鶴岡路人
主任研究員
英国のEUからの離脱期日である2019年10月31日が迫るなか、EU・英国間の新たな合意への見通しは全く立っていない。ジョンソン(Boris Johnson)首相は、首相就任から1カ月が経ってようやくドイツとフランスを訪問し、離脱協定の再交渉に向けた外交努力を開始したものの、時間が限られていることに変わりはない。Brexitは、「合意なき離脱」に突き進んでいるとの見方がEU側でも広がっている。
しかし、前回指摘したように、「合意なき離脱」は、EU・英国関係の到達点ではない。離脱後に両者がどのような関係を築くかは、全てこれからの交渉次第である。離脱協定に基づく離脱でも「合意なき離脱」でも、将来の関係については別途交渉しなければならない。「合意なき離脱」の場合は、「WTO(世界貿易機関)条件」と呼ばれる、EU・英国間の取り決めが一切存在しない状態になるが、これを中・長期的にそのまま放置する選択肢は英国の強硬離脱派にもさすがに存在しない。いずれにせよ、EU・英国間の交渉が不可欠になる。
そこで今回と次回で、「前編」、「後編」に分けて、英国のEU離脱を見据え、離脱後に両者が関係を定める際のプロセスとそこでの課題を出発点として、最終的な形態としていかなる選択肢が存在するかを検証することにしたい。
「合意なき離脱」からの出発?
まずは「合意なき離脱」になるか否かが、離脱後のEU・英国間の関係構築に及ぼす影響である。手続きのみに着目すれば、離脱協定に基づいて円満に離脱しても、「合意なき離脱」で混乱を招いたとしても、離脱後の関係構築にあたっての法的・制度的な相違はない。FTA(自由貿易協定)に代表される国際協定を締結するのであれば、そこで適用されるのはEU機能条約第218条のプロセスであり、手続きに関する限り、EUにとって通常の第三国との協定交渉と同じである。
しかし「合意なき離脱」からの交渉出発には3つの実際的な問題が存在する。第1は、「マイナスからのスタート」になってしまうことである。これには、(1)政治的にも感情的にもEU・英国間の関係が悪いなかでの出発になるという点と、(2)本来離脱協定で解決されていたはずの問題をまず扱わなければならないために、アジェンダと作業量が増えてしまう、という2種類の問題が含まれる。
後者はEU側の要求であり、具体的には、EU市民の権利保護、363億ユーロ(約4.5兆円)とされる離脱精算金の支払い[1]、そして自由な北アイルランド国境の保証が主たる内容となる。EU側はこれらをFTA(などの将来の関係を規定する枠組みの)交渉開始のための前提条件にする可能性が高い。いずれも離脱協定に規定されていたものであり、「合意なき離脱」を選択しても、結局それらの課題から逃げ続けることはできないのであろう。この点は繰り返し指摘する必要がある。
第2に、「合意なき離脱」の状況下と離脱協定が発効した上での将来関係に関する交渉の最大の相違は、後者の場合は「移行期間(transition period)」の間に交渉を行うものの、前者ではそれが全く存在しないことである。移行期間は、Brexitによる特に英国にとっての衝撃を緩和するために導入されるもので、この期間中、英国は「ほぼ(事実上)EU加盟国」のような扱いになる。もっとも、加盟国ではなくなるため、EU理事会などに出席することも、EUの意思決定に参加する(投票する)こともできないが、単一市場・関税同盟は事実上継続し、英国とEUとの間の物流は従来通りということである。
そうした環境のもとで、いわば落ち着いて交渉を行うことが想定されたのである。仮に「合意なき離脱」になった場合には、物流の混乱などで日々大きな損害が生じ、互いにその責任を押し付けるような政治的に険悪な状況下で新たな交渉することになり、そのプレッシャーは大きなものになるだろう。
離脱協定は移行期間を2020年末までとした。当初の離脱日だった2019年3月末を起点とすれば、移行期間終了までは1年9カ月だった。包括的なFTAなど、分野が多岐にわたる複雑な協定をまとめるには数年単位の時間を要するのが一般的であることを考えれば、これは移行期間としては随分短い。その間に批准プロセスを経て発効にまで漕ぎつけるのは現実的ではなかった。その点は双方で認識されており、そのために移行期間は延長が可能だった。
それでも、2020年末までとされたのは、これがあまり長くなることに、EU側以上に、英国側で懸念が存在したからである。移行期間が長く続けば、「離脱しても結局なかなか抜けられない」、「離脱するといいながら、実際には離脱しない」というイメージになってしまい、当時のメイ(Theresa May)政権にとって得策ではなかった。
第3に、もし「合意なき離脱」になり、実際に英国とEUとの間で物理的な税関チェックポイントが設置されるようになった場合、それをまた完全に撤廃するハードルが上昇、ないし、撤廃を目指す政治的意思のレベルが低下する懸念がある。関税同盟(ないしそれに準じる合意)の締結は、移行期間中であれば、実態として「現状維持」を意味するが、ひとたび「合意なき離脱」をした後であれば、現状の手続きの大きな変更になってしまう。
英国のレッドラインに規定される将来の可能性
