評者:板橋拓己(成蹊大学法学部准教授)
はじめに
2013年はバチカンにとって歴史的な年であった。まず2月に、教皇ベネディクト16世が退位を宣言した。存命中の教皇が自発的に退位するのは、実に1300年ぶりのことである。さらに3月に選出された教皇フランシスコは、初のラテン・アメリカ出身の教皇となった。
この「1300年に一度のチャンス」(「あとがき」)を逃さず、本書『バチカン近現代史』は出版された。とはいえ本書は、教皇交代劇に刺激されて俄仕込みで書かれたものではない。著者は、1848年革命期におけるイギリスの対バチカン外交で博士号を取得しており、すでに英語でモノグラフを出版している(Saho Matsumoto-Best, Britain and the Papacy in the Age of Revolution, 1846-1851, Royal Historical Society, 2003)。長くバチカンと近代国際政治の関わりを考えてきた著者に、歴史が微笑んだのだと言えよう。
本書の構成は以下の通りである。
はじめに
序 章 前近代のバチカン―起源から一七世紀まで
第Ⅰ章 フランス革命の衝撃―超保守主義の台頭
第Ⅱ章 ピウス9世の近代化政策と“豹変”―イタリア王国統一への抵抗
第Ⅲ章 イタリア政治への介入―第一次世界大戦下の多角外交
第Ⅳ章 ムッソリーニ、ヒトラーへの傾斜―バチカン市国成立と第二次世界大戦
第Ⅴ章 ピウス12世の反共産主義―冷戦下、米国への接近
第Ⅵ章 第二バチカン公会議―他宗教との和解と対共産主義・無神論
第Ⅶ章 独自の対共産圏外交の追求―パウロ6世の意図
第Ⅷ章 ポーランド人教皇の挑戦―ベルリンの壁崩壊までの道程
第Ⅸ章 グローバル時代の教皇―宗教・民族紛争への介入
終 章 バチカンと国際政治
この「1300年に一度のチャンス」(「あとがき」)を逃さず、本書『バチカン近現代史』は出版された。とはいえ本書は、教皇交代劇に刺激されて俄仕込みで書かれたものではない。著者は、1848年革命期におけるイギリスの対バチカン外交で博士号を取得しており、すでに英語でモノグラフを出版している(Saho Matsumoto-Best, Britain and the Papacy in the Age of Revolution, 1846-1851, Royal Historical Society, 2003)。長くバチカンと近代国際政治の関わりを考えてきた著者に、歴史が微笑んだのだと言えよう。
本書の構成は以下の通りである。
はじめに
序 章 前近代のバチカン―起源から一七世紀まで
第Ⅰ章 フランス革命の衝撃―超保守主義の台頭
第Ⅱ章 ピウス9世の近代化政策と“豹変”―イタリア王国統一への抵抗
第Ⅲ章 イタリア政治への介入―第一次世界大戦下の多角外交
第Ⅳ章 ムッソリーニ、ヒトラーへの傾斜―バチカン市国成立と第二次世界大戦
第Ⅴ章 ピウス12世の反共産主義―冷戦下、米国への接近
第Ⅵ章 第二バチカン公会議―他宗教との和解と対共産主義・無神論
第Ⅶ章 独自の対共産圏外交の追求―パウロ6世の意図
第Ⅷ章 ポーランド人教皇の挑戦―ベルリンの壁崩壊までの道程
第Ⅸ章 グローバル時代の教皇―宗教・民族紛争への介入
終 章 バチカンと国際政治
内容紹介
まず「はじめに」で、本書の目的が述べられる。近代国家=国民国家の課題は、世俗国家の形成、宗教と政治の分離であった。しかし、国民国家が揺らぎつつある現在、「信者を通じて世界に影響力を誇るバチカンを、グローバルな存在として注目する意味がある」と著者は主張する。顧みれば、バチカンの歴史は「『近代化』に真剣に対応してきた歴史」であった。とくにバチカンの外交は「近代の荒波のなかで生き残りを賭けた展開でもあった」のである。そこで本書の目的は、「バチカンが近代化とどう向き合い、近代化とともに台頭した革命や共産主義とどう闘ってきたか」を、フランス革命の時代から現在まで辿ることに定められる。
序章では、ローマ教皇の成り立ちからフランス革命前夜までのバチカンの歩みが僅か5頁のなかに凝縮される。通例のバチカン史であれば、叙任権闘争や宗教改革に頁の多くを割くところだが、あくまでバチカンの「近代との格闘」をテーマとする本書は、潔く「前近代」を割愛する。その反面、僅かな紙幅のなかで「ウェストファリア体制」の成立を機にバチカンが「近代的な政策」(ヨーロッパ外への布教、ハプスブルク帝国とフランスの間で立ち回る「外交」など)に乗り出したことは特記されている。本書が国際政治史のなかのバチカンを描こうとする意気込みが見て取れる。
