評者:三牧聖子(高崎経済大学経済学部国際学科准教授)
はじめに
「破綻するアメリカ」-重いタイトルである。本書は、以前から着実に進行し、トランプの大統領当選によって一気に噴出することになった、アメリカの政治、経済、社会、さらには思想における「破綻」状況を描き出す。本書に先行して著者は、『追跡・アメリカの思想家たち』増補版(中央公論新社、2016年)や『トランプ現象とアメリカ保守思想 』(左右社、2016年)などの刊行を通じ、「トランプ現象」の思想史的な意義について精力的な探求を進めてきた。さらに「トランプ現象」を政治的な反動として読み解いたマーク・リラ『難破する精神-世界はなぜ反動化するのか』(NTT出版、2017)の監訳や、アメリカ保守思想の金字塔ラッセル・カーク『保守主義の精神』(中央公論新社、2018)の翻訳も出版している。
本書でも「トランプ現象」の持つ意義が多面的に検討されるが、特に、「トランプ現象」の根底にある思想をえぐり出し、アメリカ政治思想史の系譜に位置付ける手法は、著者ならではのものであろう。本書は、トランプの台頭を単に現象として理解するのではなく、その思想的な意義を考えたい人々、「トランプ現象」を経たアメリカ政治思想のゆくえに関心を持つ人々に広く読まれるべき本である。
「トランプ現象」の担い手-「中産階級ラディカル」
冒頭、今日のアメリカを、2001年9.11テロでピッツバーグに突っ込んだ「フライト93」になぞらえる論文が紹介される。執筆者のペンネームはデキウス。「トランプ現象」などまともな考察に値しないという雰囲気が支配的であった中で発表された。デキウスは言う。このままではアメリカの破綻は確実である。ならばテロリストに最後まで抵抗した「フライト93」の乗客のように、トランプに一縷の望みを賭けてみるべきではないか。アメリカの政治的・経済的・社会的な行き詰まりに対し、民主党のリベラルのみならず、保守派も有効な解決策を打ち出せていないという「フライト93」の閉塞感が、「トランプ現象」の根源にあると著者はみる。
2016年大統領選でトランプが発掘した新たな票田が、「中産階級ラディカル」と呼ばれる人々の票である。今日のアメリカは、世代間所得弾性値(数値が高いほど親の高所得が子に継承されやすい)においてイギリスに次ぐ2位の地位を占める、厳然たる「階級社会」である。かつては大卒・高卒いずれの親から生まれても、自身がいかなる教育を受けても、ほとんど皆が中産階級になれた。対して今日では、生まれた家庭がその人物が受けられる教育や人生を決定的に左右してしまう。1940年代生まれの9割が親を超えて豊かになれたが、1980年代後半~2000年代生まれの「ミレニアル世代」でその夢が叶えられるのは5割程度である。このような経済的な変化を最も劇的な形で経験してきたのが、学歴は高卒以下、工場労働者やサービス業に従事し、所得は中~中の下の人々である。その惨状は、特に農村や地方小都市で、白人高卒労働者の「絶望死」が増加していることにみてとれる。
「左・右」の政治から「上・下」の政治へ
トランプを支持した「中産階級ラディカル」の政治意識は、保守・リベラルの対立軸では割り切れない。彼らは既存の政治勢力の右にも左にも絶望している。他方、政府に不信感を持っているからといって、必ずしも「小さな政府」を支持するわけではなく、福祉政策や政府の経済への介入も否定しない。彼らに共有されているのは、既存の政治は、富裕層と貧困層のみを相手とし、その間にいる自分たち中産階級は無視されているという政治不信、ウォール・ストリートと縁が切れない既成政党への怒り、絶望である。「政府がヒスパニックや黒人や移民を優遇しているから、その負担が中産階級にのしかかってくる」というトランプのメッセージは、彼らの「ないがしろにされている感覚」に絶妙に訴えかけるものだった。
