評者:板橋拓己(成蹊大学法学部助教)
はじめに
本書は、ドイツ連邦共和国(以下、西ドイツ)のブラント政権が推進した東方政策(Ostpolitik)について「多角的アプローチ」を試みた実証研究であり、著者の十年余りに亘る東方政策研究の結晶である。すでにボン大学に提出した博士論文がドイツ語で公刊されているが(Senoo Tetsuji, Ein Irrweg zur deutschen Einheit? Egon Bahrs Konzeptionen, die Ostpolitik und die KSZE 1963-1975, Peter Lang, 2011)、著者自身の言を借りると、「今回日本語で出版するにあたって、内容的にはドイツ語の博士論文からのスリム化を図る一方で、『冷戦史の主体としてのドイツ』と『東西の狭間のドイツ』の二つの分析視角を明示した点」(「自著紹介」『ユーラシア・ウォッチ』第205号、2011年9月1日)が本書固有の特徴である。また、ブラントの側近エゴン・バール(Egon Bahr, 1922-)の構想を軸に論じている点、西側諸国との意見調整に焦点を当てている点、内政にも眼を向けている点などが、一目して分かる特色だろう。
本書の構成は以下の通りである。
序 章 ブラントの東方政策と東西分断の克服
第1章 バールの構想と分断克服への道 ― 準備段階から政権奪取まで
第2章 ブラント政権の東方政策 ― モスクワ条約と東西ドイツ関係を中心に
第3章 東方政策と西側との意見調整
― モスクワ条約の交渉過程における米英仏との意見調整を中心に
第4章 東方政策とヨーロッパ統合問題 ― ハーグEC首脳会談を中心に
第5章 東方政策をめぐる西ドイツ国内の議論 ― 一九七二年の連邦議会選挙を中心に
第6章 東方政策の「多国間化」― CSCEの準備過程を中心に
終 章 ブラントの東方政策とは何だったのか ― 分断と統一、東と西のあいだで
本書の概要
まず序章では、研究動向が手際よく整理されたうえで、本書の分析視角が提示される。冷戦終結と東西ドイツ統一以来、「果たして東方政策はどれほど統一に寄与したのか」が一大争点となった。しかし著者は、こうした(しばしば党派的な)論争からは距離をとり、東方政策の「射程の長さや多面性」に目を向けるべきだと主張する。また東方政策は、東側市民の軽視、西側諸国との調整不十分、長期的目標(分断克服とドイツ統一)と短期的目標(緊張緩和)の齟齬などの点を批判されてきたが、本書はそれらの批判に対する著者の回答でもある。さらに、近年では東西の一次史料を駆使した東方政策研究が陸続と出版されているが、なかでも本書のオリジナリティは「西側諸国との意見調整に注目しつつ、ヨーロッパの緊張緩和の頂点たる1975年のCSCE開催に至るプロセスに関して、多角的な観点からアプローチする外交史研究」という点に求められている。
そのうえで本書は、二つの分析視角を設定している。第一は、ドイツを主体とするヨーロッパ冷戦史という視角である。つまり、東西対立の客体として扱われがちな西ドイツが、主体的に冷戦構造の克服を目指した点に注目するのである。第二は、東西の狭間で展開されるドイツ外交という視角である。この視角により、冷戦という枠を超えて、ドイツ外交の地理的条件や歴史的背景も分析の射程に収めることが可能となるのである。
第一章では、ブラント政権以前の西ドイツ外交が簡潔に纏められたうえで、バールの構想が検討される。まず重要なのが、1963年7月のトゥツィング演説で示された「接近による変化」構想である。これは、従来の東側との対決姿勢を改め、ソ連との合意を重視して「接近」を図り、現状を一旦承認したうえで「小さな歩みの政策」によって分断の克服を目指すものであった。また、68年6月にバールが外務省政策企画室室長として提示した、分断克服への段階的アプローチも重要である。これは、ドイツ統一実現への道程を三段階に分け、第一段階を東側諸国との二国間関係の改善、第二段階を多国間緊張緩和の促進、第三段階を新たな安保体制の構築による「ヨーロッパ平和秩序」の創出と定めるものだった。バール構想のポイントは、長期的な観点に立っていること、人的交流の拡大を重視したこと、決して西側諸国との連携を疎かにしたわけではないことと纏められる。
第二章は、東方政策の「核」である対ソ交渉と対東ドイツ交渉が検討される。バールは、グロムイコを相手に将来のドイツ統一の可能性を確保するとともに、東ドイツに対しては実務的な関係改善を優先し、東西ドイツ間の人的交流の拡大に繋げた。興味深いのは、東方政策に関しては首相府に権限が集中され(バールは首相府東方問題担当次官)、外務省やドイツ内関係省は二次的な役割に留まったということである。また、東方政策について連立与党のSPDと自由民主党(FDP)には合意があり、外相シェール(FDP)とブラントの関係も良好だったと指摘される。こうして「全てがバールの手の内に」(シェール)あるような状況が整えられていたのである。