第Ⅰ章では、フランス革命やナポレオンに対するバチカンの闘いが論じられる。フランス革命こそ、バチカンの「近代」との格闘の始まりを告げる大事件であった。フランス革命は、宗教を理性に反するものとして排除しようとし、教会と国家の分離を進めたからである。またナポレオンは、教皇が授けるはずの帝冠を自らの手で頂くなど、バチカンの権威に対する挑戦を重ねた。バチカンは、フランス革命に端を発する「近代」の現実と理念の両面にわたる挑戦と闘わねばならなかった。そのなかで目を引くのは、バチカンの国務長官たちの活躍である。たとえばコンサルビ国務長官(在任1800-06, 14-23)は、ナポレオンとの政教条約締結に尽力し、またウィーン会議ではメッテルニヒらと交渉し、革命以前の教皇領をほぼ回復することに成功している。さらに本章では、バチカン内の「ゼランティ」と呼ばれる非妥協派・超保守勢力と、コンサルビやベルネッティ国務長官(在任1831-36)ら「穏健改革派」の二大勢力の対立についても述べられている。そしてレオ12世(在位1823-29)の治世に「超保守主義」が台頭し、グレゴリウス16世(在位1831-1846)治下のバチカンは「超保守主義の時代」にあったことが指摘される。
第Ⅱ章の主役は、ピウス9世(在位1846-78)である。即位当初「覚醒教皇」と呼ばれたピウス9世は、政治犯の恩赦、鉄道敷設の許可、出版検閲法の緩和など一連の自由主義的な政策を実施し、民衆からはイタリア・ナショナリズムの牽引を期待された。しかし1848年革命との対峙から、極端に保守的な政策を採るようになる。さらにサルディーニャ王国によるイタリア統一を前にして、1864年に「謬説表」を発表し、近代的な思想・文化や社会主義・共産主義、そして自由主義までも糾弾するようになる。また1869年12月から第一バチカン公会議を開催し、そこで「教皇不可謬性」を宣言した。しかし1870年にイタリア王国はローマを併合し、教皇の世俗権を剥奪する。この措置に対し、ピウス9世は自らを「バチカンの囚人」と称して、イタリア王国と断交、激しい対決姿勢を採った。ここに「ローマ問題」が生じる。すでに1868年からピウス9世はカトリック信者にイタリア王国議会の投票ボイコットの教令「ノン・エクスペディト」を呼びかけていた。ピウス9世は、いかなる妥協も拒み続け、苦悩のうちに死んだ。一方イタリア王国は、王室式典の非カトリック化、新古典主義に基づく記念像の建立など、反バチカン的な国づくりを進めていく。
第Ⅲ章では、19世紀末から第一次世界大戦までのバチカンとイタリア政治および国際政治との関わりが論じられる。まず重要なのはレオ13世(在位1878-1903)である。レオ13世と言えば1891年の回勅「レールム・ノヴァールム」で有名だが、彼が展開した外交も興味深い。植民地を視野に入れた対英外交や、北米への関与、さらに日本との接触など、グローバル化しつつあるバチカン外交が見て取れる。また、ピウス10世(在位1903-14)時代のバチカンは、カトリック活動団やカトリック選挙連合を通じてジョリッティ期のイタリア政治に影響を与えた。とはいえ本章の主眼は、第一次世界大戦下のベネディクト15世(在位1914-22)による平和外交である。停戦交渉に始まり、三国同盟寄りとの批判を受けつつも、中立的な人道的措置や伊墺間の「未回収地」問題への仲介を試みた。また1917年5月に「七項目の和平条件」を提示するなど和平交渉に乗り出し、戦後はパリ講和会議や国際連盟発足にも関与した。こうした外交は必ずしも成功したわけではないが、著者はベネディクト15世について「積極的な平和外交への功績は大きく、和平交渉や人権問題に本格的に関与した最初の教皇であった」と評価する。またバルカン半島情勢を憂いてギリシャ正教会やロシア正教会との対話を試みたのも彼であった。さらにベネディクト15世は、イタリア人民党の設立も後押ししたのである。
第Ⅳ章では、ムッソリーニ政権やナチス・ドイツに接近するバチカンが描かれる。この時期にバチカンを牽引した三人、ピウス11世(在位1922-39)、ガスパリ国務長官(在任1914-30)、パチェッリ枢機卿(国務長官在任1930-39、のちピウス12世、在位1939-58)は、それぞれソ連、ポーランド、ドイツなどで共産主義に相対した経験から、強い反共主義の持ち主だった。この反共主義が、彼らをムッソリーニやヒトラーに接近させる。1929年2月、ガスパリ国務長官はムッソリーニとラテラノ条約を結び、バチカン市国の独立を果たす(この間の1926年にイタリア人民党は解散を命じられる)。ファシスト政権とバチカンのその後の関係は必ずしも良好とは言えなかったが、ラテラノ以降バチカンは主権国家として外交を展開することになった。さらに1933年7月、パチェッリ国務長官は、ナチス・ドイツと政教条約を結ぶ。ピウス11世は1937年の回勅でナチスを批判するに至るが、以後もバチカンはナチスに寛容であった。第二次世界大戦時におけるピウス12世の一連の行動(ドイツによるポーランド併合の事実上の承認、日本との外交関係の開始、英米への接近)は、すべて反ソ・反共主義に規定されていたと言える。なお本章末には、近年「ヒトラーの教皇」と批判されるピウス12世に対する評価がある。著者はここで、バチカンがナチスの行動に積極的にコミットしたとは言い難いこと、ドイツ政府に直接抗議はしなかったがローマのユダヤ人を匿ったこと、そしてホロコーストについても一定の抗議は行っていたことを指摘している。
