米国では、格差の固定化を防ぐための政策対応として、 貧困家庭の移住を支援する仕組み作りが脚光を浴びている。1990年に実施された実験的なプロジェクトの成果が、ようやくデータによって裏付けられたことが一因である。ビッグデータの活用等による研究の成果が、実際の格差対策に活かされ始めているようだ。
再評価されるMoving To Opportunity
本欄で繰り返し取り上げてきたように、米国では格差が固定化される度合いを左右する要素として、成長期に過ごした地域環境の違いが注目されている。最近では、膨大な税務データを用いたハーバード大学のラジ・チェティ教授らによる研究が、地域環境と格差固定化の因果関係を明らかにしている [1] 。こうした研究成果からは、格差の固定化を防ぐための政策対応として、貧困家庭が恵まれた地域に移住することを支援する仕組み作りが示唆される。
米国では、そうした移住支援策が実験的に行われたことがある。1990年代に実施されたMoving To Opportunity(MTO)と呼ばれるプロジェクトでは、貧困世帯が集った地域に住む世帯を対象に、相対的に貧困度が低い地域に転居するための資金援助が行なわれた。MTOが実施された1994年から98年の間に、シカゴ、ロサンゼルス等の5つの都市で、約1,800の貧困世帯が資金援助の対象となっている。
実はチェティ教授らは、MTOの成果についても分析を試みている [2] 。Chetty et al(2015)では、MTOによって移住した家庭の子は、一般的な支援金を利用して移住した家庭や、移住しなかった家庭の子と比較して、成人時の年収が高くなっていることが示された。
Chetty et al(2015)は、MTOに対する評価を一変させた。それまでのMTOに関する研究では、移住による目立った効果は確認されていなかった [3] 。その効果がようやく確認されたことで、移住支援策への期待が改めて高まっている。
Chetty et al(2015)がMTOの効果を確認できた理由は、移住した子の年齢に着目した点にある。Chetty and Hendren(2015)が論じたように、地域環境が格差の固定化に与える影響は、その環境下で暮らした年月に比例する [4] 。そこでChetty et al(2015)では、MTOの対象となった家庭を、対象に指定された時点の子の年齢で分類した。その結果、移住によるプラスの効果は13歳未満だった子に限られ、13歳から18歳の時点で指定された子の場合、成人時の年収は他の比較対象よりも低くなっていたことが判明した。13歳以上の場合には、新しい環境で過ごす時間が短く、移住先への順応等に伴う一時的なマイナスのショックを取り戻せなかったためだと考えられる。
このように、子の年齢に着目することで、これまでは見えなかったMTOの効果が浮き上がってきた。プロジェクトの実施から年月が経過し、時間による効果の違いを見極めるだけのデータが揃ったことが、MTOの再評価には追い風だった。
見直される移住支援策
チェティ教授らの一連の研究に触発され、オバマ政権は貧困家庭が相対的に貧困の集積度が低い地域に移住することを支援する政策に力を入れ始めている [5] 。
6月2日にオバマ政権は、低所得層向けの住宅支援金(Housing Choice Voucher)の算定に当たり、より細かな地域区分での上限設定を、従来以上に多くの地域で可能にする方針を発表した。貧困家庭が賃料の高い地域に移住することを、これまでの支援金制度よりも効率的に支援するためである。
これまでの支援金制度には、貧困家庭を隣接した地域に止まらせる要素があった。これまでの制度では、支給される支援金の金額に対して、広範な地域を対象に、その地域の賃料(Fair Market Rent:FMR)を基準とした一律の上限が設けられてきた。支援金の対象家庭は、移住先の平均的な賃料の高低にかかわらず、同一の支援金を得ることができる仕組みである。補助金の上限を引き上げ、賃料の高い地域への移住を促そうにも、支援を受ける家庭には、同一地域内でより広い家を借りるという選択肢があった。そのため、支援を受けた家庭は、慣れない地域に移住するよりも、それまでの住居から近い場所に止まることを選ぶ傾向にあったという。
新しい制度では、より細かい地域単位の賃料(Small-Area Fair Market Rents:SAFMRs)を参考に、きめ細かく支援金の上限が設定される。支援を受ける家庭は、賃料の高い地域に移住するほど、得られる支援金が増える仕組みである。従来の制度と比べると、異なる地域への移住を選ぶメリットは大きくなる。
先行してSAFMRsを利用してきた地域では、貧困家庭の移住を促進する効果が表れている。2010年から同制度を利用してきたダラス地域(テキサス州)では、支援金を受給した家庭の移住先が、従来の制度を利用した家庭と比較して、犯罪が17%少なく、貧困率が2%ポイント低い地域になったという [6] 。
オバマ政権によるSAFMRsの適用拡大は、チェティ教授らの研究が、実際の政策に影響を与え始めた兆候と言える。ビッグデータの活用等により、格差やモビリティを巡る研究は、大きく進展している。そうした研究成果の蓄積によって、確かな根拠に基づいた政策運営が実現しやすくなってきたようだ [7] 。
( http://scholar.harvard.edu/files/lkatz/files/mto_manuscript_may2015.pdf )
( http://www.brookings.edu/blogs/social-mobility-memos/posts/2015/05/06-moving-to-opportunity-revisited-rothwell )
( http://www.equality-of-opportunity.org/images/nbhds_paper.pdf )
( http://www.nytimes.com/2015/07/08/business/economy/housing-program-expansion-would-encourage-more-low-income-families-to-move-up.html )
( http://www.cbpp.org/research/housing/neighborhood-based-subsidy-caps-can-make-housing-vouchers-more-efficient-and )
( http://www.mizuho-ri.co.jp/publication/research/pdf/research/r150601point.pdf )
■ 安井明彦:東京財団「現代アメリカ」プロジェクト・メンバー、みずほ総合研究所調査本部欧米調査部長