第三章では、東方政策の推進にあたって、ブラント政権が西側三国(米英仏)と緊密に意見調整をしていたことが示される。東方政策に対して西側三国は、緊張緩和を促進する点で期待を寄せたものの、やはり不安を隠せなかった。ここで重要な役割を演じたのが、「ドイツ全体及びベルリンに関する戦勝四カ国の権利と責任」問題である。西ドイツは、この「権利と責任」の確保に尽力することで、東方政策への西側三国の不安を和らげることができたからである。また、ベルリン問題のように自国に直接交渉の権限がない争点については、「ボン四カ国グループ」という場や、キッシンジャー=バール間のバックチャネルなどを通じて、西側諸国との調整が重ねられた。モスクワ条約の本交渉時に西ドイツと米英仏の間で「劇的な危機」が生じたこともあったが、最終的には、三国の主張を反映させようと尽力した西ドイツの姿勢が評価された。西ドイツによる緊密な意見交換が、西側諸国の不安を緩和したのである。
第四章では、東方政策とヨーロッパ統合の関連が論じられる。ブラントは、69年10月の就任演説でハーグEC首脳会談を新政権の最重要課題に位置づけた。こうしてブラントは、ポンピドゥのフランスと緊密に意見交換したうえで、69年12月のハーグ会談に臨み、「拡大」や「深化」(EPCや「経済通貨同盟」構想)に積極的な姿勢をアピールした。しかしその後、西欧諸国は西ドイツの欧州政策の後退を懸念した。これに対し西ドイツは、ヨーロッパ統合の延長線上に東方政策を位置づけることで、東方政策とヨーロッパ統合の両立を図った。ブラントは、「東方政策は西側に始まる」と認識していたのである。
第五章では、東方政策と西ドイツ内政の関係に焦点が当てられる。東方政策をめぐって国内では、政府の秘密主義的な交渉スタイルへの批判が存在した。但し、野党CDU/CSUは東方政策に関して足並みを揃えることはできなかった。また、東方政策への世論の半数以上の支持と、国外からの緊張緩和への期待が、野党に対する圧力となった。注目すべきは、ブラント政権が、内政基盤の脆弱さを外交カードに用いて、ソ連から譲歩を引き出したことである。結果、ソ連および東ドイツは、西ドイツのモスクワ条約批准とブラント政権存続のために尽力した。また西側三国も、緊張緩和の逆行を警戒し、西ドイツの東方諸条約の批准を後押ししたのである。
第六章では、CSCEの準備過程の検討から、東方政策の「多国間化」が論じられる。東方政策の合意内容は、国境の不可侵と平和的変更の可能性の確保、戦勝国の権限の確保、人的交流の拡大であった。西ドイツは、これらの点を多国間の枠組にも反映させることを目指す。これは、CSCEの第一バスケット(政治・安全保障)と第三バスケット(人・情報・思想の自由移動)に関して、西側の交渉姿勢に自国の意見をいかに反映させるかの問題となった。そして西ドイツは、ヘルシンキ最終文書作成過程において、アメリカとの緊密な連絡やEPCの枠組の活用を通じて、自国の意見の反映に尽力したのである。
終章では、序章で提示された二つの分析視角に沿って、「ブラントの東方政策とは何だったのか」が論じられる。著者は第一に、(バールの思惑とは違う形でドイツ統一は実現したものの)東方政策の「モスクワ第一主義」と「小さな歩みの政策」の組み合わせが、分断克服に重要な役割を果たしたと主張する。また、「全欧」的なヴィジョンに基づき、段階的な分断克服への戦略を有した東方政策が、ヨーロッパの緊張緩和に寄与したことも強調される。第二に、東方政策の推進には、アメリカをはじめとする西側諸国との結束が不可欠だったことが改めて主張される。ブラントが言うように「東方政策は西方政策であり、西方政策はまた東方政策」であった。その意味で東方政策は、冷戦史の一重要事例というだけでなく、ヨーロッパの中央に位置するドイツ外交の構造的な問題を浮き彫りにする事例でもあったのである。
コメント・論点
戦後外交史のなかで、西ドイツの東方政策ほど魅力のある対象はそう多くはない。素人目にも分かるほど(実際、評者は狭義の外交史については素人同然なのだが)、東方政策には「外交」の魅力が無限に詰まっている。専ら日本外交に関心がある向きにも、「政権交代と外交政策の転換」や「対米関係の重み」などお馴染みのテーマに関して比較が可能だろう。しかし、そうした問答無用の重要性ゆえ、東方政策については同時代から膨大な量の文献が積み上げられてきた。