第Ⅴ章では、冷戦開始を背景としたバチカンとアメリカの接近が論じられる。建国以来アメリカでは反教皇意識が根強かったが、反ソ・反共キャンペーンではカトリック・ロビーの影響が見られた。F・D・ルーズベルト大統領時代からバチカンとアメリカを繋ぐ重要な役割を担ったのが、ニューヨークの鉄鋼業界の富豪マーロン・テイラーである。テイラーは第二次世界大戦中に大統領の個人特使としてバチカンに派遣され、ユダヤ人難民救済や戦争捕虜問題に尽力する一方、ポルトガルの中立化に成功している。またトルーマン政権下でもテイラーは対バチカン外交を担った。冷戦が本格化するなか、トルーマンは東欧情勢などからバチカンを重視する。またピウス12世も、その反共主義からトルーマンに接近した。ピウス12世の露骨な親米的態度にソ連は反発し、「バチカンは米国の回し者」という宣伝活動を行っている。ピウス12世の反共主義は徹底しており、1949年には教皇庁検邪聖省令を出し、キリスト教徒が共産党に関わることを禁じた。東側陣営の情報収集やフランコ政権への対応をめぐって、バチカンとアメリカは緊密に連携していた。アメリカにとって、内側から共産主義体制を揺さぶるソフトパワーとしてバチカンとの関係は不可欠だったのである。
第Ⅵ章の主題は、ヨハネ23世(在位1958-63)が召集し、パウロ6世(在位1963-78)が引き継いだ、「世紀の大改革」と呼ばれる第二バチカン公会議(1962-65)である。近代的カトリック神学の影響を受けたヨハネ23世は、正教会との和解を念頭に、公会議によるエキュメニズム(教会一致)をめざした。ヨハネ23世は会期中に死去するが、後継のパウロ6世もリベラル派として公会議を進めた。この四年にわたる第二バチカン公会議の意義は大きい。まず、教皇に移動の自由と行動範囲の拡大が認められた。それまで教皇がイタリア国外に出ることは許されなかったが、パウロ6世は飛行機に乗った最初の教皇となり、世界各国への訪問が実現した。また、他宗派・他宗教との歩み寄りが試みられた。とりわけ宗教的反ユダヤ主義の過去の克服や、米国との関係強化のため、ユダヤ教との和解が重視され、1964年1月にパウロ6世のエルサレム訪問が実現した。さらに、「信仰の自由」を初めて公的に保障し、「異教」に対する寛容が示された。他方で、無神論および共産主義は糾弾の対象となった。加えて、公会議では戦争と平和についても議論され、これを機に1965年10月にパウロ6世は国連本部を訪問し、国際平和をアピールしている。
第Ⅶ章では、緊張緩和の時代におけるパウロ6世の外交が検討される。この時代の対共産圏外交で重役を担ったのは、カザローリ外務評議会委員長である。カザローリのもと、バチカンは1966年にユーゴスラヴィアと関係正常化協定を結び、カトリックが多いハンガリーやポーランドと交渉を重ね、ソ連とも接近を試みている。また「東方政策」を掲げたブラントが、1970年7月の時点でパウロ6世と会見し、東方政策への協力を求めていた点は興味深い。さらにバチカンは、1975年のヘルシンキ会議を主導し、その後も人権外交で共産圏に揺さぶりをかけている。他方、バチカンにとって大きなジレンマとなったのが、ラテン・アメリカの「解放の神学」であった。バチカンは、ラテン・アメリカにおける軍事政権下の貧困や抑圧の問題を認識してはいたものの、マルクス主義と結びついた「解放の神学」を容認することはできなかった。
第Ⅷ章の主役は、共産圏であるポーランドのクラクフ大司教から教皇に選出されたヨハネ・パウロ2世(在位1978-2005)である。彼は前任者以上に「解放の神学」に厳しい態度で臨む一方、カザローリを国務長官(在任1979-90)に登用し、万全な体制で対東側外交に取り組んだ。まず1979年に母国ポーランド訪問するとともに、国連安保理総会で人権を尊重しない共産主義国を批判するなど、東側に対する攻勢を強めた。また、暗殺未遂事件を乗り越え、1983年には戒厳令下のポーランドを再度訪問し、現体制批判を行う一方、「連帯」を支持した。その後、ポーランドの戒厳令は解除され、ヨハネ・パウロ2世は実行力を備えた教皇という評価を得るようになる。87年には三度目の母国訪問を果たし、ポーランドの共産党政権崩壊を導いた。本書は、東欧諸国の民主化に対してバチカンが一定の役割を果たしたと評価し、さらにヨハネ・パウロ2世の活躍の影には、カザローリの30年にわたる地道な東方外交の下地があったことを強調する。
