東京財団研究員
畔蒜泰助
ウクライナのヤヌコビッチ政権の崩壊、ロシアによるクリミア編入、そしてウクライナ政府軍とウクライナ東部の親露派勢力による軍事衝突へと繋がる一連のウクライナ危機勃発の発端となったユーロマイダンでの反政府デモが発生したのは2013年11月21日のこと。あれから早1年が経過したが、あの出来事がその後の世界にこれほどの影響を与えるであろうことを、あの時点で誰が想像し得たであろうか?
ポスト冷戦後の欧州の安全保障体制の危機
2014年3月18日のロシアによるクリミア編入とそれに続くウクライナ東部でのウクライナ政府軍とウクライナ東部の親露派勢力による軍事衝突の勃発・拡大を受け、米国のみならず、ロシアと経済的に深い関係にあるEU諸国までもロシアに対して本格的な経済制裁を課したことで、米国・EU諸国とロシアの関係は劇的に悪化したまま今日に至っている。
同年9月5日、ウクライナ政府、ロシア政府、ウクライナ東部の所謂 “ドネツク人民共和国”と “ルガンスク人民共和国”との間で「ミンスク議定書」が調印されたことで、一応の停戦状態に至った。これにより、ウクライナ東部情勢の安定化とそれに伴う米欧による対ロシア制裁の段階的な解除への期待が生まれかけた。
だが、同年11月2日、この “ドネツク人民共和国” と“ルガンスク人民共和国”がウクライナ政府の反対にも関わらず、独自の大統領・議会議員を選出する選挙を断行した。ウクライナ政府は「ミンスク議定書」調印を受けて、ウクライナ東部地域に大きな自治権を認める “特別な地位”の付与を決定していたが、この決定の破棄を宣言。更にはポロシェンコ大統領がウクライナ政府軍はウクライナ東部での全面的な軍事作戦を再開する準備があると発言するなど、全く予断を許さない状況が続いている。
プーチン・ロシアは“ドネツク人民共和国” と“ルガンスク人民共和国”による独自選挙の実施を受けて、「ウクライナ東部の人々の意思表示を尊重する」という表現に留め、これを承認するには至っていない。
だが、ロシアはウクライナのNATO非加盟の保証を米欧側に求めており、もし、その保証が得られない場合、“ドネツク人民共和国”と“ルガンスク人民共和国”の独立を承認し、グルジアのアブハジアや南オセチアと同様の “frozen conflict”をウクライナ東部に作り出すことで、ウクライナによるNATO加盟の可能性を排除するという選択肢も排除していないと見る。
とすれば、ウクライナ危機が早期に解決される可能性は低く、万一、ウクライナ政府軍によるウクライナ東部での軍事作戦が再開されれば、ロシア側もこれに応じて、再びウクライナ東部への軍事的なてこ入れを行うのは間違いなく、そうなれば、米欧による対ロシア経済制裁は緩和されるどころか、一層強化されることも十分にあり得る。
ウクライナ危機後の露中接近のトレンド
かくして、一連のウクライナ危機の勃発はポスト冷戦時代の欧州地域における安全保障体制を根底から揺るがしているが、その余波は我が国を取り巻く東アジア情勢にも、ロシアによる中国への急接近という形で、少なからぬ影響を及ぼしつつある。
前述の通り、米欧は金融制裁を中心とした本格的な対ロシア経済制裁を課している。筆者は2014年10月22~24日、ソチで開催されたヴァルダイ会議年次会合に今年も参加した。同会議にはプーチン大統領をはじめ、セルゲイ・イワノフ大統領府長官、セルゲイ・ラブロフ外相、ヴャチェスラフ・ヴォロージン大統領府大地副長官(内政問題担当)、イーゴリ・シュワロフ第一副首相らが登壇した。そんな彼らが一致して発したメッセージは「ウクライナ危機を理由とした米国や欧州による対ロシア経済制裁は不当なものであり、我々の方からこれを解除してくれとお願いすることはない」というものだった。
そんなプーチン・ロシアが、ここに来てエネルギー分野を筆頭に、急速にその距離を縮めているのが他でもない中国である。またその煽りを受けて、従来、日本とロシアのエネルギー協力の最重要プロジェクトと位置付けられてきたウラジオストックでの液化天然ガス(LNG)プロジェクトが事実上、廃止される可能性が急浮上してきた。
2014年9月27日付け日本経済新聞によれば、露ガスプロム社のアレクサンドル・メドベージェフ副社長が「ガスプロムは東シベリアの巨大ガス田で開発する天然ガスの輸出を中国に限定する方針だ」と明言した。
この東シベリアの巨大ガス田とはサハ共和国のチャヤンダとイルクーツク州のコビクタの両ガス田で、2014年5月、プーチン大統領が訪中した際、露ガスプロム社と中国CNPC社は年間380m 3 のガスを2018年から30年間にわたって供給する大規模契約に調印しており、この中国向けガスの供給源となっているのが、チャヤンダとコビクタの両鉱区である。