このような「中産階級ラディカル」の投票行動は、今日のアメリカにおける政治の対立軸が、「左・右」から「上・下」へ移行していることを示唆している。著者は、「2016年の大統領選は、この対立構造を意識して戦われた最初の政治闘争かもしれない」(本書p.57)と見立てている。経済のグローバル化、製造業の海外移転、米経済のサービス産業化、労働組合の弱体化といった経済構造の変容の中で、知識集約型産業に従事する「グローバル・エリート」はますます豊かになり、彼らの下でルーティーン労働を繰り返す人々、彼らにサービスを提供する人々との経済格差は拡大し続けている。「グローバル・エリート」は、国民国家の疲弊には無関心で、グローバルに展開する企業の収益最大化を追求し、富を享受する。彼らエリートは、国境や主権に固執し、保護貿易を支持する労働者を「時代錯誤」と批判し、国境の開放と自由貿易の恩恵を語るが、グローバル経済の暴力性を不問に付したその「コスモポリタニズム」は、労働者の目には欺瞞にしか映らない。彼ら労働者は、たとえ望んだとしても、国民国家・国民経済という「ナショナル」なものから抜け出すことができない。今日のアメリカで「グローバル・エリート」と労働者は同じ国に生きながら、実質的にはまったく別の世界に生きている。
保守主義者の分裂
トランプを支持したのは労働者だけではない。本書は、トランプ支持をめぐる保守主義者の分裂、トランプに批判的であった保守派主流と袂を分かち、その支持に回った「オルタナ(別の)右翼」にも考察の光をあてる。「オルタナ右翼」といえば、日本では、その過激な白人至上主義で知られる。他方、本書が注目する「別の」保守主義者たちとは、トランプ政権を、アメリカ社会が陥った隘路から抜け出す契機と位置づけ、オンライン論壇ジャーナル・オブ・アメリカン・グレイトネスや、トランプ政権誕生後に創刊されたアメリカン・アフェアーズ誌などにおいて、経済グローバリズムに抗う「公正なナショナリズム」をうたい、アメリカ人の「雇用」を中核に据えた政策を唱道してきた、より広い一群の人々である。彼らは、医療保険制度改革については、政府による全国民加入制度を支持するなど、「小さな政府」を標榜するリバタリアンとは一線を画する。また、民主主義の拡大や人道的介入を志向するネオコン的な拡張政策も明確に排する。著者は、「世界経済の変容で、中国やインドで貧困から中産階級に4人が這い上がるたびにアメリカ人1人が中産階級から脱落するというのなら、それほど悪い取引ではない」というあるヘッジファンド幹部の発言と、「グローバリストはアメリカの労働者階級を破綻させ、アジアに中産階級をつくりあげた」というスティーブ・バノン元トランプ政権首席戦略官兼上級顧問の言葉を象徴的に対照させながら、「オルタナ右翼」の思想には、庶民を無視するグローバル・エリートたちへの反撃という、一種の階級闘争史観があるとする。
このように「オルタナ右翼」を位置付けた場合、その源流は、2人の思想家、ジェームズ・バーナム(1905-1987)、サミュエル・フランシス(1947-2005)に遡るという。両者はエリート・テクノクラートを批判してポピュリスト経済政策を唱道し、保守主義の本流から異端視された。
リベラリズムはなぜ敗けたのか?-アイデンディディ・ポリティクスの隘路
さらに本書の思想的な分析は、「トランプの勝利」の背景のみならず、「クリントンの敗北」についても展開される。この点において示唆的な論稿として紹介されるのが、中道リベラルを自負するコロンビア大学教授マーク・リラの論説「アイデンティティ・ポリティクス-リベラリズムの終焉」である。クリントンの敗北から数日後、ニューヨーク・タイムズ紙に掲載されたこの論説は、なぜ2016年大統領選挙において、リベラリズムは人々を惹きつけることに失敗したのか、その復権はいかにして可能かを論じ、大きな論争を巻き起こした。