第Ⅸ章は、冷戦終焉後のバチカン外交が論じられる。ヨハネ・パウロ2世は、26年7カ月の在位の間に129カ国を訪問するグローバルな外交を展開し、冷戦終結やカトリックの影響力の増大(在位期間中に信者数は倍増)に貢献する一方、宗教・民族紛争への介入も試みた。「人権」という言葉を用いながら、ユーゴスラヴィア紛争への介入、チリのピノチェト政権に対する批判も行った。また、エルサレム訪問など、ユダヤ教やイスラム教との対話に努めた。他方で、ロシア正教会との関係改善も模索している。そして、ヨハネ・パウロ2世の列福、ベネディクト16世(在位2005-2013)の歴史的な退位、初のラテン・アメリカ出身の教皇フランシスコの誕生という最新の動向を記して、本章は閉じられる。
終章では、バチカン外交の意義が三点に絞って挙げられている。第一は、ソフトパワーとしてのバチカンである。バチカンは、近代と格闘しながら、ソフトパワーとして国際政治に影響を与えてきた。たとえば冷戦の起源について著者は、「イデオロギー的な冷戦はバチカンによって主導され、バチカンが英米を導いた場面すらあったのではないだろうか」と述べている。第二は、冷戦期の大きなプレイヤーとしてのバチカンである。冷戦の文脈から見ると、たとえば第二バチカン公会議における正教会との和解は共産圏の取り込みと解釈できるし、プロテスタントや英国国教会との和解は英米との関係強化と見ることもできる。そしてバチカンは、冷戦期に東側と直接対話ができた数少ない組織の一つであった。冷戦研究においても、バチカンは注目されるべきなのである。第三は、人権外交と人道的介入の源流としてのバチカンである。21世紀のグローバル社会では宗教の重みを再認識する必要があり、「武器によらないバチカン外交は見習うべき一つの姿であり、平和への途である」と本書は主張する。
序章では、ローマ教皇の成り立ちからフランス革命前夜までのバチカンの歩みが僅か5頁のなかに凝縮される。通例のバチカン史であれば、叙任権闘争や宗教改革に頁の多くを割くところだが、あくまでバチカンの「近代との格闘」をテーマとする本書は、潔く「前近代」を割愛する。その反面、僅かな紙幅のなかで「ウェストファリア体制」の成立を機にバチカンが「近代的な政策」(ヨーロッパ外への布教、ハプスブルク帝国とフランスの間で立ち回る「外交」など)に乗り出したことは特記されている。本書が国際政治史のなかのバチカンを描こうとする意気込みが見て取れる。
第Ⅰ章では、フランス革命やナポレオンに対するバチカンの闘いが論じられる。フランス革命こそ、バチカンの「近代」との格闘の始まりを告げる大事件であった。フランス革命は、宗教を理性に反するものとして排除しようとし、教会と国家の分離を進めたからである。またナポレオンは、教皇が授けるはずの帝冠を自らの手で頂くなど、バチカンの権威に対する挑戦を重ねた。バチカンは、フランス革命に端を発する「近代」の現実と理念の両面にわたる挑戦と闘わねばならなかった。そのなかで目を引くのは、バチカンの国務長官たちの活躍である。たとえばコンサルビ国務長官(在任1800-06, 14-23)は、ナポレオンとの政教条約締結に尽力し、またウィーン会議ではメッテルニヒらと交渉し、革命以前の教皇領をほぼ回復することに成功している。さらに本章では、バチカン内の「ゼランティ」と呼ばれる非妥協派・超保守勢力と、コンサルビやベルネッティ国務長官(在任1831-36)ら「穏健改革派」の二大勢力の対立についても述べられている。そしてレオ12世(在位1823-29)の治世に「超保守主義」が台頭し、グレゴリウス16世(在位1831-1846)治下のバチカンは「超保守主義の時代」にあったことが指摘される。
第Ⅱ章の主役は、ピウス9世(在位1846-78)である。即位当初「覚醒教皇」と呼ばれたピウス9世は、政治犯の恩赦、鉄道敷設の許可、出版検閲法の緩和など一連の自由主義的な政策を実施し、民衆からはイタリア・ナショナリズムの牽引を期待された。しかし1848年革命との対峙から、極端に保守的な政策を採るようになる。さらにサルディーニャ王国によるイタリア統一を前にして、1864年に「謬説表」を発表し、近代的な思想・文化や社会主義・共産主義、そして自由主義までも糾弾するようになる。また1869年12月から第一バチカン公会議を開催し、そこで「教皇不可謬性」を宣言した。しかし1870年にイタリア王国はローマを併合し、教皇の世俗権を剥奪する。この措置に対し、ピウス9世は自らを「バチカンの囚人」と称して、イタリア王国と断交、激しい対決姿勢を採った。ここに「ローマ問題」が生じる。すでに1868年からピウス9世はカトリック信者にイタリア王国議会の投票ボイコットの教令「ノン・エクスペディト」を呼びかけていた。ピウス9世は、いかなる妥協も拒み続け、苦悩のうちに死んだ。一方イタリア王国は、王室式典の非カトリック化、新古典主義に基づく記念像の建立など、反バチカン的な国づくりを進めていく。