「合意なき離脱」だったとしても、離脱協定に基づく離脱だったとしても、EUと英国の将来の関係を規定するのは、英国側の条件、すなわち、譲れない一線・要求(レッドライン)である。というのも、EU側は、英国が離脱意思を撤回してEU加盟国であり続けることも、関税同盟・単一市場に残留する可能性も受け入れ可能だからである。それらを拒否しているのは英国の側であり、将来の関係はそれに沿ったもの、すなわち、英国が受け入れられる上限値までということになる。この意味で、EU側は受け身にならざるを得ない。
EU側が、離脱協定本体の再交渉には反対しつつ、将来の関係の指針を示した政治宣言の修正には柔軟な姿勢を示しているのも、EUとしては、英国とより緊密な関係を構築することに何ら問題がないからである。仮に英国が関税同盟を求めるのであれば、それはEUにとっても利益であり、拒否する理由はない。したがって、それを政治宣言で新たに言及することを英国が求めるのであれば、受け入れ可能だということである。
これまでの離脱交渉のなかでメイ政権、およびその後のジョンソン政権が示してきたレッドラインは、「人の自由移動の終了」、「EU司法裁判所(ECJ)の管轄権の終了」、「EUへの多額の財政拠出の終了」、「自律的な通商政策の実施」、「規制における自律性の確保」などであった。これらの間の優先順位は、時期や文脈によって異なってきたものの、おおむねこれらが想定されてきた。
「バルニエの階段」
そうした英国のレッドラインに照らすと、将来のEU・関係にはどのような選択肢が存在するのか。EUの観点で、英国の求める条件をある意味機械的に当てはめてみたのが、下記の図である[2]。これは、2017年12月に、EUのバルニエ(Michel Barnier)首席交渉官が欧州理事会(EU首脳会合)への説明で使い、「バルニエの階段(Barnier’s staircase)」として有名になった。その後も議論は続いているものの、基本的な構図に変化はない。
図 EUとの関係のモデル(バルニエ首席交渉官の説明)
上記の図のなかでは、左上から右下に行くに従い、EUとの関係のレベルが低下する。文章で説明すれば、以下のとおりである。
- 「EU離脱」が譲れないとすれば、EU加盟国は無理
- 「ECJの管轄権の終了」、「人の自由移動の終了」、「EU予算への多額の拠出の終了」、「規制の自律性の確保」が譲れないとすれば、ノルウェー、アイスランド、リヒテンシュタインといったEEA(欧州経済地域)加盟国モデルも無理
- 「人の自由移動の終了」、「EU予算への多額の拠出の終了」、「規制の自律性の確保」が譲れなければ、スイスとのような関係も無理
- 「ECJの管轄権の終了」と「規制の自律性の確保」が譲れないとすればウクライナとのような関係も無理
- 「自律的な貿易政策の実施」が譲れないとすればトルコとのような関係も無理[3]
- その場合、カナダや韓国とのようなFTA関係に落ち着かざるを得ない
- ただし、FTAが締結されるまでは「合意なし(no deal)」でWTO条件になる
ノルウェーやスイス、カナダといったモデルは、実現可能性や望ましさの度合いはともあれ、これまでにも常に言及されてきたものの、ウクライナや韓国までもが示されたことは、EUと英国の双方にとって衝撃的だったと思われる。バルニエとしては、あえて刺激的に示すことで、EUとの緊密な関係の維持という「ソフト離脱(soft Brexit)」の方向性を導こうとしたとも、また、英国の掲げる非現実的な要求に嫌気がさして突き放そうとしたともいえる。
バルニエがこの図を示した段階では日・EU間のEPA(経済連携協定)が未締結だったが、現在では、EUとのFTA・EPA締結国という、韓国やカナダと同じグループに日本も入っている。とすれば、英国がEUとFTAを締結できない限り、EUと英国との関係は(地理的な近さを例外とすれば)、日EU関係以下という整理になる。
なお英国政府は、自国の規模や重要性・特殊性に鑑み、EUが他の第三国と有する関係のモデルに縛られることなく、「あつらえの(bespoke)」合意を目指すべきだと主張してきた。英国はノルウェーやスイスの枠に収まらないとの主張は、政治的にはその通りであろう。これは、英国による例外措置の要求でもある。実際、離脱後の交渉においては、「あつらえの」合意が交渉されることになるのだろうが、それでも、英国の要求が何でも通るわけではない。
市場アクセスと義務・コストの天秤
さまざまな選択肢の具体的中身については次回「後編」で詳しくみていくことにするが、どのような関係を構築するかに関する英国の選択は、EU単一市場へのアクセスと、それにともなう義務やコストを天秤にかけ、どこに受け入れ可能な均衡点を見出すかに尽きる。単一市場への(事実上の)残留など、EU市場へのアクセスを最大限に求めるのであれば、人の自由移動やEU予算への多額の拠出などが必要になる。他方で、レッドラインを貫徹しようとすれば、単一市場へのアクセスは、それ相応に制限されたものになる。
こうした構図は、離脱交渉を何年も行ってはじめて気がついたものではなく、国民投票前の2016年3月に当時の英国政府が発表した「加盟以外の諸選択肢」報告書の段階からすでに明確に示されていた。50ページあまりの同報告書は、以下のように結ばれていた。
