUの一員であれば不可能だった大きな勝利を含んでいる[5]」と述べている。これも完全に国内向けの宣伝である。英国側は成果の売り込みに必死だった。ちなみに、日英EPAによる英GDP(国内総生産)の長期的な押し上げ効果は、英政府の試算で0.07%にとどまる[6]。
さらに、日英の大筋合意が発表された9月12日は、ジョンソン政権の提出した「国内市場法(Internal Market Bill)」がEUと英国との間の離脱協定の一部を反故にするものだったことから、EUと英国の関係が最悪の状態にまで陥っていたタイミングだった。英国側は、「日本とは合意できたが、頑なな姿勢をとるEUとは妥結できず、これは英国の責任ではない」というメッセージを発したかったのだろう。他方、英国内でも与党内を含め、同法案に反対する勢力は、「約束を破る英国は国際社会で信頼されなくなる」と政権批判をしていた。そうしたなかで、日本との大筋合意が発表されることになってしまった。日本側は、当然のことながら、「合意なき移行期間終了」も国際法を破る英国も全く望んでいなかった。しかし、英国において日英合意が政治的に利用されることを日本が防ぐのは困難だった。
加えて、EU関係者の間では、日本との協定で英国が何を合意したのかが憶測を呼び、なかでもEUとの間で争点となっている補助金(「公正な競争条件」)に関して、英国が 対EU以上のコミットメントを示したのではないかなどとの疑念も持たれた。日本側が当時、英国内の国内市場法反対派やEUに対して何らかの説明を行っていたかは不明だが、異なる立場のアクターそれぞれに対して適切な発信を行うことの重要性が改めて明らかになった事例だったといえる。
日英EPAの具体的事項に関しては、サービス貿易や電子商取引について 、限定的とはいえ日EUを超える合意が得られたことは、英国にとっても成果であった。さらに、自動車や鉄道部品に対する英側の輸入関税撤廃は、英国に進出した日系企業が直接的な受益者になるが、英国の観点では、これにより英国における自動車や鉄道車両の製造業の競争力が増し、雇用が確保されることが期待でき、英国の利益でもあるとの構図だった。
日英EPAの戦略的意義
こうして政治利用もされてきたEPAには、実際、政治的、さらには戦略的側面が存在する。これは、今回の日英EPAを評価するにあたって見逃してはならない。
第1は、Brexit後も日英関係が重要だというメッセージの発信である。日本にとって、自由や民主主義、法の支配などの価値を共有するのみならず 、東アジアを含むインド太平洋地域の安全保障への関与を強化し、さらには米国の強固な同盟国である英国は、重要さを増す戦略的パートナーである。日本がBrexitを望んでいなかったことは明白だが、EUを離脱しても日英関係は継続するし、安全保障・防衛面での協力はEUと関係のないものが多かったのも確かである。新たな日英関係を構築するにあたって重要な前提となる経済パートナーシップの基盤が、今回のEPAによって提供されたのである。
第2に、上述と関連し、英国としては、日本とのEPAをBrexit後の国家ビジョンである「グローバル・ブリテン」の成果として宣伝しつつ、日本としても、英国の外に開かれた姿勢の維持と、インド太平洋への関与拡大を後押しする意義があった。
第3に、日英EPAは英国のCPTPP参加への道を開くことになった。厳密に考えれば、日英EPAと英国のCPTPP参加の間に法的・具体的リンクがあるわけではない。それでも、二国間EPAの締結により、日本として英国をCPTPPに迎えるにあたってのハードルは極めて低くなった。実際、EPA署名の機会に、茂木敏充外相とトラス国際貿易相の間では、英国のCPTPP参加に日本が協力する旨の書簡が交換された[7]。これは法的拘束力を有するものではなく、しかも英国のCPTPP参加を歓迎するとの発信は、安倍晋三総理時代から繰り返し表明されており、内容的に新しいものでもなかった[8]。それでも、米国なきCPTPPにおいて最大の経済規模を誇る日本が、文書に残る形で、英国のTPP加入への協力を表明したことの意義は、象徴的には指摘できるだろう。
日英協力は、安全保障・防衛面を含めて近年その進展が目覚ましい。Brexitは確かに逆風であったが、その結果、日本との関係に対する英国の関心が高まったとすれば、当面、日英関係にとっては追い風だという評価も可能である。英空母クイーン・エリザベスは、インド太平洋への展開に加え、常駐の可能性まで取り沙汰されるようになった[9]。Brexitの結果、欧州以外の地域との関係の比重が高まったのである。英国の対外関係のリバランスだといってもよい。
日本はそうした動きを歓迎する立場にあるが、英国の側でも日本の側でも、そうした行動の結果として何を期待するかが明確だとはいいがたい[10]。今後は、互いの期待をいかにすり合わせることができるかが課題となる。そして、英国のインド太平洋での役割に関しては、EU離脱、さらには新型コロナウイルスの感染拡大による経済的影響をいかに乗り越え、対外関与を継続できるかが問われることになる。
[1] 2020年6月の正式交渉開始時から、交渉の呼称は、「日英間の経済パートナーシップに関する交渉」とされ、協定の名称は明示されなかった。最終的に、EPAの前に「包括的」の一語を入れることで、Comprehensive Economic Partnership Agreement: CEPAとされた。ただし、内容的にこの協定は、日本がEUを含めた他国と締結するEPAと同等であるため、本稿ではEPAと呼ぶ。なお、日本が通常EPAと呼ぶものは、英国、EUともに、基本的にはFTA(自由貿易協定)と呼んでいる。そのため、EU・英国間で交渉されているものもFTAである。
[2] 日英EPAの概要については、外務省経済局「日英包括的経済連携協定(EPA)に関するファクトシート」(2020年10月23日)が有用。
[3] Michito Tsuruoka, “The Shape of a Japan-UK Free Trade Agreement: Limiting damages or designing a bold future?” The Diplomat, 2 April 2020.
[4] 「EU離脱の英国とEPA合意 来年1月の発効めざす」『朝日新聞』(2020年10月23日オンライン)。
[5] Department for International Trade, “The UK-Japan Comprehensive Economic Partnership: Benefits for the UK,” October 2020.
[6] Department for International Trade, “Final Impact Assessment of the Agreement between the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland and Japan for a Comprehensive Economic Partnership,” October 2020, p. 42.
[7] 外務省「英国の CPTPP 加入に関する日本国政府と英国政府との間の書簡(仮訳)」(2020年10月23日)。
[8] Michito Tsuruoka, “Britain in the Trans-Pacific Partnership After Brexit? It’s complicated,” The Diplomat, 12 November 2020.
[9] “Britain set to confront China with new aircraft carrier,” The Times, 14 July 2020 (online).
[10] “Written evidence submitted by Dr Michito Tsuruoka (INR0091),” Foreign Affairs Committee, Written evidence on “The FCDO and the Integrated Review,” UK Parliament, 9 September 2020.
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