第Ⅲ章では、19世紀末から第一次世界大戦までのバチカンとイタリア政治および国際政治との関わりが論じられる。まず重要なのはレオ13世(在位1878-1903)である。レオ13世と言えば1891年の回勅「レールム・ノヴァールム」で有名だが、彼が展開した外交も興味深い。植民地を視野に入れた対英外交や、北米への関与、さらに日本との接触など、グローバル化しつつあるバチカン外交が見て取れる。また、ピウス10世(在位1903-14)時代のバチカンは、カトリック活動団やカトリック選挙連合を通じてジョリッティ期のイタリア政治に影響を与えた。とはいえ本章の主眼は、第一次世界大戦下のベネディクト15世(在位1914-22)による平和外交である。停戦交渉に始まり、三国同盟寄りとの批判を受けつつも、中立的な人道的措置や伊墺間の「未回収地」問題への仲介を試みた。また1917年5月に「七項目の和平条件」を提示するなど和平交渉に乗り出し、戦後はパリ講和会議や国際連盟発足にも関与した。こうした外交は必ずしも成功したわけではないが、著者はベネディクト15世について「積極的な平和外交への功績は大きく、和平交渉や人権問題に本格的に関与した最初の教皇であった」と評価する。またバルカン半島情勢を憂いてギリシャ正教会やロシア正教会との対話を試みたのも彼であった。さらにベネディクト15世は、イタリア人民党の設立も後押ししたのである。
第Ⅳ章では、ムッソリーニ政権やナチス・ドイツに接近するバチカンが描かれる。この時期にバチカンを牽引した三人、ピウス11世(在位1922-39)、ガスパリ国務長官(在任1914-30)、パチェッリ枢機卿(国務長官在任1930-39、のちピウス12世、在位1939-58)は、それぞれソ連、ポーランド、ドイツなどで共産主義に相対した経験から、強い反共主義の持ち主だった。この反共主義が、彼らをムッソリーニやヒトラーに接近させる。1929年2月、ガスパリ国務長官はムッソリーニとラテラノ条約を結び、バチカン市国の独立を果たす(この間の1926年にイタリア人民党は解散を命じられる)。ファシスト政権とバチカンのその後の関係は必ずしも良好とは言えなかったが、ラテラノ以降バチカンは主権国家として外交を展開することになった。さらに1933年7月、パチェッリ国務長官は、ナチス・ドイツと政教条約を結ぶ。ピウス11世は1937年の回勅でナチスを批判するに至るが、以後もバチカンはナチスに寛容であった。第二次世界大戦時におけるピウス12世の一連の行動(ドイツによるポーランド併合の事実上の承認、日本との外交関係の開始、英米への接近)は、すべて反ソ・反共主義に規定されていたと言える。なお本章末には、近年「ヒトラーの教皇」と批判されるピウス12世に対する評価がある。著者はここで、バチカンがナチスの行動に積極的にコミットしたとは言い難いこと、ドイツ政府に直接抗議はしなかったがローマのユダヤ人を匿ったこと、そしてホロコーストについても一定の抗議は行っていたことを指摘している。
第Ⅴ章では、冷戦開始を背景としたバチカンとアメリカの接近が論じられる。建国以来アメリカでは反教皇意識が根強かったが、反ソ・反共キャンペーンではカトリック・ロビーの影響が見られた。F・D・ルーズベルト大統領時代からバチカンとアメリカを繋ぐ重要な役割を担ったのが、ニューヨークの鉄鋼業界の富豪マーロン・テイラーである。テイラーは第二次世界大戦中に大統領の個人特使としてバチカンに派遣され、ユダヤ人難民救済や戦争捕虜問題に尽力する一方、ポルトガルの中立化に成功している。またトルーマン政権下でもテイラーは対バチカン外交を担った。冷戦が本格化するなか、トルーマンは東欧情勢などからバチカンを重視する。またピウス12世も、その反共主義からトルーマンに接近した。ピウス12世の露骨な親米的態度にソ連は反発し、「バチカンは米国の回し者」という宣伝活動を行っている。ピウス12世の反共主義は徹底しており、1949年には教皇庁検邪聖省令を出し、キリスト教徒が共産党に関わることを禁じた。東側陣営の情報収集やフランコ政権への対応をめぐって、バチカンとアメリカは緊密に連携していた。アメリカにとって、内側から共産主義体制を揺さぶるソフトパワーとしてバチカンとの関係は不可欠だったのである。
