インタビューシリーズ「障害者の自立を考える」:宿野部武志さん <前編> | 研究プログラム | 東京財団政策研究所

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インタビューシリーズ「障害者の自立を考える」:宿野部武志さん <前編>

October 30, 2013

宿野部武志さん(株式会社ペイシェントフッド 代表取締役社長)インタビュー概要

日時: 2013年9月3日
インタビュアー : 三原岳 (東京財団研究員・政策プロデューサー)
石井靖乃(日本財団国際協力グループ長兼公益ボランティア支援グループ長)

「障害者の自立を考える」インタビュー企画の第3回は、慢性腎炎や人工透析患者を支援する「株式会社ペイシェントフッド」代表取締役の宿野部武志さんに話を聞きました。宿野部さんは3歳で慢性腎炎になり、高校3年生の時から人工透析を受けていますが、大学卒業後は大手電機メーカーで勤務。さらに、「病気の人を助ける仕事をやりたい」という気持ちで電機メーカーを退職し、社会福祉士の資格を取得した後、「腎臓病・透析に関わるすべての人の幸せのために」をスローガンに掲げるペイシェントフッドを2010年9月に創業しました。宿野部さんは「透析患者の社会参加を支援したい」という問題意識を持っており、患者だけでなく医療職への支援や医者・患者のコミュニケーション促進にも意欲を見せています。宿野部さんに生い立ちや大学進学・社会人時代の経験、ペイシェントフッドを創業した理由と今後の事業展開などについて話を伺いました。

学校の体育は全て見学

宿野部さんによると、人工透析患者は30万人超。患者は週3回4~5時間の透析を受けなければならない。透析を受けるまでの期間を少しでも伸ばすため、親から運動を制限するよう言われており、体育の授業は休んでいたが、やんちゃだった宿野部さんは普通に野球やサッカーで遊んでいたという。「周囲と違うのは子ども心にすごく嫌でした」と振り返る。

最初に透析の話から始めます。透析患者は今、全国に30万人超います。ほとんどの人が1回4時間で週3回の透析を受けていますが、私は1回5時間、週3回やっています。今の透析は過去の診療報酬の関係などで、1回4時間週3回が基本。血流という血を流す量も200ml/分が主流です。しかし、腎臓が働かなくなり、その代わりに透析するので4時間では全く足りない。できるだけ時間と流量を多くした方が体の毒素が抜けるので、それだけ食事制限が緩くなります。このため、「しっかり透析」をキーワードに治療する施設も少しずつ増えています。私がお世話になっている施設も「しっかり透析」をうたっています。中には6時間やっている人とか、他院では「オーバーナイト」といって夜に仕事が終わって22~23時からスタートして、朝の6~7時まで透析して会社に行っている人もいます。ただし、オーバーナイトでも週3回はやります。その一方で、自宅で好きな時に透析する在宅透析の人も全国で400人ぐらいいます。診療報酬上、施設で透析をする場合は「月14回まで」と決まっているのですが、在宅だと何回やっても問題ない。機械の問題がありますけど、本当に好きな時にできます。透析費用については、医療費の自己負担は市区町村で違いますし、所得でも変わってきますが、通常はほとんどかかりません。しかし、実際には透析自体1回2万3000円ぐらいかかっており、患者の負担はありませんが、税金と保険料で穴埋めされています。毎月平均して40~50万円になるので、1年で言うと400~500万円。無料になるには保険証以外に色々な医療券が必要です。具体的には、国民健康保険に申請して交付される「特殊疾病療養受領証」。特定の難病患者に対する東京都の助成制度に基づいて交付される通称「マル都医療券」。身体障害者手帳保持者(透析患者は1級に該当)を対象とした通称「マル障」と言われている東京都の心身障害者医療費助成制度より交付される「マル障受給者証」の3つがあります。透析患者は身体障害者手帳1級に該当するので、私は健康保険証と、身体障害者手帳、3つの医療券は常に持ち歩いています。

