都市化の急進展
近年の経済発展に伴って、中国の都市はその様相を一変させた。いまや上海の高層ビルの数はニューヨークよりも多いし、2014年1月現在、上海の地下鉄の総延長は567キロメートルに及ぶ。都市化の波は内陸部にも及ぶ。四川省成都には、高級ブランド店やIMAX映画館、300メートルの屋内ビーチなどを擁する世界最大規模のショッピングモールが営業を始めた。
上海や成都など巨大都市の変貌は都市化の急進展を象徴するものだが、先進国と比較すれば、中国全体の都市化の水準はまだ見劣りがする。とはいえ、そのスピードには目を見張るものがある。公式統計によれば、1978年の中国の都市人口は1億7200万人で、2012年には7億人を超えた。都市人口が総人口に占める割合は、8%足らずから52%に到達した。都市の数も爆発的に増えた。1978年に193であった都市の数は657に増えたが、このうち人口100万人を超える都市は29都市から127都市に増加した。ちなみに最大の人口を擁する重慶市は2900万人とメキシコ・シティの2500万人を抜いて世界第一である(ただし、郊外農村地域を含む)。
もっとも、都市化の実態をみれば、その進展を手放しで喜ぶことはできない。ある行政官僚は、中国の都市化の現状を次のように辛辣に語っている。「わが国の都市化の発展はたしかに猛烈だが、全体から見れば、粗放型発展の道を歩むものだ。ある人曰く、われわれの都市はコンクリートのジャングルであり、混み合った駐車場の上に建てられた人口収容所にすぎない」(翁2014)。
「夢を実現する」都市化だが、問題も多い
都市化は、「中国の夢」を具現化するかけがえのない目標でもある。ノーベル経済学賞を受賞した米国の経済学者、ジョセフ・スティグリッツは次のように言明した。「21世紀の人類の発展にとってカギとなる二つの要素は、米国のイノベーションと中国の都市化である」。スティグリッツが注目するように、都市化の行方は単に中国だけの問題ではない。それは地球規模での経済成長を牽引する原動力になる一方、エネルギーなど資源の需給の逼迫や地球環境問題の深刻化の元凶にもなる。英エコノミスト誌は、中国の都市化がもたらす豊かな可能性と克服すべき課題について、興味深い分析を行っている(The Economist 2014)。
エコノミスト誌によれば、なぜいま都市化に注目が集まるかといえば、外需依存で粗放型の発展パターンから内需依存で内包的発展パターンへの転換をそれが後押しして、経済成長の持続に資すると考えられているからである。2030年までに順調に都市化が進めば、都市人口は10億人を超えると予測される。中国に出現する10億人の消費者は、衣食住のさまざまな側面で巨大な需要をつくりだすし、都市化がもたらす第三次産業の成長が新たな雇用を創出することも期待できる。習近平・李克強政権が都市化を新たな成長戦略の柱に置くのは、少しも驚くことではない。
しかし、都市化を着実に進めるためには乗り越えるべき多くの障害があるし、それが新たな問題を引き起こす可能性もある。第一に、「農民工」と呼ばれる農村からの出稼ぎ者をどう取り扱うかという問題がある。中国では、1958年から厳格な戸籍管理を実施し、農村戸籍者である農民工は、長年都市に居住して定職に就いていても、都市戸籍者と区別され、医療、教育、年金など社会保障のネットワークから排除されている。2010年時点で、都市人口のおよそ3割にあたる2億人が農村戸籍者とされる。戸籍による差別をなくし、これらの農民工を正規の都市住民にするには、戸籍制度の改革やそれと連動した社会保障制度の整備が必要不可欠となる。
第二に、都市化の進展は地方政府による乱開発を引き起こし、不動産バブルの原因となっている。都市化の担い手である地方政府が、郊外区の農村地域で農地を農民から安価に取得し、それを不動産開発会社に高値で販売して暴利を得るという実態がある。財政収入の不足を土地の販売収入で補う構図だが、土地の切り売りはいつまでも続かないし、保障の少なさに不満をもつ農民が「群体性事件」(一般大衆が政府や企業の管理者を相手に集団で起こす抗議行動など)を起こしたり、だれも住む人がいない「鬼城」(ゴーストタウン)が生まれたりしている。