第Ⅵ章の主題は、ヨハネ23世(在位1958-63)が召集し、パウロ6世(在位1963-78)が引き継いだ、「世紀の大改革」と呼ばれる第二バチカン公会議(1962-65)である。近代的カトリック神学の影響を受けたヨハネ23世は、正教会との和解を念頭に、公会議によるエキュメニズム(教会一致)をめざした。ヨハネ23世は会期中に死去するが、後継のパウロ6世もリベラル派として公会議を進めた。この四年にわたる第二バチカン公会議の意義は大きい。まず、教皇に移動の自由と行動範囲の拡大が認められた。それまで教皇がイタリア国外に出ることは許されなかったが、パウロ6世は飛行機に乗った最初の教皇となり、世界各国への訪問が実現した。また、他宗派・他宗教との歩み寄りが試みられた。とりわけ宗教的反ユダヤ主義の過去の克服や、米国との関係強化のため、ユダヤ教との和解が重視され、1964年1月にパウロ6世のエルサレム訪問が実現した。さらに、「信仰の自由」を初めて公的に保障し、「異教」に対する寛容が示された。他方で、無神論および共産主義は糾弾の対象となった。加えて、公会議では戦争と平和についても議論され、これを機に1965年10月にパウロ6世は国連本部を訪問し、国際平和をアピールしている。
第Ⅶ章では、緊張緩和の時代におけるパウロ6世の外交が検討される。この時代の対共産圏外交で重役を担ったのは、カザローリ外務評議会委員長である。カザローリのもと、バチカンは1966年にユーゴスラヴィアと関係正常化協定を結び、カトリックが多いハンガリーやポーランドと交渉を重ね、ソ連とも接近を試みている。また「東方政策」を掲げたブラントが、1970年7月の時点でパウロ6世と会見し、東方政策への協力を求めていた点は興味深い。さらにバチカンは、1975年のヘルシンキ会議を主導し、その後も人権外交で共産圏に揺さぶりをかけている。他方、バチカンにとって大きなジレンマとなったのが、ラテン・アメリカの「解放の神学」であった。バチカンは、ラテン・アメリカにおける軍事政権下の貧困や抑圧の問題を認識してはいたものの、マルクス主義と結びついた「解放の神学」を容認することはできなかった。
第Ⅷ章の主役は、共産圏であるポーランドのクラクフ大司教から教皇に選出されたヨハネ・パウロ2世(在位1978-2005)である。彼は前任者以上に「解放の神学」に厳しい態度で臨む一方、カザローリを国務長官(在任1979-90)に登用し、万全な体制で対東側外交に取り組んだ。まず1979年に母国ポーランド訪問するとともに、国連安保理総会で人権を尊重しない共産主義国を批判するなど、東側に対する攻勢を強めた。また、暗殺未遂事件を乗り越え、1983年には戒厳令下のポーランドを再度訪問し、現体制批判を行う一方、「連帯」を支持した。その後、ポーランドの戒厳令は解除され、ヨハネ・パウロ2世は実行力を備えた教皇という評価を得るようになる。87年には三度目の母国訪問を果たし、ポーランドの共産党政権崩壊を導いた。本書は、東欧諸国の民主化に対してバチカンが一定の役割を果たしたと評価し、さらにヨハネ・パウロ2世の活躍の影には、カザローリの30年にわたる地道な東方外交の下地があったことを強調する。
第Ⅸ章は、冷戦終焉後のバチカン外交が論じられる。ヨハネ・パウロ2世は、26年7カ月の在位の間に129カ国を訪問するグローバルな外交を展開し、冷戦終結やカトリックの影響力の増大(在位期間中に信者数は倍増)に貢献する一方、宗教・民族紛争への介入も試みた。「人権」という言葉を用いながら、ユーゴスラヴィア紛争への介入、チリのピノチェト政権に対する批判も行った。また、エルサレム訪問など、ユダヤ教やイスラム教との対話に努めた。他方で、ロシア正教会との関係改善も模索している。そして、ヨハネ・パウロ2世の列福、ベネディクト16世(在位2005-2013)の歴史的な退位、初のラテン・アメリカ出身の教皇フランシスコの誕生という最新の動向を記して、本章は閉じられる。
終章では、バチカン外交の意義が三点に絞って挙げられている。第一は、ソフトパワーとしてのバチカンである。バチカンは、近代と格闘しながら、ソフトパワーとして国際政治に影響を与えてきた。たとえば冷戦の起源について著者は、「イデオロギー的な冷戦はバチカンによって主導され、バチカンが英米を導いた場面すらあったのではないだろうか」と述べている。第二は、冷戦期の大きなプレイヤーとしてのバチカンである。冷戦の文脈から見ると、たとえば第二バチカン公会議における正教会との和解は共産圏の取り込みと解釈できるし、プロテスタントや英国国教会との和解は英米との関係強化と見ることもできる。そしてバチカンは、冷戦期に東側と直接対話ができた数少ない組織の一つであった。冷戦研究においても、バチカンは注目されるべきなのである。第三は、人権外交と人道的介入の源流としてのバチカンである。21世紀のグローバル社会では宗教の重みを再認識する必要があり、「武器によらないバチカン外交は見習うべき一つの姿であり、平和への途である」と本書は主張する。
コメント
本書は、外交を中心にしてバチカンの近現代史を描いた日本で初めての書であり、貴重な成果である(バチカンと近代の関わりを正面から扱った邦語の概説書としては、これまで翻訳のK・アーレティン『カトリシズム―教皇と近代世界』(沢田昭夫訳、平凡社、1973年)くらいしかなかった)。また、バチカン秘密文書館所蔵史料をはじめとする貴重な一次資料に基づいている点も、本書の価値を高めている。