生まれは1968年5月29日、埼玉県川越市に生まれました。一人っ子です。慢性腎炎になった3歳の時。原因は分かりません。父は2年前に亡くなっているので、同居している母親に聞いたところ、子どもの頃は塩辛い物を食べさせないように気を付けていたそうです。病院は必ず月1回通い、血液検査をやって足のすねのむくみを診て貰っていました。それでむくんでいると入院。こんな感じで、小~中学校の頃は毎年のように入院していました。概ね入院期間は1カ月。長い時は3カ月ぐらいだったかもしれません。入院している時は「トイレ以外歩いちゃ駄目」と言われていました。しかし、守れるわけがない。しかも人よりもやんちゃでしたし(笑)。治療としては副作用の強い薬を集中的に摂取するとか、「パルス療法」といって薬を点滴で毎日のように大量に投与するのですが、それが相当ハード。食欲はなくなるし、体力は消耗するし、大学病院だったので父親が「人体実験しているんじゃないか」と抗議するぐらいでした。そういう場面は1度しか見たことないですが、それぐらいハードな治療。それと検査も色々とやりましたが、一番辛かったのは「腎生検」という腎臓の細胞を取る方法でした。一番正確な診断は細胞を取ることで、実際に腎臓の細胞がどうなっているか見ることですから。これは1回やると24時間動いちゃいけない。それと副作用の強い薬を飲むことが多く、その間はステロイド系の薬で顔が丸くなったり、骨が弱くなって足腰がすごく弱くなったりします。すると、少し坂になっている実家の下は階段になっているので、階段が昇れなくなります。それで送り迎えを母親が自転車でやっていました。思春期の頃、「何で自分が病気なのか」という気持ちになると、どこに当たっていいか分からない気持ちになり、「なぜ病気で生んだのか」と本当に酷い言葉を親に言ったこともあります。でも、基本的に慢性腎炎は治りません。今になって分かることですけど。急性腎炎であれば慢性になる前に治療を施せますが、「如何に透析までの間を延ばすか?」という治療でした。

腎臓の悪化を防ぐ上では運動を控える必要があるので、学校の体育は全て見学でした。でも、幼稚園、小学校、中学校の時、人よりもやんちゃだったし、「運動をしたら駄目」と言われたところで守れるわけがない。体育の授業は見学しているのに、放課後は友達と野球をやったり、サッカーやったり。「結構スポーツに自信がある」と自分では思っていたぐらいです。だから学校の友達には「宿野部君は何で体育を休んでいるのに、今は野球やっているの?」と聞かれて、「サッカーであればゴールキーパーだから大丈夫だ」「特に走らないようにしているから」とか説明にならないことを言って(笑)。性格は暗くはなかったので小学校ぐらいまでは本当に普通に遊んでいました。親は野球をやっていることを知っていたと思いますが、広場や駐車場で柔らかいボールで打っていたし、三角ベースですし、そんなに走る感じじゃなかったので「しょうがないな」と思っていたと思います。子供の頃はセルフコントロールをやった記憶が全くありません。「塩分を控えなさい」と言われていましたけど、スナック菓子やポテトチップスを食べていましたし、言い付けを守ったのは体育見学ぐらいですね。教室の掃除についても、親が「掃除をさせるな」と言ったのか、教員から「宿野部君は掃除をやらなくていいから座ってて」と言われました。でも、掃除は一つ一つ机を前に動かした後、教室の後ろを掃きますよね。いくら「座ってて」と言われても、机や椅子を前に運ぶと移動することになるので、それがイヤになって教員に反発して「いや、掃除やるから」と言って、普通に掃除していました。他の子と何か違うのは子ども心にすごく嫌でしたね。

中学の頃は校内暴力の嵐。ドラマの「金八先生」の世界です。私の1つ上の先輩がニュースに出ちゃったり、新聞で窓ガラスが割られたりして、中学が酷く荒れた状態でした。その時、記憶に残っている「事件」がありました。顔が薬で腫れていることについて、隣のクラスの同級生が必ずすれ違いざまに悪口を言ってくるんです。暴力を受けるわけじゃないですが、顔のことを必ず言われるのが毎日、毎日辛くて。しかし、性格としては負けず嫌いなので、ある日の朝、母親に「何かあるかもしれないけど、心配しないで」と言って学校に行きました。それで休み時間に悪口を言う同級生を呼び出して、いきなり蹴りを入れました。しかし、買ったばっかりのズボンだったらしく、すごく怒って胸ぐらをつかまれて。そりゃ当たり前なんですが…。しかも相手は学年で1~2番ぐらいの背の高い体格の良い人だったので、体力的に勝てるわけがない。それで、胸ぐらをつかまれて、廊下に並んでいる蛇口に頭を打ち付けられて、頭から血が吹き出て病院に担ぎ込まれました。親も学校に呼ばれて、恐らく「朝の一言は、このことだったのか」と感じたと思います。でも、この後いじめはなくなったような気がします。僕は頭に来ると駄目なので、その時は相当我慢していたのでしょうね。それと、治療としては一番暗黒時代でハードなことを結構やっていたので、中学校時代は良い思い出が正直ありません。

