上席研究員
渡部恒雄
下馬評を覆すトランプ候補の当選で、米国と世界は大きく動揺している。トランプ政権の誕生が、これまで保守とリベラルの二つに分断した米国民の亀裂をさらに深め、世界における米国のリーダ―シップを弱体化させる方向に向かいかねないからだ。トランプ候補は選挙中には、矛盾した過激発言を発するだけで首尾一貫した政策を語らず、具体的な政策チームも構築してこなかったため、その政策が見えないことがその不安を増幅させている。
トランプの勝因、ヒラリーの敗因
しかし実に、二つに分断された米国有権者、およびトランプ候補の政策のファジーさこそが、皮肉にも今回のトランプ勝利の要因となった。トランプは、共和党のエスタブリッシュメントを痛烈に批判・対抗して選挙戦を戦ったが、それがこれまで既存の政党(共和党と民主党の両方)に大きな不満を持つ中・低所得者層を中心にした白人票、とくにラスト(錆びた)ベルトと呼ばれるかつての鉄鋼業などの産業が廃れた中西部の激戦州で、予想を上回る支持を得た。
トランプ陣営は、それらの不満層に対して、TPP、NAFTAという彼らの職を奪ってきた自由貿易とグローバル経済のシンボルに反対するメッセージを送る一方で、貧富の格差を解消するような共和党のエスタブリッシュメントが好まない税制は提案せずに、むしろ法人税減税を打ち出し、公的医療保険を拡大するオバマケアの撤回を打ち出した。これにより共和党のエスタブリッシュメントの安心感を引出し、クリントン候補への嫌悪感にも助けられ、結局のところ、既存の共和党支持者と新しいトランプ支持者の双方を、効率的に獲得できた。
逆にクリントン陣営の選挙戦略上の失敗は、中西部の不満層の気持ちを理解した選挙キャンペーンやメッセージを打ち出せなかったことだ。彼らは、ブルーカラー層であり、これまで労働組合に所属し、民主党を支持してきた人たちも多かった。しかし、クリントン陣営は、トランプ候補のあまりにも現実離れした発言への一般的な不人気や、それを増幅したリベラル系を中心とする大手メディアの反トランプの大きな批判に安心して、今回の選挙のキャスティングボートを握ったブルーカラー層の心に届くメッセージを送ることに失敗した。
例えば、選挙終盤に大きく報道された有名歌手や映画スターのクリントン支援などは、クリントン候補がエスタブリッシュメント候補であることを、再確認させるだけの効果しかなかった。また、FBI長官がクリントン候補のEメール私用問題での起訴を再度断念したことも、事実はともかく、オバマ政権からのFBI長官への圧力を連想させ、クリントン=エスタブリッシュメントという否定的なイメージを抱かせるだけだった。
大いなる矛盾を抱えて出発するトランプ政権
今後のトランプ政権の政策は、トランプ当選に決定的な影響を与えた反エスタブリッシュメント層の期待を集める政策が中心になっていくのだろうか。それは限定的だろう。この層はあくまでもキャスティングボートを握ったにすぎない。トランプ政権や共和党執行部と政治交渉をする代表者もいない。トランプ次期大統領も、それを支えている政権運営を握るキーパーソンたちも、経済的にも社会的にも、これらのブルーカラー層に対して深いシンパシーを抱いてすらいない。彼らは、むしろエスタブリッシュメント層と共通の利益を持っている。本来であれば、クリントン候補を支えた民主党のほうが、はるかにブルーカラー層のことを真剣に考えてきた。しかし民主党のそのような政策は、共和党議会にブロックされ実現できなかったのがこれまでの現実である。2008年に彼らにも大きな期待を抱かせて登場したオバマ政権が「チェンジ」を引き起こせなかったのも厳然たる事実なのである。トランプ候補は反エスタブリッシュメント層の「チェンジ」への期待の新しい受け皿になったに過ぎない。
この矛盾は米国内では継続する難しい問題だが、日本にとっては、今後のトランプ政権への一定の安心感にもつながる要素ともいえる。日本の利益はむしろ米国のエスタブリッシュメント層と共通のものが多いからだ。
来年1月からのトランプ政権運営のカギは、ライアン下院議長率いる共和党主流派と、トランプチームがどのような協調ができるかがカギとなる。選挙後、すでにトランプ陣営の政権移行チームの中で、これまでも共和党の伝統的な政策を主張してきたペンス次期副大統領が中心で動いている。これは共和党主流派との溝を埋める動きとして歓迎されるべきものだ。
ペンス氏は選挙中も、トランプ候補の主張とは一線を画し、米国の対外関与や同盟国重視、自由貿易を支持していきた。また国家安全保障担当大統領補佐官になると予想されるマイケル・フリン元国防情報局長官は、米国の伝統的な安全保障政策の継続とその利益をトランプ大統領に日々説明・説得する役割を担うことになるだろう。
当選後、政権チームが現実的な方向を示している一方で、「異端の候補」ドナルド・トランプを大統領に押し上げることになった「米国の保守とリベラル層の価値観の対立」「貧富の差の拡大」「グローバル経済への反感」という難題について、トランプ政権が本気で取り組む兆候はない。残念ながらTPP反対だけが不満層へのガス抜きである。だからこそ、米国のTPP批准は期待できない。しかし、ガス抜き以外は、トランプ政権の通商政策はこれまでの米国の政権とさほど変わらないかもしれない。
日本の国益は「米国の世界への関与」「グローバル経済の維持」にあり、トランプ政権の現実的な対応は歓迎すべきことである。日本は、当選前のトランプ氏の極端な発言を額面通りにとらえて、過剰な心配をすべきではない。一方で、大いなる矛盾を抱えて出発するアクロバティックなトランプ政権が、はたして安定して機能するのかどうかは、予断は許さない。米国と世界の懸念は容易には消えないだろう。