日本における歴史叙述は近代主義の刻印が強く、それゆえ、バチカンのような一見すると「プレ・モダン」あるいは「アンチ・モダン」な宗教的アクターは近現代史叙述から抜け落ちる傾向にあった。たとえば、高等学校の「世界史」の教科書では、教皇は宗教改革以降ほとんど姿を消してしまう。関連して、評者が専門とするヨーロッパ政治史の分野でも、たとえばキリスト教民主主義研究は、その重要性にもかかわらず、ようやく冷戦終焉以降に本格的に着手された分野であった(田口晃・土倉莞爾編『キリスト教民主主義と西ヨーロッパ政治』木鐸社、2008年を参照)。しかし本書を読めば、バチカンが決して単純なプレ・モダンでもなければアンチ・モダンでもなく、近代と格闘し、ときには近代の一部を貪欲に摂取して生き延びてきたことを知るだろう。
以下では、本書への批判や疑問というよりも、評者の専門であるヨーロッパ政治史の観点から、本書をうけて提示できる論点をいくつか挙げてみたい。
まず評者が関心を寄せるのは、バチカンと近代民主主義との関係である。そもそもバチカンが明示的に民主主義を肯定するのは、第二バチカン公会議後の回勅「喜びと希望」においてであり、1960年代のことである。それ以前の(そして部分的にはそれ以後も)バチカンと民主主義の関係は両義的であった。この点でとくに重要なのが、近代政治のアクターとなるキリスト教民主主義および宗派政党との関係である。本書は、宗派政党成立におけるバチカンの積極的な役割(のみ)を強調しているが(たとえば83頁)、宗派政党の成立と組織化にとってバチカンの役割は両義的であり、ときには自立した組織形成の阻害要因として働いたことに注意したい(Cf. Stathis N. Kalyvas, The Rise of Christian Democracy in Europe, Ithaca: Cornell U.P., 1996, pp. 174-187)。詳しくは立ち入らないが、バチカンや高位聖職者と「現場」の平信徒や政党指導者たちとの間には緊張関係があったのである。この点は、本書のようにバチカンを「パワー」として考えたときに重要な意味を持つのではないだろうか。
また、第二次世界大戦後の大陸ヨーロッパにおけるキリスト教民主主義政党の創設・再建とバチカンの関係も面白い点だろう。第二次世界大戦直後を扱う第5章では対米関係に重きがおかれ、イタリアのキリスト教民主党以外触れられないが、後のヨーロッパ政治におけるキリスト教民主主義政党の重みを考えるならば、バチカンの戦後ヨーロッパ政治への関与、さらにはヨーロッパ統合との関係も知りたいところである(バチカンと初期のヨーロッパ統合につき、Philippe Chenaux, Une Europe Vaticane? Entre le Plan Marshall et les Traités de Rome, Ciaco, 1990)。
さらに、バチカンと「近代」を考えるにあたって、1931年の回勅「クアドラジェシモ・アノ」には一言触れてもよかったのではないだろうか。本回勅は、端的に言えば、原子的な個人主義に対する批判と、国家全能主義に対する批判であるが、これがまさにバチカンの「近代に対する格闘」を象徴していると評者は考えるからである。と同時に、この回勅は近代民主政治にとって、やはり両義的な意味を持った。確かに、本回勅はファシズム国家に対抗する文脈で登場したものである。しかし、たとえば1930年代以降に成立するオーストリアの権威主義体制(いわゆるオーストロ・ファシズム)やポルトガルのサラザール独裁体制、フランスのヴィシー体制は、この回勅に依拠して自己の体制を正統化することができた。さらに興味深いのは、この回勅が提示する「補完性の原理」が、マーストリヒト条約以来、EUの統治原理として採用されていることであろう。この回勅は、ファシズムからヨーロッパ統合まで、ヨーロッパ政治の重要問題と深い関わりを持っているのである。
最後は、本書のテーマであるバチカンの「近代との格闘」というときの「近代」の中身の問題である。バチカンは、世俗国家との闘いのなかで、自らも主権国家となり、近代テクノロジーも貪欲に取り入れていく。本書も後半に入ると、バチカンの「近代との格闘」は、ほぼ共産主義との闘いと同義になっている。では、バチカンにとって「近代」の何が許容可能であり、何が許容不可能だったのだろうか。歴史的変遷も含め、突き詰めていくと面白いと思われる。
ともあれ、本書はとにかく読んでいて楽しい。評者もそうだったが、本書を手にとられた方は、著者の軽妙な文体に誘われて、ページをめくる手が止まらなくなるだろう。そして、本書を読み終えたとき、近現代史がこれまでとは少し違ったかたちで見えてくるに違いない。