反対を押し切って受験

近所の高校に通った後、医者の反対を押し切って大学を受験。浪人を経て自宅近くの私立大学に入学した。体育での配慮を受けた以外は普通に通っていたが、試験の時は透析の日程を調整していたという。

高校は家から通える私立の高校に進みました。高校生になると、「いずれ透析になる」と予想されていたので、ハードな治療をやっていませんでした。最初、通院していた大学病院から透析の可能性が高まったため透析や移植に強い大学病院に変わり、そちらの病院に毎月行くようになったのですが、病気の治療というよりは「如何に保存期を延ばすか」という経過観察。高校は普通に3年間通いました。他と違うのは修学旅行に行けなかったことぐらいでしょうか。修学旅行はタイでしたが、「衛生上行ったら駄目」と言われました。風邪や感染症に感染すると腎臓は悪くなる一方なのです。でも、衛生状態と別に、旅行期間中にクーデターが起きたり、生徒が赤痢になったりしたので、「行かなくて良かったな」と思いましたけどね(苦笑)。人工透析になったのは高校3年の時。「大学受験をしよう」と思っている時に「透析です」と言われました。高3になったぐらいから「透析が近い」という話があり、受験も止められました。毒素が体中に回っている尿毒症のような状態になっていることが理由でした。でも、絶対に受験したかった。すると、医者に「途中で頭が痛くなったら、すぐに中止して病院に来なさい」と言われました。それで最後の大学を受験し終わったら、終わった瞬間に本当に頭が痛くなってしまって。本当、マンガみたいですけど、完全に気が抜けてしまったみたいです。それで、緊急入院して透析を導入することになりました。透析導入で入院しつつ、外出許可を貰って合格発表を3校ぐらい見に行きました。今から考えると学力的に絶対受かっていないのですが、「もしかしたら受かっているのでは」と期待したんです。でも、全部落ちました。病院に帰って来る度、看護師に「どうだった」と聞かれて、「落ちました」と答えていました。その後、透析導入の入院が終わって川越の実家で浪人生活に入りました。当時は埼玉県坂戸市の病院で週3回、4時間の透析を受けつつ、予備校のある代々木まで通いました。今となっては体力的に絶対できないと思います。でも、透析を受けている4時間も勉強していました。左手は透析で使えないのですが、真面目に何か読んでいました。

大学は大東文化大学に進学しました。学力に合った近所の大学を幾つか受けました。透析を受けて間もなかったですし、一人暮らしは全く考えていなかったので、自宅から通える所から選びました。在学中は普通の学生と変わらない生活でした。アルバイトとしてコンビニエンスストアで働きましたし、仲良しの友達とサークルを作りました。冬はスキーで、夏は海に行く軽い感じのサークル。でも、今から考えると作ることが楽しかったと思います。たまたま他の女子大の子が来てくれたので、何回か飲み会をやって自然消滅です。他の学生と少し違ったのは体育の授業。自分で選んだ科目を取れればOKですけど、そうじゃない時もあります。結局、体育の授業はソフトテニスと卓球でした。当時は「とにかくできるだけ運動しない科目」と思っていました。透析患者は運動しても良いのですが、貧血で持久力がないのです。授業では普通にテニスをやっていましたが、グラウンド3周の準備運動はやりませんでした。それは教員に全て話して、配慮して貰いました。周囲にも病気のことを明かしていました。小さい時は体育を毎回休んでいるので、「何で休んでいるの?」と言われると、「腎臓が悪いから」と答えるので、友達から「人造人間キカイダー」と呼ばれていました。子どもって必ずそういうあだ名を付けますからね(苦笑)。小中学校の時の周囲は「腎臓が悪い」と認識していたと思いますが、高校~大学ぐらいになると、慢性腎炎や透析など細かいことも理解してくれたと思います。それと、好きな女の子に告白する時も、「僕プラス人工透析込みでお願いします」と必ず言いました。「透析している人は受け入れられません」と言われて振られたこともあります。しかも、その人は看護師でしたけど。透析のことを知っているからこそNGだったのかもしれないです。授業の選択については、透析の日に気を遣いました。当時、透析が月水金だったか、火木土だったか覚えていないですが、うまく通えるように自分で組み立てていました。でも、流石に試験日は選べないので、その時は透析の日を変更していました。でも、透析を受ける日は習慣になっているので、透析のスケジュールを変えるのは見えないストレスというか、調子が狂う部分があります。