こうした数多の研究のなかで本書が際立っている点は(著者自身が言明するオリジナリティに加え)、明晰さとバランス感覚である。本書は、時系列の物語ではなく、テーマ毎の列柱式の構造を有するが、それで読者が混乱することはない。全体像は明確で、各章間を繋ぐ叙述も行き届いている。また個人的に感嘆したのは、先行研究と公刊史料と未公刊史料の参照のバランスである。本書を読むと、如何に二次文献と公刊史料を十分に咀嚼したうえで文書館史料が用いられているかが分かる(基本のようでいて、実はこの点をクリアしている歴史研究はそう多くはない)。先行研究との対話を常に意識しながら、あくまで史料にドラマを語らせる叙述は、歴史研究のお手本のようであった(実際、本書の魅力は「細部」にあるのだが、この妄評ではそれを伝えることができない)。
こうして本書は、同時代から現在に至るまで党派的な磁場のなかで賞賛/断罪されがちであった東方政策について、冷戦史とドイツ外交史の二つの文脈から客観的な評価を下すことに成功している。「多角的」な本書だけに論点も豊富で多岐に亘るが、以下では若干の疑問点や要望を挙げるに留めよう。
まず本書が強調する「西側との意見調整」の評価の問題である。とりわけ第3章で検討される対ソ交渉時の意見調整については、西側三国の不満が噴出した局面であるだけに、先行研究でも評価が二分するところである。本書は、ここでも「緊密な意見交換が西側諸国の不安を緩和」したと主張するが、「不安」の主体は西側三国であるがゆえに、もう少し西側三国の思惑も知りたかったというのが率直な感想である。
また、ブラント政権の欧州統合政策をどう評価し位置づけるかは、研究史において「[東方政策に隠れた]影のような存在」だったが(Ulrich Lappenküper, Die Aussenpolitik der Bundesrepublik Deutschland 1949 bis 1990, Oldenbourg, 2008, S.99)、本書は、「積極的なヨーロッパ統合への関与のアピールは、東方政策の成功に不可欠である西側諸国との意見調整においても重要な役割を果たした」(150頁)とし、東方政策と欧州政策との連関を明らかにしている。では、ブラント政権にとってヨーロッパ統合は飽くまで東方政策を推進するためのレトリックに過ぎなかったのだろうか。この疑問自体は東方政策研究である本書には無いもの強請りだが、ここから論点を広げたい。
そもそもバールは、本書8頁や38頁で指摘されるように、西欧の政治統合には消極的だった。それがドイツ分断を固定化しかねないからである。他方でブラントは、青年時代から熱心な「ヨーロッパ合衆国」主義者だったと指摘される(Vgl. Andreas Wilkens (Hg.), Wir sind auf dem richtigen Weg. Willy Brandt und die europäische Einigung, Dietz, 2010)。では、本書が対象とした「西方政策」について、ブラントとバールの構想はどこまで「一致」(45頁注17を参照)していたのだろうか。この点は、「多層性」(13頁)を抱えた東方政策の「主体」の問題、あるいはバール構想と実際の東方政策との関係の問題に繋がっている。本書は、全体として(そう読むべきではないのかもしれないが)バール構想とその実現過程の分析という構造をもつ。だからこそ、バール構想とその「推進者」の関係、そしてブラント政権内部の外交政策決定過程をもう少し明確に描けば、本書の東方政策評価、すなわち「バール構想及びブラントの東方政策の意義」(233頁)に対する評価がより立体的になったのではないだろうか。
最後になるが、本書の特色は、「東西の狭間のドイツ外交」という分析視角をもとに、西側三国との意見調整過程を粒さに追ったところにある。しかし、本書を読んでいて気になるのは、著者がしばしば一括りに語る「西側諸国」の間の濃淡である。つまりブラント政権が西側三国のうち何れを優先していたのか、その序列・優先順位はどうなっていたかが知りたかった。とりわけ、対米重視と対仏重視の関係については、領域・争点ごとにもう少し明確に書いても良かったのではないだろうか(実は読み取れないこともないのだが)。50年代末から60年代の西ドイツ外交における一大テーマが「大西洋主義者(アトランティカー)」対「ゴーリスト」であったことを考えるとき、この点は、著者の言う戦後西ドイツ外交の「継続と変化」の問題に迫る鍵となるだろうからである。
ともあれ、以上のコメントは門外漢による妄評に過ぎず、第一級の外交史研究としての本書の価値を毫も減じるものではない。現在、60年代から70年代のヨーロッパ外交に関する優れた業績が日本でも陸続と出版されている。それらとの相互対話から、今後ヨーロッパ政治外交史研究はより精緻で面白いものとなっていくのだろう(本書の著者によるその試みとして、妹尾哲志「書評 山本健『同盟外交の力学 ― ヨーロッパ・デタントの国際政治史1968-1973』」『ゲシヒテ』第4号、2011年を参照)。