日本における歴史叙述は近代主義の刻印が強く、それゆえ、バチカンのような一見すると「プレ・モダン」あるいは「アンチ・モダン」な宗教的アクターは近現代史叙述から抜け落ちる傾向にあった。たとえば、高等学校の「世界史」の教科書では、教皇は宗教改革以降ほとんど姿を消してしまう。関連して、評者が専門とするヨーロッパ政治史の分野でも、たとえばキリスト教民主主義研究は、その重要性にもかかわらず、ようやく冷戦終焉以降に本格的に着手された分野であった(田口晃・土倉莞爾編『キリスト教民主主義と西ヨーロッパ政治』木鐸社、2008年を参照)。しかし本書を読めば、バチカンが決して単純なプレ・モダンでもなければアンチ・モダンでもなく、近代と格闘し、ときには近代の一部を貪欲に摂取して生き延びてきたことを知るだろう。
以下では、本書への批判や疑問というよりも、評者の専門であるヨーロッパ政治史の観点から、本書をうけて提示できる論点をいくつか挙げてみたい。
まず評者が関心を寄せるのは、バチカンと近代民主主義との関係である。そもそもバチカンが明示的に民主主義を肯定するのは、第二バチカン公会議後の回勅「喜びと希望」においてであり、1960年代のことである。それ以前の(そして部分的にはそれ以後も)バチカンと民主主義の関係は両義的であった。この点でとくに重要なのが、近代政治のアクターとなるキリスト教民主主義および宗派政党との関係である。本書は、宗派政党成立におけるバチカンの積極的な役割(のみ)を強調しているが(たとえば83頁)、宗派政党の成立と組織化にとってバチカンの役割は両義的であり、ときには自立した組織形成の阻害要因として働いたことに注意したい(Cf. Stathis N. Kalyvas, The Rise of Christian Democracy in Europe, Ithaca: Cornell U.P., 1996, pp. 174-187)。詳しくは立ち入らないが、バチカンや高位聖職者と「現場」の平信徒や政党指導者たちとの間には緊張関係があったのである。この点は、本書のようにバチカンを「パワー」として考えたときに重要な意味を持つのではないだろうか。
また、第二次世界大戦後の大陸ヨーロッパにおけるキリスト教民主主義政党の創設・再建とバチカンの関係も面白い点だろう。第二次世界大戦直後を扱う第5章では対米関係に重きがおかれ、イタリアのキリスト教民主党以外触れられないが、後のヨーロッパ政治におけるキリスト教民主主義政党の重みを考えるならば、バチカンの戦後ヨーロッパ政治への関与、さらにはヨーロッパ統合との関係も知りたいところである(バチカンと初期のヨーロッパ統合につき、Philippe Chenaux, Une Europe Vaticane? Entre le Plan Marshall et les Traités de Rome, Ciaco, 1990)。
さらに、バチカンと「近代」を考えるにあたって、1931年の回勅「クアドラジェシモ・アノ」には一言触れてもよかったのではないだろうか。本回勅は、端的に言えば、原子的な個人主義に対する批判と、国家全能主義に対する批判であるが、これがまさにバチカンの「近代に対する格闘」を象徴していると評者は考えるからである。と同時に、この回勅は近代民主政治にとって、やはり両義的な意味を持った。確かに、本回勅はファシズム国家に対抗する文脈で登場したものである。しかし、たとえば1930年代以降に成立するオーストリアの権威主義体制(いわゆるオーストロ・ファシズム)やポルトガルのサラザール独裁体制、フランスのヴィシー体制は、この回勅に依拠して自己の体制を正統化することができた。さらに興味深いのは、この回勅が提示する「補完性の原理」が、マーストリヒト条約以来、EUの統治原理として採用されていることであろう。この回勅は、ファシズムからヨーロッパ統合まで、ヨーロッパ政治の重要問題と深い関わりを持っているのである。
最後は、本書のテーマであるバチカンの「近代との格闘」というときの「近代」の中身の問題である。バチカンは、世俗国家との闘いのなかで、自らも主権国家となり、近代テクノロジーも貪欲に取り入れていく。本書も後半に入ると、バチカンの「近代との格闘」は、ほぼ共産主義との闘いと同義になっている。では、バチカンにとって「近代」の何が許容可能であり、何が許容不可能だったのだろうか。歴史的変遷も含め、突き詰めていくと面白いと思われる。
ともあれ、本書はとにかく読んでいて楽しい。評者もそうだったが、本書を手にとられた方は、著者の軽妙な文体に誘われて、ページをめくる手が止まらなくなるだろう。そして、本書を読み終えたとき、近現代史がこれまでとは少し違ったかたちで見えてくるに違いない。
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