一方、ウラジオストックLNGプロジェクトへのガス供給源として、中国との天然ガス供給契約が締結されることを条件に、東シベリアのガスを同LNGプラントへも供給する可能性について、露ガスプロム社は一度ならず言及してきた。その場合、新たに建設されるガスパイプライン「シベリアの力」をハバロフスクまで延長し、既に敷設済みのサハリン-ハバロフスク-ウラジオストック(SKV)ガスパイプラインに接続する。ところが、今回のメドベージェフ副社長の発言によって、この可能性はほぼ無くなったと見てよい。
更にこの10月、中国を訪問中の露ガスプロム社のアレクセイ・ミレル社長が「ガスプロム社はウラジオストックLNGプロジェクトの替わりに、中国に対してパイプラインでガスを供給する可能性を検討する用意がある」と発言したのだ。2014年10月13日付け露ベードモスチ紙によれば、前述の東シベリアから中国へのガス供給契約が締結されるまで、ウラジオストックへの主要ガス供給源はチャヤンダ鉱区と考えられてきたが、同契約の調印以降は、サハリン-3の南キリンスキー鉱区からの天然ガスを前述のSKVパイプラインを使ってウラジオストックLNGプラントに供給すると想定されてきた。だが、ここに来て、中国側がウラジオストックLNGプロジェクトを白紙撤回して、サハリン-3のガスも既存のガスパイプラインで中国に供給するようにガスプロム社に提案をしているという。
ウラジオストックLNGプロジェクトとは、日本政府がロシアとのエネルギー協力を巡る最重要案件と位置付けてきたものである。ウクライナ危機を受けて、中国に対するロシアの立場の弱まり示唆する動きといえよう。
更に、筆者が露中関係に詳しいロシア人専門家から得た情報によれば、従来、ロシアは民需・軍需の両方で使用される産業機械の調達はドイツを中心とした欧州諸国に頼ってきたが、ウクライナ危機後と欧州諸国との関係悪化を受けて、経済制裁の対象外であっても、それらの調達先をどれだけ中国にシフト出来るか、本格的な調査を開始しており、既にその一部の中国へのシフトは始まっているという。
ロシアを巡る日米戦略対話の必要性
米欧の外交・安保専門家からは「ロシアと中国の関係は戦術的なものであり、決して本格的な同盟関係にまで発展することはない」という見解が良く聞かれるが、それにはロシアが他の経済協力の選択肢があることが大前提であり、今は中国以外の選択肢はないというのが現状である。
エネルギー分野は勿論、産業分野でもロシアの中国に対する依存度は高まり、このような状況が長引けば長引く程、それは最終的に露中間の対等な同盟関係の構築ではなく、ロシアが中国の政治的・軍事的なジュニア・パートナーと化してしまうという潜在的な戦略上のリスクをはらんでいる。
2012年末の安倍政権の誕生以来、中国の台頭という東アジア地域の急激な戦略環境の変化を踏まえ、2014年2月までに実に5回の首脳会談を積み重ねるなど、積極的な対ロシア外交を展開していた我が国も、G7の結束を重視する観点から、対ロシア経済制裁の輪に加わった。また、今秋にも想定されていたプーチン大統領の訪日についても、その日程調整が出来ないまま、事実上、延期される結果となった。
ただ、安倍首相は、北京でのAPECサミット前日の2014年11月9日、10月のミラノに続くプーチン大統領との7回目の首脳会談を実施し、同大統領の来年中の来日再調整で合意するなど、日露の関係強化のトレンドをなんとか維持しようとしている背景には、上記のようなロシアの過度な中国への依存状況が継続することの潜在的なリスクを念頭に置いた戦略上の判断があると見るべきであろう。
その意味で、ロシアの過度な中国への依存状況が継続することの東アジア情勢に与えうる潜在的な戦略上のリスクを考慮し、日露の関係強化のトレンドを支持する識者や軍関係者が米国内にも存在するのは注目に値する。
2014年8月18日、中国専門家のEly Ratnerとエネルギー専門家のElizabeth Rosenbergが米外交問題専門誌Foreign Affairsのウェブサイトに寄稿した記事“Pointless Punishment(的外れの制裁)”の中で、「ウクライナ危機を巡る対ロシア制裁に日本を過度に巻き込むことは、露中を必要以上に接近させ、それは結果的に、東アジア地域における米国の同盟国である日本の立場を弱めることになる」と述べている。
更に、2014年10月25日、日本の海上自衛隊とロシア太平洋艦隊がウクライナ危機後、初の合同海上捜索救助訓練をウラジオストック沖で行っているが、2014年10月26日付Bloomberg配信記事によれば、米国の第七艦隊司令官のロバート・トーマス中将は、日本の海上自衛隊の行動を「米露間の海軍関係が凍結されている中で、ロシアとの有益な接点になる」とこれを積極的に評価している。
とすれば、来年以降の我が国の対ロシア戦略は、ポスト冷戦時代の欧州安全保障体制の危機としてのウクライナ危機を巡るG7の結束を重視したものから、東アジア地域の勢力均衡に悪影響を与えかねないウクライナ危機後の露中接近のトレンドにどう対処するか、という点により比重を移していくべきである。その為にも、ウクライナ危機後のロシアと中国の関係強化に関するタイムリーな情報収集・分析とこれをベースとした日米戦略対話の仕組みを構築することが急務である。