台湾に初の女性総統が生まれる。さる1月16日の総統選挙で、野党民主進歩党(民進党)候補の蔡英文氏が与党国民党候補の朱立倫氏に、300万票以上の大差で圧勝したのである。また、同時に行われた立法委員(わが国の国会議員に相当)選挙でも、民進党は過半数を獲得 [i] 。5月20日に就任する次期総統の蔡氏は、「ねじれ」現象に悩まされた陳水扁時代(2000年~2008年)とは異なる強固な政治基盤を手に入れた。
1.民進党の勝因
勝因は大きく分けて二つある。
第一に、総統選に向けた民進党及び蔡英文氏の周到な準備があったことである。
同党は、早くも昨年(2015年)4月15日、主席の蔡氏を総統選の党公認候補に決定した。そもそも民進党は、反国民党を共通点とする「党外活動家」によって1986年に結成された政党であり、これまで党内の派閥抗争も少なくなかった。しかし、今回は、候補選出と選出後の選挙運動のいずれにおいても、おおむね挙党体制を保つことができた。
最大のイシューとなった対中政策に関する蔡氏のアプローチは慎重だった。候補決定を受けて行ったスピーチで、同氏は、両岸(中台)問題を処理するにあたっての民進党の基本原則は「両岸の現状を維持することである」と述べた [ii] 。こうした発言は、前回(2012年)総統選での敗北を通じ、中国をいたずらに刺激することがもたらすデメリットを認識したからであろう。馬英九総統に挑んだ前回の総統選において、蔡氏は、「台湾は既に主権独立国家である」との立場で臨んだ。これは民進党の理念や方針に忠実な主張ではあるが [iii] 、「両岸はともに一つの中国に属する」とする中国側の強い反発を招くことになった。これが総統を目指す蔡氏にとってマイナス効果をもたらしたことは否定できない。氏は、この教訓を正しくくみ取ったのである。
さらに重要なのは、「現状維持」の主張が台湾の民意に合致したことである。政治大学選挙研究中心が行った世論調査によると、昨年6月時点で、「現状維持」(「当面」及び「永久に」の合計)を望む台湾住民の割合は6割近かった [iv] 。「民進党は『台湾は独立国家』との認識が若い世代に定着しているとみて、独立路線をあえて強調せずに対中関係の現状維持を訴え、中国との対立による混乱を懸念する中間層にも支持を広げた」 [v] との見方には説得力がある。反中国と台湾の自立性を強く打ち出す台湾団結聯盟が今回の立法委員選挙で3つの議席すべてを失ったことは、原理主義的な独立路線が もはや受け入れられない台湾の現状をこの上なく示したと言えよう。
対中関係を有利に進め、さらなる国際空間の開拓を目指す台湾にとって、米国は最大の後ろ盾である。従って、総統選に勝つためには米国の「お墨付き」が是非とも必要だ。しかし、前回の選挙で、蔡英文氏は氏の対中政策に対する米側の不安感や不信感の払拭に失敗した。そこで今回、満を持して訪米した蔡氏は(昨年6月)、既に得た「成果を堅固な基礎として、平和で安定的な両岸関係の発展を推進する」 [vi] との方針を示し、米側の裏書獲得に努めた。そして、米側は、台湾総統選候補者として初めて国務省に招き入れるという厚遇をもって、蔡氏に応えたのである。
第二の勝因は敵失、すなわち、与党国民党の自滅である。
最も影響があったのは、馬英九総統の指導力欠如と失政であろう。1月9日、台北市内で行われた朱立倫国民党総統候補(党主席)の選挙集会の人ごみの中にいた筆者は、国民党の敗北を確信した。それまで熱気に包まれていた会場の演台上に馬総統が現れ、応援演説を始めるや、人々の間に一気に白けムードが広がったからである。馬氏は、国民党支持者からも見放されていた。
2008年5月に総統に就任するや、馬氏は積極的な対中政策を矢継ぎ早に打ち出し、両岸関係を劇的に改善させ、台湾海峡の安定を確かに実現した。そして、こうした施策によって、選挙公約である「633経済目標」(GDPの平均年間成長率は6%以上、失業率は3%以下、2016年までに一人当たりGDPを3万ドルに)は達成可能だとの明るい未来像を描いて見せた。しかし、その結果は散々だった。産業の空洞化や富の偏在が進み、若者の失業率が突出して高いという状況がもたらされた。2014年通年で、台湾の失業率は全体では3.78%だったが、これを20~24歳についてみると、12.56%にまで跳ね上がったのである [vii] 。さらに、大挙して押しかける中国人観光客の言動を目の当たりにし、台湾の人々は、自分と中国人は違うという意識(台湾人意識)を強めた。2014年3月から4月にかけて、「両岸サービス貿易協定」の批准をめぐる議会審議に反発する学生ら数百人が立法院議場を占拠した事件(いわゆる「ひまわり学生運動」)は、馬政権の対中政策にノーを突きつけるものだった。
