評者:板橋拓己(成蹊大学法学部教授)
はじめに
現在のドイツ、すなわちドイツ連邦共和国は「民主的かつ社会的な連邦国家」である(基本法第20条第1項)。このことは、憲法改正手続によっても変えることができない国家の根本原則とされている(同第79条第3項、いわゆる「恒久条項」)。なかでも、各州政府の代表から構成される連邦参議院は、連邦制を体現する存在であり、日本でも参議院改革論のなかで一つの範例として参照されることも少なくない。
それにしても、なぜドイツは連邦制を採用しているのだろうか? しばしばこの問いに対しては、連邦制こそが、神聖ローマ帝国以来のドイツの「伝統」だからだと答えられてきた。しかし、本当にそう片付けてしまってよいのか? こうした問いが本書の根底にある。
本書の「序」で編者の権左武志は、「現在見られるドイツ連邦主義のあり方は、ヴァイマル末期からナチズム期にかけて、一党独裁の単一国家へと改造された後に、第二次世界大戦後に連合国によって再建されたものであり、第二の敗戦という歴史的断絶の所産でもある」(ⅵ頁)ことに注意を促す。単純に「伝統」として語ること、あるいは第二次大戦後に全てがリセットされたかのように語ること(ドイツ史では「零時」と表現される)は許されない。「ドイツ連邦主義の特質は、戦間期における単一国家化の動きと連邦国家化の動きとの相克を視野に入れる時に初めて適切に把握できる」(ⅵ-ⅶ頁)のである。
したがって本書の問いは、「ドイツ連邦制の構造は、第二帝政末期からヴァイマル初期にかけて、また、ヴァイマル崩壊期から戦後再建期にかけて、いかに変容を遂げて断絶しているだろうか、またいかに継承されて連続しているだろうか」というものに設定される。そして、この問いに対して政治史、政治思想史、法制史の各分野から多角的に考察し、「連邦制構造の成立・崩壊・再建の過程とその歴史的特質を解明する」ことが本書の課題とされる。
ドイツ史における分権化と集権化のダイナミズム
ただ最初に述べておかねばならないのは、本書に収められた論文は、それぞれ極めて高い水準の法学・政治学・歴史学研究なのだが、必ずしも全ての論文が上記の問い(=ドイツにおける連邦制・連邦主義の連続と断絶)に正面から答えているわけではないことである。
たとえば、第一章「ヴァイマル憲法制定の審議過程におけるフーゴー・プロイス」(遠藤泰弘著)は、ヴァイマル憲法に導入された直接公選大統領制が、プロイスによるビスマルク憲法改正提案(1917年)におけるライヒ機関としての皇帝という構想に淵源を持つことを丹念に明らかにした労作である。とはいえ、本章では連邦制の問題は後景に退いている。あるいは、第六章「エルンスト・ユンガーのナショナリズム論」(川合全弘著)も、ユンガーのナショナリズムがナチズムよりも遥かに急進的であったが故に、彼がナチを退けることになった経緯を、1920年代の政治評論やゲッベルス日記などから描き出したものだが、連邦制に関する言及はない。
つまり本書は、狭義の連邦制・連邦主義を扱ったものと言うよりは、広くドイツ史における分権化と集権化のダイナミズムを扱った本と言える(直接公選大統領制やナショナリズムは集権化の力学と位置付けられよう)。
以下では、連邦主義・連邦制を直接対象とした論文に絞って紹介することにしよう。そこで、まず読まれるべきは、第九章「ドイツ連邦国家の発展:1870年から1933年まで」(C・シェーンベルガー著、遠藤泰弘訳)である。本章は、ドイツ連邦国家の発展プロセスを、各時代間の連続面と断絶面に注目しつつ平易に論じたものであり、評者としては、専門家以外の方々には本章から読み始めることをお薦めしたい。
ヴァイマル共和国下の連邦主義をめぐる力学
さて、第五章「危機の共和国と新しい憲法学」で林知更が述べるように、ヴァイマル共和国は、「民主政の失敗事例」であるとともに、国家や憲法の基本問題について根源的な議論が行われた「知的な黄金時代」としての側面も有している(122頁)。
連邦制に関して言えば、ビスマルク帝国(第二帝政)の連邦国家がプロイセンのヘゲモニーによって支えられていた一方、ヴァイマル共和国はプロイセン自体を解体することなく、しかしその特権的な役割を剥奪することで構造を大きく変化させた。もはやプロイセンが連邦と州を繋ぎ止める連結部としての役割を果たすことはなくなった。さらに、諸邦の君主たちの水平的な友誼や礼譲をひとつの支えとしたビスマルク帝国に対し、ヴァイマル共和国は連邦もラントも共和政を採用し、君主政連邦国家から共和政連邦国家へと転換したのである。