アイデンティティ・ポリティクスとは、人種・民族・ジェンダー・性的指向などにおける特定集団の利害に沿った政治のことである。リラによれば、リベラルたちが、マイノリティの差別是正を掲げ、アイデンティティ・ポリティクスに邁進したことにより、リベラリズムはアメリカの人々に広く訴えかける力を喪失してしまった。白人男性は、マイノリティに関する発言を「言論統制」されているという被害者意識、自分たちだけがなぜ非難されるのかという怒りから、トランプの「政治的に正しくない(politically incorrect)」言説を支持した。平等で調和的な社会を目指してきたはずのアイデンティティ・ポリティクスは、皮肉なことに、現実にはアメリカ社会を解体する力学となり、自分たちが属する集団のことだけを考える分断の政治を生み出している。キャンパスでは、「リベラル」を自認する学生による「保守的」な教授の糾弾が相次ぎ、「右派」「差別主義者」というレッテル貼りを恐れて、学生たちは自由な表現を萎縮させている。異なる者同士が傷つけ合わずに共存するための叡智であったはずのポリティカル・コレクトネス(PC)は、「思想警察」として機能し、社会の分断を深めている。
著者は、このようなアイデンティティ・ポリティクスをめぐるアイロニカルな現状に、人間存在の変容-議論や協働を通じ、差異を超えて、すべての人々と結びついていこうとする、啓蒙主義が想定した個人(the individual)から、社会の大きな問題に関心を持たず、SNSで「いいね!」と肯定した同質的な相手だけと結びつく個人(the personal)への変容-をみてとる。
さらに民主党が展開してきたアイデンティティ・ポリティクスの問題点は、それに傾倒することにより、困窮する白人労働者層の問題、経済格差の是正という課題が疎かにされてきたことにある。大統領選で敗北を突きつけられる前に、この問題に気づいていたリベラルもいた。大統領民主党予備選挙で善戦したバーニー・サンダースである。サンダースは、「多様性候補」を立てることも大切だが「労働者階級のための闘士となる候補」が必要だといち早く主張していたが、この問題提起は、民主党のリベラルたちに真剣に受け止められることはなかった。
トランプ政権を去る直前、バノンは次のように言い放った。「民主党がアイデンティティ・ポリティクスを論じ続けるほど、こちらの思うつぼだ。毎日、人種差別をいい続けてほしいものだ。左派が人種とアイデンティティに焦点を当てて、こちらが経済ナショナリズムを訴え続けていれば、民主党をつぶせる」。リベラルたちが「トランプ現象」の意義を、人種差別・排外主義・偏狭なナショナリズムの噴出に矮小化し、その有害さを糾弾することに終始している限り、「トランプ現象」は終わらないと著者は示唆する。リベラリズムがアメリカ国民への訴求力を取り戻していくには、集団ごとの差異を強調するのではなく、差異を超えて広く人々が共有できる大きなテーマを発見し、追求していく必要がある。
もっとも本書で指摘されているように、今日の選挙のあり方は、そのような大文字の「政治」をますます困難なものとしている。今日の選挙運動では、人種・階級・ジェンダーを人口動態で分類し、その集団意識や投票行動を分析することは不可欠の一部となっている。政治は、異なる人々を「束ねる」ものではなく、「分ける」ものへと変容し、アイデンティティの違いを超えて、多様な人々に共有されうる政治的な価値の創出、発見はますます困難となっている。
「破綻」の先の再生
本書が明らかにしていくアメリカの政治的・社会的・経済的・思想的な「破綻」は、どれも深刻であり、容易にその解決を楽観できない。しかし本書に貫かれているのは、「破綻するアメリカ」を凝視し、その原因を徹底的に究明してこそ、現状を打開する道が見えてくるという、未来への決意である。以下では、「破綻」の先に、どのような再生の希望が見えるかに関し、評者の見解をいくつか述べて書評を締めくくりたい。
まず保守主義の行方である。確かに著者がいうように、トランプとともに台頭してきた「オルタナ右翼」は、白人労働者層の支持を背景として今後、保守主義のメインストリームとなる可能性を秘めた思想かもしれない。他方、特にその白人男性中心主義的な傾向に対しては、リベラル陣営のみならず、保守主義内部からも違和感や反発が表明されていることにも注意を向けておきたい。今年2月に開催された保守主義者の年次総会、全米保守行動会議 (Conservative Political Action Conference)には、「オルタナ右翼」勢力、海外からは仏国民戦線マリオン・ルペン、ナイジェル・ファラージ元イギリス独立党党首が大々的に登壇したが、このようなCPACの変容に対し、伝統的な保守主義者から抗議の声があがった。