ソニーでの経験

就職先はソニーを選んだ。「面白そうな会社」という理由で受験し、入社後は人事系の部署で勤務した。安全衛生や組合対策などの業務に従事した後、メンタルヘルスや病気など休職者の相談に乗っているうち、「病気の人を助けたい」という思いが強まり、14年間勤めて愛着も持っていた会社を辞める決断を下す。

就職先はソニーでした。確か商社も受けましたね。「面白そうだ」と思う会社を受けたつもりです。受けたのは10社ぐらい。それで、最終的に商社とソニーが残ったのですが、商社の最終面接では「不合格にしろ、合格にしろ、必ず連絡します」と言われたのに、待っていても一向に連絡が来ませんでした。他の同級生よりも決まるのは遅かったですけど、ソニーから「採用」という連絡を頂きました。入社試験を受ける際、最初は障害学生に対応する大学の就職部の教員にお願いして、障害者枠で募集している会社の話を聞きました。そこで、障害者採用枠を設けている会社を集めた大きな就職フェアを紹介して貰ったりして、就職部から障害学生を採用した実績のある会社のリストを頂いたりして、実績がある所で自分が興味ある会社や面白そうと思った会社にチャレンジしました。通常はOBOG訪問をやりますが、大学にOBが誰もいなかったので、会社に電話して面接を受けました。採用は障害者雇用促進法(=就業者の一定割合について障害者採用を義務付ける法律)の枠です。当時、同期だけで何百人。入社式では一斉にコンサートホールみたいな場所に座るのですが、当時は創業者の盛田昭夫さんが「会社に合わないと思ったら辞めて下さい。今年は採り過ぎた。合わないと思ったら辞めた方があなた達のためだから」と話した後、大賀典雄さんが「SONYのブランドを心して仕事をしろ」と話していました。まだ創業者の息吹が残っている頃でした。その後、配属先の通知が全員に配られて、「通知を開けてください」と言ってみんな一斉に開けて、「人事部だ」「商品企画だ」と分かります。結構ドキドキです。開けてみたら人事グループ。事務系の中では業務範囲が幅広いですし、「人事を1回できたらいいなあ」と思っていました。

最初の配属先は大崎でした。今は立派なビルが建っていますけど、元々はテレビを造っていた工場でした。入社時はまだ名残があり、そこだけで1200~1300人ぐらい働いていました。仕事としては安全衛生と防災。職場が「健康開発センター」という名前で、敷地の中で健康開発センターだけが外れた場所に建っていたので、最初は戸惑いました。と言うのは配属時には新入社員が会議室に集まり、上司が「それじゃあ、何々君、職場に行こうか」という感じで、職場に連れて行きます。でも、僕だけ離れた所に連れて行かれて、建物に「健康開発センター」と書いてあったので、「病院に就職するのかな。病気だから何かそこで観察されるのかな」などと考えてしまいました。でも、結果的には安全衛生の業務は必ず何処の会社にもあるので、考え過ぎでした(笑)。しかも健康開発センターの中は診療所があり、看護師や保健師と一緒に産業医も務めているので、「何かあれば医者がいる」という配慮もあったのでしょうね。採用面接の時、月間フレックスタイム制のコアタイムが午前9時半~午後3時半だったので、「透析の日は3時半に帰ることは可能」という話でした。でも、仕事自体も楽しかったし、実際には3時半で帰るなんて無理。当時は火木土が透析日で、病院からは「6時までに入って下さい」と言われていたので、火木は5時まで働いて6時ギリギリに入り、それで4時間透析時間を取るという生活でした。