かかる転換を背景に、それまで第二帝政の国家像と深く結びついていた諸学も変容を迫られる。たとえば、第七章の田口正樹論文(「ヘルマン・オバンとヴァイマル期ドイツの歴史学」)は、これまでその東方研究とナチとの関わりが論じられてきた歴史家オバンの1920年代の「新しい地方史」を取り上げ、それが、君主が消えた後のラントをどう考えるのかという問題に対する一つの学問的応答の試みであったことを明らかにしている。
では、こうした連邦制の変容を前に、連邦制・連邦主義をめぐって、ヴァイマル共和国下ではいかなる知的格闘が繰り広げられたのだろうか。
この点に関し、第二章の飯田芳弘論文は、「ヴァイマル共和国における民主的単一国家論」を扱う。飯田によると、ヴァイマル期の特質は、連邦国家という国家の枠組み自体が、体制内の主要な政治勢力によって正面から政治争点化されたことであるという(これは、民主的な連邦国家であることが不可侵の原則とされた戦後のドイツ連邦共和国と対照的である)。とりわけ課題となったのが、ライヒとプロイセンの二重構造の解消である。ヒンデンブルクが大統領に就任し、国家人民党がライヒ政府に入閣した1925年以来、ヴァイマル連合が政権を掌握するプロイセンと、右傾化するライヒとの間の政治的乖離は拡大していた。そうしたなか、社会民主党と民主党を中心に、数々の単一国家構想が登場し、なかでもプロイセンを中核としてヴァイマル共和国を単一国家化する構想がプロイセン首相ブラウンらから打ち出された。本章は、かかる「民主的単一国家論」について、プロイセン政府に参加してライヒ改革の推進役を担った官僚アルノルト・ブレヒトの動きを通して検討している。
本章で飯田は、「民主的単一国家論」の可能性を論じつつも、むしろその危うさと脆さに注意を促す。ブレヒトが推進したライヒ改革案は実現することなく、1932年7月20日の「プロイセン・クーデタ」を迎えることになった。確かに、「民主的単一国家」が実現していたならば、プロイセン・クーデタを防げたかもしれない。しかし飯田によると、「民主的単一国家論」は、対抗すべき強権的な単一国家論と表面的に類似していることの危険性にあまりに無防備だった。興味深いことに、戦後のブレヒトは、ボン基本法及びドイツ連邦共和国を、それが連邦制であるにもかかわらず擁護する立場に回った。それは、彼がボン基本法の「戦う民主主義」の姿勢を支持したからであると飯田は指摘している。
第三章の大西楠・テア論文(「ライヒ・ラント間の争訟」)は、ヴァイマル憲法で新設された制度である国事裁判所の役割を検討している。国事裁判所は、ラント内の憲法争訟、ラント間の争訟、ライヒ・ラント間の争訟といった、連邦国家で生じる公法上の争訟を解決する制度である(常設ではなく、事件ごとに構成される特別裁判所)。本章は、連邦と邦の間の争訟に法的統制が及ぶ意味を、国法学者ハインリヒ・トリーペルの議論を題材に考察している。
確かに、ビスマルク憲法下で連邦参議院の手中にあった権限が国事裁判所の創設によってライヒの手にわたったという点は、集権主義的な傾向である。しかし他方で、トリーペルによると、国事裁判所の存在は法治国家性の進展の帰結であり、ラントに法的安全と権利保護を与えた。つまり、ヴァイマル憲法下のラントは、かつて連邦参議院で保障されていた同輩による裁判を失ったものの、ライヒに対する法的保護を得たのである。
この点で大西は、プロイセン・クーデタに関しても、それが実力によって解決されたのではなく、国事裁判所で争われたという点に注意を促している。国事裁判所への提訴可能性は、ライヒとラントに法という対等な武器が与えられることを意味した。それゆえ、結果として法治国家としてのヴァイマル憲法体制は崩落するものの、少なくとも1932年7月20日の連邦国家存続の危機に際してラントに法的保障が与えられたこと自体は積極的に評価されてもよいと大西は主張している。
第四章の権左武志論文(「ヴァイマル末期の国法学とカール・シュミットの連邦主義批判」)は、新資料に即して、連邦主義批判こそ、カール・シュミットが国家社会主義に転向した主要因の一つであることを明らかにしたものである。
とりわけ本論文は、1933年2月22日にシュミットが行った講演「連邦・国家・ライヒ」に注目する。この講演の主旨は、ライヒの政治的統一を基準に、プロイセンとライヒの二元主義を批判する点にあった。ここからシュミットは、ライヒを「強力な国家」とすべく、プロイセンとライヒの二元主義を克服するという実践的処方箋を引き出していく。その意味で本講演は、この後シュミットが、授権法制定などを経て、プロイセンをライヒ政府に一体化する「ライヒ総督法」の立法作業に協力する個人的動機を示していると権左は指摘する。1932年10月のライプツィヒ判決から、11月のいくつかの講演、そして2月22日の本講演を経て、4月7日のライヒ総督法に至るまで、ドイツ連邦主義の克服という点で、シュミットの思想には概念上の連続性が見て取れるのである。そして、政治的統一を基準とする連邦主義の批判こそ、1933年1月30日まで非常事態計画の支持者だったシュミットが、4月27日以後に国家社会主義の信奉者へと転向した主要因の一つだったと権左は主張している。33年4月末にナチ党に入党したシュミットが、6月16日のケルン大学就任講演に選んだテーマは、実にドイツの連邦主義(批判)だったのである。