「EU離脱を決定した後に英国がどのような選択肢を求めたとしても、我々に直接的な影響を及ぼし続けるEUの決定に対する影響力を失う。我々は、EU市場および[EUがすでに締結したFTAによって確保されている]グローバル市場へのアクセスと、その見返りとして生じる義務やコストを天秤にかける必要がある。EUの域外でのいかなるモデルにしても、今日の英国がEU内で獲得している特別な地位に近い利益と影響力をもたらすことはできないというのが英国政府の評価である[4]。」
もちろん、これは当時のキャメロン政権によるEU残留キャンペーンの一環であり、その意味で、政治的に中立とは言い切れない部分がある。しかし、評価の結論自体は、逃げられない現実であり、これは離脱交渉が進むなかで一層明確にされた。しかし、そのなかで何を選択するかについて、英国内のコンセンサスはいまだに存在していないのである。
(「後編」に続く )
[1] 2019年10月末の離脱を前提とした同年3月の時点での英政府試算。精算金の総額についてはさまざまな数字が言及されてきたが、離脱時期が延期されれば精算金は減少する。これは、英国がすでにコミットしていた2020年末までの現行の多年次財政枠組(MFF)の期間については、従来通りに拠出することが離脱協定で合意されているからである。離脱が延期されれば、加盟国である期間が長くなり、その間のEU予算への拠出は加盟国としての通常の拠出金として処理されるために、精算金として支払われる部分が減少するとの構造になっている。いずれにしても、2019年3月末から2020年末までの分の英国の財政負担(加盟国としての拠出金と精算金)の総額に変化はない。最新の英政府試算については、下記を参照。Office for Budget Responsibility, Fiscal Risks Report: July 2019, Stationery Office, London, July 2019, pp. 165-166, https://obr.uk/docs/dlm_uploads/Fiscalrisksreport2019.pdf (last accessed 25 August 2019).
[2] “Slide presented by Michel Barnier, European Commission Chief Negotiator, to the Heads of State and Government at the European Council (Article 50) on 15 December 2017,” TF50 (2017)21 – Commission to EU27, Brussels, 19 December 2017, https://ec.europa.eu/commission/sites/beta-political/files/slide_presented_by_barnier_at_euco_15-12-2017.pdf (last accessed 25 August 2019).
[3] ここでの分類は大雑把なものであり、実際にはさまざまな例外やニュアンスが存在する。例えばトルコはEUと関税同盟を締結しているため、EUの域外共通関税に縛られ、独自の関税率の適用はできない。FTAに関しては、EUが第三国とFTAを締結する際に、並行して当該諸国とFTAの交渉を行うのがトルコの基本方針になっている。加えて、関税同盟でカバーされていない領域についてはFTA・EPA(経済連携協定)を締結することが可能である。2014年12月以降、日本とトルコとの間ではEPA交渉が行われている。EUとの関係における日・トルコEPAの位置づけについては、下記を参照。“Report of the Joint Study Group for an Economic Partnership Agreement (EPA) between the Republic of Turkey and Japan,” 31 July 2013, pp. 3-5, https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000009576.pdf (last accessed 25 August 2019).
[4] HM Government, “Alternatives to membership: possible models for the United Kingdom outside the European Union,” Stationery Office, London, March 2016, p. 43, https://assets.publishing.service.gov.uk/government/uploads/system/uploads/attachment_data/file/504604/Alternatives_to_membership_-_possible_models_for_the_UK_outside_the_EU.pdf (last accessed 25 August 2019).
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