さらに馬氏は、国民党の党内運営という点においても迷走した。その象徴が2013年9月に起きた王金平立法院長の党籍剥奪失敗事件である。事件は、ある司法案件を巡って王院長が「口利き」を行ったとする最高検検事総長の発表に端を発する。この発表を受け、馬総統(当時は党主席)は直ちに党の関連委員会を開催し、かねてからライバルとされ、犬猿の仲とされてきた王院長の党籍剥奪を決定する。これに対し、王院長は翌日、同決定を無効とする訴えを台北地裁に起こし、担保金を預けることを前提に党員の権利行使を認めるとの裁定を勝ち取るのである [viii] 。現在に至るまで、王院長は引き続き党籍を保持し、1月31日の任期まで立法院長を務めあげた。
そして、今回の総統候補者選びで見せた醜態が国民党の致命傷となった。昨年7月19日、同党は党内手続きに従って、洪秀柱立法院副院長を党公認候補に決定した。しかし、その三か月後には、洪氏の統一志向の強さゆえ、総統選で勝利を得るのは難しいとの声が強まったことを受け、同氏の総統選候補者公認を取り消し、新たに朱立倫党主席を公認候補として選出しなおすという決定を行ったのである。次代のホープと目されていた朱氏を担ぎ出すことで国民党は劣勢挽回を図ったが、最後まで民意の信頼を勝ち得ることはできなかった。
2.両岸関係の行方
当選後の蔡英文氏の両岸関係関連発言と中国側の反応は、いずれも慎重なものだった。5月20日の総統就任に至るまでの神経戦の幕が静かに上がった。
総統選期間中、蔡氏は、中国側が強く求める「92年コンセンサス」 [ix] の存在を認めること は しなかったものの、「現行の中華民国憲政体制の下、両岸関係の平和的、安定的発展を引き続き促進する」といった主張を繰り返し、中国側を刺激することを慎重に避けてきた。そして、当選直後の内外記者会見でも、同様の姿勢を示した [x] 。
一方、中国側も、直ちに「中国共産党中央台湾工作弁公室、国務院台湾事務弁公室責任者」の談話を発表した。それは、「我々の台湾政策の大原則は一貫しており、明確であり、台湾地区の選挙結果によって変わることはない。我々は、引き続き『92年コンセンサス』を堅持し、如何なる形式の『台独』分裂活動にも断固反対する」、「我々は、両岸はともに一つの中国に属すると考えるすべての政党と団体との間で接触と交流を強化したいと考えている」というものだった [xi] 。これは従来からの基本方針の確認である。
中台関係に関して蔡氏がクリアすべき課題は、「中国との安定した関係」と「台湾人意識の強まり」という二つの現状を維持しつつ、台湾経済の発展と住民生活の向上を図るということに他ならない。貿易総額中の約30%を中国(香港を含む)に依存し [xii] 、100万人以上の台湾人が中国大陸に在住するとされる現状を無視した対中政策は、民進党といえども、採りえない。また一方では、蔡氏が一貫して重視し、人々もそれを求める「台湾人としての尊厳」を守る必要がある。前出の政治大学選挙研究中心の世論調査によると、自らのアイデンティティーを「台湾人」に置く台湾住民の割合は59.0%に達するが、「中国人」はわずか3.3%にとどまっている [xiii] 。次期総統に課された「二つの現状維持」は、「中国との微妙な距離感の維持」と言い換えることが可能である。言うは易く、行うは難し。暫くは試行錯誤が続くだろう。
翻って、中国側、究極的には習近平氏(共産党総書記、国家主席、中央軍事委員会主席)は、これからの両岸関係をどのように展開しようとしているのだろうか。
蔡英文氏当選直後、中国の国営新華社通信は、「大陸側は両岸関係の主導権を常にしっかり握っている。(中略)根本的にみると、台湾の前途と両岸関係の将来を決めるカギは、大陸の発展と進歩にある。発展は確固たる道理であり、大陸自らの問題をしっかり解決しさえすれば、台湾側の如何なる変化に対しても泰然と構えられる」とする記事を配信している [xiv] 。具体性に欠ける内容であるが、仮に、この記事の意図するところが「中国経済が今後も発展し続けさえすれば、台湾問題は中国側の思い通りに処理することができ、やがて統一が実現する」というものであれば、両岸関係の将来を楽観視することはできないかもしれない。なぜなら、このような思考には、「天然独」(中国と台湾は一つの国ではないと、生まれながらに認識している人々)の増加で、中国に対する心理的距離がますます広がっていくという台湾社会の実情に対する理解が欠けているからである。