ナショナル・レビュー誌への寄稿で知られるモナ・チャレンは、トランプの女性差別的な言動や、アラバマ州上院補選で少女への性的虐待容疑があるロイ・ムーアを共和党候補にしたことを批判し、トランプと「オルタナ右翼」の登場によって、保守主義が単なる排外主義・差別主義となることに明確に抗議の意を示した [1] 。「オルタナ右翼」の台頭は、メインストリームの保守主義者に危機感を抱かせ、保守すべき価値とは何かについての自省を促している。
リベラリズムの行方はどうだろうか。リラや著者が述べるように、アイデンティティ・ポリティクスはその役割を終え、今日では連帯どころか、分裂をもたらすだけのネガティブなものでしかないのだろうか。リラが前述のニューヨーク・タイムズ紙の記事を発展させる形で、2017年に上梓した Once and Future Liberals: After Identity Politics のタイトルが表すように、リラにとってリベラリズムの希望は、フランクリン・D・ローズヴェルト時代に代表される「かつて(Once)」と「未来(Future)」にあり、「現在」にはない。しかし、それはあまりに悲観的ではないだろうか。
2016年の大統領選挙は、アイデンティティ・ポリティクスの行き詰まりだけではなく、その新たな展開を感じさせる選挙であった。そこでは、「ミレニアル世代」といった、新しいアイデンティティが意識され、人種横断的な新しい連帯が生み出された。彼ら「ミレニアル世代」の関心は広く社会に向けられており、その過半数はグローバルな資本主義経済の現状に懐疑を抱き、オルタナティブの経済システムを模索すべきだと考えている [2] 。さらに今年2月にフロリダ州の高校で起こった銃乱射事件をきっかけに、高校生の呼びかけで銃規制の強化を訴えるデモ「私たちの命のための行進(March for Our Lives)」が立ち上がり、全米に広がっている。彼らを結びつけているのは、未来の政治を担う次世代という意識、銃によって誰の人命も奪われない社会という将来のビジョンである [3] 。アイデンティティとは絶対不変のものではなく、可変的で重層的なものである。アメリカ政治においてアイデンティティ・ポリティクスの可能性は、まだ尽くされていないように思われる。
[1] Mona Charen, “I’m Glad I Got Booed at CPAC,” New York Times (February 25, 2018).
https://www.nytimes.com/2018/02/25/opinion/im-glad-i-got-booed-at-cpac.html 2018年4月5日アクセス。
[2] Ben Steverman, “Get Rid of Capitalism? Millennials Are Ready to Talk About It,” Bloomberg (November 6, 2017). https://www.bloomberg.com/news/articles/2017-11-06/get-rid-of-capitalism-millennials-are-ready-to-talk-about-it 2018年4月5日アクセス。
[3] Osita Nwanevu, “How to Do Identity Politics- The March for Our Lives Was a Master Class in Bringing Together Individual and Collective Experiences,” Slate (March 26, 2018). https://slate.com/news-and-politics/2018/03/the-march-for-our-lives-was-a-master-class-in-identity-politics.html 2018年4月5日アクセス。