ドイツ連邦共和国はなぜ連邦制なのか
「ボンはヴァイマルではない」。ボン共和国(=西ドイツ=ドイツ連邦共和国)の制度設計に「ヴァイマル共和国の教訓」が活かされたことは、ドイツ政治の教科書等で必ず指摘されることである(たとえば建設的不信任や大統領権限の縮小など)。しかし、連邦制について考えた場合、「ヴァイマルの教訓」が果たしてどの程度ボン共和国の創建時に活かされたのかは、従来必ずしも明らかではなかった。ドイツ連邦共和国の連邦制は、どのような過程で成立し、そこで「ヴァイマルの教訓」はどの程度の役割を果たしたのか? この問いに正面から答えた論文が、第八章「戦後ドイツ連邦制の誕生――戦勝国とドイツとの相克の視角から」(今野元著)である。
今野は、戦後ドイツの連邦制を決定づけたのは、「ヴァイマルの教訓」に学んだ戦後西ドイツ人ではなく、国民社会主義体制及び四カ国占領軍だったとする。ナチ体制の「同質化」政策がラントの割拠体制を本格的に破壊したのち(この点で、ヒトラー政権はヴァイマル共和国が果たせなかった課題を強引に成し遂げたという面がある)、敗戦後に各占領軍が、ドイツの将来像をめぐる一致がないまま、それぞれの思惑でドイツのラントを生み出したのである。また、これまで困難であったプロイセン分割も、「ドイツにおける軍国主義及び反動の担い手だった」として、占領軍によって遂行された。さらに連合国は、ドイツを脱中央集権化することで、自分たちの安全保障を図った。こうしたなか、ドイツ人政治家は連合国の意向を受け容れる以外になかった。とはいえ、彼らも連邦制に必ずしも不満であったわけではない。バイエルンのように連合国の連邦制志向に便乗した勢力もあり、ラント再建に積極的に参画した政治家たちもいた。
基本法を制定した議会評議会の討論では、ドイツ帝国期の連邦参議院やヴァイマル共和国のライヒ参議院の先例も話題となった。社会民主党は、連邦参議院やライヒ参議院が一般国民とは縁遠い機関であったことを問題視し、連邦参議院の復活を阻止しようとしたが失敗した。一方、連邦制を志向したキリスト教民主同盟は、連邦参議院やライヒ参議院がラントの確かな代表機関であることなどを評価し、基本的には彼らの意向が反映されることとなったのである。
本章は、戦後ドイツの連邦制の成立にあたって、占領軍政が決定的だったことを強調しつつ、ドイツ人政治家側の思惑と策動もバランスよく論じたものと言えよう。
おわりに
すでに示唆したように本書は、ドイツにおける連邦制・連邦主義の連続と断絶の問題を体系的に扱ったものと言うよりも、連邦主義をはじめとするドイツ国制の重要論点を、各研究者がそれぞれの得意分野で存分に論じあったものと言える。
その意味で、本書全体に共通したテーゼがあるわけではない。それは、各執筆者による連邦主義への評価の違いからも明らかである。たとえば編者の権左は、「編者自身の見解」として、「ドイツ連邦主義の崩壊と再建は、多数が誤りうるという最初の民主政の失敗から学んで、民主政を考え直し、新たに定義する歴史の学習過程と理解することができる」としている(x頁)。しかし、今野論文が示したのは、ボン共和国における連邦制の再建において「ヴァイマルの教訓」はほとんど重要性を持たず、戦勝国の動きが決定的であったということである(基本法のその他の規定は別である)。
とはいえ、こうした不統一は、個性のある研究者が集った論文集では無理からぬことであり、各著者がそれぞれ真摯に対象に取り組んだ結果であると言えよう。
ただし、本書は各執筆者の個性を尊重したためか用語の表記を統一していないが、これは不親切だっただろう。そもそも、「エステルライヒ」(第一章:9頁、第八章:211頁)という表記からオーストリアと分かる読者がどれほどいるだろうか(しかも第九章には「オーストリア」という表記がある)。他にも、たとえば「国家社会主義」(第四章)と「国民社会主義」(第八章)、「ライヒ刷新同盟」(第二章)と「帝国刷新同盟」(第七章)、「恒久条項」(第二章)と「永遠条項」(第一〇章)をはじめ、多くの用語の不統一が見られた。
いずれにせよ本書は、日本におけるドイツ政治史・政治思想史・法制史の水準の高さを示す論文集である。