結局、健康開発センターでは3年程働いた後、大崎の人事総務総合フロアで労務担当に移りました。当時、ソニーはカンパニー制(=事実上の分社制)を採用しており、そこで労務担当として組合交渉を4~5年担当しました。毎月、事業所代表と組合側が交渉し、三六協定(=残業や休日労働の時、必ず事前に労働基準監督署に届け出ることを義務付けた労働基準法第36条の規定。協定締結には労使合意)を結ばないと、通常は月35時間以内と定めた超過勤務時間を超えることができない。当時は「キララバッソ」というテレビの新商品が発売される頃だったので、忙しい状態が3~4カ月ぐらいになると、「忙しくなるので、このぐらい残業が必要だ」という申請になり、社員代表、組合側が話し合ってOKを貰う会議を開催していました。でも、その時は透析日をずらすなどの方法で、調整できました。すごく困った記憶がないので、多分うまく調整できたのかな。それと、労務担当は「何でも屋」なので、色んな仕事に携わりました。例えば、会社で何かトラブルがあった時、労務担当の役割になります。社員が何か悪いことをやったことが分かると、証拠を集めて、「懲戒解雇の旨」を話すなど泥臭いことも結構やりました。その後は人事部門で派遣社員や契約社員の受け入れなどの業務やプロダクツ部門の人事に携わり、品川にオフィスを置いていた本社の中枢フロアで、厚生担当に移りました。これも全くやるとは思っていなかったので大変でした。例えば、社員食堂は当時、カフェテラス形式にするとか、福利厚生制度そのものを抜本的に変える時でした。それと、仙台のサッカーやバレー部などソニーの色んなクラブ活動の対応も厚生担当の業務。かなりの規模の予算削減を担当しました。福利厚生の後は給与部門に移りました。当時は人事系だけの「ソニーヒューマンキャピタル」という別会社ができており、そこで給与担当のリーダーになりました。新しいシステムでソニー本体だけで2万数千人いるので、その人達の給料を新しいシステムで対応するタイミングと重なり、それも大変でした。

会社を辞めた2006年当時は係長級でした。辞める時は同期と同じぐらい昇進しており、課長級のマネージャー試験を通れば給与部門を卒業となり、次は「プロダクト(=製品カテゴリー)」の人事に行くというタイミング。その方向で上司と話していたのですが、「辞めます」と告げました。辞めた理由は「病気で困っている人を支援したい」という思いでした。小さい時から病気だったので、自分の主治医から「これだけ医者にかかっているわけだから宿野部さんは当然医者になるよね?」と言われていました。でも、僕は「絶対ならない」と思っていました。当時は「できるだけ病気のことを頭から離したい感じだし、見たくない」という気持ちだったのです。実際、普通に会社通っていても、何の不満もない。色んな条件もいいし、仕事も楽しい。でも、それまでの仕事で、うつ病やメンタル、病気で休む人に対する対応をやっている時、「会社員生活を続けていくべきなのか。これが自分のミッションなのかな…」と薄々感じ始めました。面談していると、泣いちゃったりする人もいますからね。それで、「社会福祉士の資格を取ってソーシャルワーカーになりたい」という思いが芽生え始めたのです。しかし、ソーシャルワーカーになるには、僕の学部だと1年間養成校に行く必要がある。それで退職する3~4年ぐらい前から、社会福祉士を養成する専門校からパンフレットを貰って説明会に行ったり、学科長みたいな人と会って話したりしていました。当初は起業というよりも、「ソーシャルワーカーになりたい」という気持ちの方が強かったと思います。会社を辞める2年前、両親に初めて相談した時、父親は泣いてしまい、母親も困惑していました。その時は「ちょっとまずいかな。親不孝かな」と思いとどまったのですが、医者から「透析の合併症でオペをしないといけない」と言われて、色々なことを考えても「やりたくて仕方がない!」という自分の気持ちが変わらなかったので、「もう辞めます」と決断しました。

    • 元東京財団研究員
    • 三原 岳
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