さらに、基本的には蔡英文氏の手腕如何にかかっているが、国民党の敗北ぶりに鑑みると、蔡政権は二期計8年続く可能性がある。「中国の夢」のスローガンと「一帯一路」という壮大な計画を掲げ、米国に並ぶ大国化実現の道をばく進する習近平氏は、「統一という中国の夢」実現をいつまで待っていられるのだろうか。台湾人意識の高まり、地域の安定を願うアジア諸国の意向、そして米国の関与といった要素を踏まえれば、中国の描く統一の夢が近い将来実現する可能性は極めて低いと思われる。従って、馬英九政権下の台湾に対する中国の基本的スタンスである「平和的発展」 [xv] は、極めて現実的な政策であると評価できる。統一実現の使命感が焦りに転じることで、習氏が判断を誤ることはないのか。
理性的に考えると、台湾(民進党)と中国は何らかの「落としどころ」を探し当てねばならない。このような動きは、すでに水面下で進んでいるだろう。双方には重大な政治判断を下すことが求められるが、当面最も望ましいのは、最大の焦点となっている「92年コンセンサス」問題の曖昧化を図り、双方にとって受け入れ可能な「現状維持」状態を作り出すことであろう。
3.日本と台湾、そして中国
蔡英文氏が米国と並んで重視する国が日本である。氏は昨年10月、民進党候補として来日した際、安倍晋三首相の出身地である山口県を訪れたが、安倍氏は、実弟の岸信夫衆議院議員を案内役にあてるという演出を行った。
親台湾派と目される安倍政権の姿勢も反映されたのであろう。蔡氏当選を受けて発表された岸田文雄外務大臣の談話は、次のように好意的なものだった。「台湾は我が国にとって、基本的な価値を共有し、緊密な経済関係と人的往来を有する重要なパートナーであり、大切な友人です。政府としては、台湾との関係を非政府間の実務関係として維持していくとの立場を踏まえ、日台間の協力と交流の更なる深化を図っていく考えです」 [xvi] 。「基本的な価値を共有」、「重要なパートナーであり、大切な友人」、「協力と交流の更なる深化」との表現は、外交関係を有しない台湾に対する最大級の賛辞であり、関係強化を願うメッセージである。
蔡氏も、日台関係の発展に前向きだ。当選結果判明直後の内外記者会見で質問に答え、「釣魚台(尖閣諸島)の主権は台湾に属すが、我々は、この主権をめぐる争いで(日台)関係の発展が影響を受けることも望まない」と述べた [xvii] 。ここには建前と本音の双方が読み取れる。「釣魚島は中華民国のもの」とする統一系のスタンスから、「尖閣は日本のもの」とする独立系のスタンス [xviii] まで、尖閣領有権問題に対する台湾側スタンスは実に多様だ。民進党の場合、この件に対する関心は従来より決して高くなく、むしろ関与を避けているかの感がある。従って、尖閣問題がらみで、蔡氏自らが日台関係全体にマイナスの影響を与えるような言動に出ることはおそらくあるまい。選挙から一夜明けた17日、台北市内の党本部で、蔡氏が日本の対台湾交流窓口「交流協会」トップの大橋光夫会長と会見したことは [xix] 、「日台間の協力と交流の更なる深化」(前述の外務大臣談話)に対する期待感を大いに膨らませるものとなった。
しかし、そうした願望が台湾側の前向きな対応だけで実現するほど単純なものではないのが日台関係である。なぜなら、日台関係発展の前提は、両岸関係が良好であることだからだ。関係発展のためには中国側の「黙認」を得ることが最低でも必要なのだ。この厳しい現実は、近年の日台関係の推移によって証明されている。中国が「トラブルメーカー」の烙印を押した陳水扁総統の時期、中国側は日台関係の発展にこのうえなく神経質だった。当時北京の日本大使館に勤務していた筆者は、これを肌で感じている。逆に、両岸関係が劇的に改善した馬英九時代には、「反日」とされる同政権との間で、懸案の日台民間漁業取決めが結ばれた(2013年4月10日)。
「一つの中国」の正統性を争っていた時代ならともかく、「中国とは異なる」というのが現在の台湾民意の主流だ。しかも、有権者による直接選挙を通じ、2000年以降は大きな混乱もなく3回の政権交代を実現させた台湾である。この台湾との関係拡大は、日本の民意とも言えよう。しかし、その前提は上述のとおり、良好な両岸関係にある。台湾海峡の安定は、日本の国益そのものだ。従って、我々は、安定的かつ平和的な両岸関係構築のため、相互理解促進の手助けをする、相手をいたずらに刺激することは避けるよう働きかけるなど、中台双方の良き隣人としてできる限りの努力を傾注しなければならないのである。