第三に、都市化の進展は、将来、中国共産党の一党独裁体制をゆるがす可能性を秘めている。都市化が順調に進展すれば、比較的裕福な中産階級が生まれ、しだいにその規模が大きくなる。共産党の一党独裁体制は、中産階級のもつ多様な要求をうまく吸収し、適切に処理できるだろうか。また、都市に定着した農民工も、第二世代、第三世代となれば、第一世代のようにモノ言わぬ低賃金労働者の地位に甘んずることはないだろう。将来にわたって現行の政治体制を維持することは容易ではない。
都市化の失われた環
中国の都市化の行方を考える上で、これまで見過ごされてきた重要な環がある。それは、都市の果たす役割や機能を、歴史的視点から見直すことである。歴史的視点から見ると、日本と比較して中国では圧倒的に都市が未発達であったことがよく理解できる。都市化の立ち後れは、人民共和国が作り出したものではなく、帝政時代からの負の遺産なのである。
歴史学者の岡本隆司は、日中の聚落形態を比較して、興味深い事実を指摘した(岡本2011)。図は、清代中国と徳川日本の聚落の規模と階層構造を比較したものである。横軸のローマ数字は、聚落の規模を表す。Ⅰは全国を統べる行政機能をもつ首都で、人口は100万人規模、日本は江戸であり、中国は北京である。Ⅱは全国的な行政、経済機能を有する30万人以上の大都市で、日本なら大阪と京都、中国は南京、蘇州、武漢、広州などである。Ⅲは地域を統べるレベルの都市で人口3万人から30万人、日本は大きな藩の城下町、中国は省都およびその他の都市をさす。Ⅳは人口1万人から3万人、日本でいえば10万石から30万石の城下町、中国では府という行政官庁が置かれた都市にあたる。Ⅴは人口3000人から1万人、日本は小さな城下町や在郷町、中国ではおよそ1100ある県のほぼ半数である。Ⅵは3000人から5000人規模、日本では3万石以下の藩の城下町と在郷町、中国は残り半数の県と、行政機能をもたない市場町をさす。Ⅶは500から3000人の市場町であり、ほとんど行政機能を有さない。他方、縦軸の太線の長さは聚落の数を示している。図では、人口規模を考慮して日本を中国の三倍のスケールで記している。
この図から明らかなように、日本と中国の違いはすそ野の広がりの違い、すなわちⅥ、Ⅶの市場町の数が、中国は日本に比べて圧倒的に多いことである。このことは、日本では行政機能をもたない聚落が相対的に少なく、権力のコントロールが村落まで行き届いていたことを意味し、他方、中国では権力との関係が希薄な市場町が分厚く存在していたことを意味する。 中国において行政機能をもつ都市が相対的に少ないことは、行政が関与しない経済活動には便利かもしれないが、反面、行政サービスの圧倒的な未発達という負の側面を内包するものである。歴史的にみた聚落の階層構造の特徴は、今日の都市化の実態にも色濃く反映されているように思われる。中国語で都市化は「城鎮化」と表現される。「城」はある程度の規模以上の都市を、「鎮」はそれ以下の小さな町を意味する。中国がこれまで進めてきた都市化とは、すでに飽和状態に陥っている特大都市、大都市の発展を抑制し、中小都市とりわけ「鎮」レベルの小都市を発展させるものであった。しかし、それらの小都市をいくら数多く作っても、あるいはそうした小都市が十分な都市機能をもたないまま人口規模だけ大きくなっても、本来の意味での都市化が進んだとはいえないだろう。
数年前、長年の友人で上海の大学に勤めるW教授と京都の夜の街を散策したことがある。清潔で落ち着いた京都の町並みを眺めながら、W教授は「上海が京都になるにはどんなに早くてもあと100年はかかるだろう」と嘆息した。高層ビルや巨大ショッピングモールは作れても、行政機能が有効に働き、病院、公園や劇場などのアメニティがそろった都市を、そう簡単に作りあげることはできない。中国にとっての都市化はいまだ見果てぬ夢なのである。
参考文献
The Economist,“Building the Dream,”April 19th 2014.
岡本隆司『中国「反日」の源流』講談社、2011年。
翁仕友「中国城市化初嘗国際化」『財経』2014年6月16日号(総396期)。